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2013年02月14日

白隠展

 

 渋谷駅に近い、東急本店で白隠展が開かれている。テレビの美術館紹介番組で白隠展が放映され、出掛けてみることにした。デパートで、これだけの企画ができるというのも東京ならではある。
 白隠禅師(一六八六~一七六九)は、江戸時代中期の禅僧で、臨済宗の中興の祖と言われる。静岡の商人の三男として生まれ、幼くして出家し、全国を行脚し悟りを開いた。禅宗では不立文字ということが真髄とされるが、多くの書物を書き、各地に説教してまわり、独学ではあったが多くの禅画や書を残している。五〇〇年に一人の英僧と言われるが、その画や書はきわめてユニークである。
 次の話は、岡潔の随筆で知ったのだが、白隠の境地の一面を良く伝えている。話の内容は概略すると次のようなものであった。
 白隠を日頃尊敬する男の娘が懐妊した。相手は誰かと執拗に娘に聞くが答えない。追及が鋭く、とうとう娘は、相手は白隠だと言った。父親が尊敬する白隠なら許されると思い嘘をついたのである。子供が生まれると、その子を白隠のもとに渡し、罵りながら僧の身でありながら非業を攻めた。白隠は、申し開きもせず
「あ、そうかい」
と一言いって、子供に乳を飲まそうと奔走した。弟子たちも呆れて白隠のもとを去って行った。そんな様子を見て、娘は父親に事の真相を話した。男は、白隠に心から詫びると同時に、子供をひきとったという話である。娘が涙して詫びたことももちろんである。
 この話の引用の中でエッセンシャル(本質的なこと)とトリビアル(末梢的なこと)の違いがわかることの大事さを説明していた。こうした行為は、凡人にはなかなかできるものではない。
 展示会場は、地下一階にあった。テレビで見ているとはいえ、本物は迫力がある。晩年になるほど、筆力があり、構図も大胆で訴えるものがある。「隻履達磨」は、七三歳の作品といわれているが、八〇歳代の作品とも考えられるという。白隠が亡くなったのは八四歳である。この図は、お墓から三年後蘇った達磨大師を描いている。右手に隻履を持っている。もう一つは、墓にあったという伝説に近い話を題材にしている。足は描かれておらず、まるで幽霊のようである。「半身達磨」は、最晩年の作品で朱色が使われ、背景は黒になっている。白隠の達磨図では、良く紹介され有名である。
 即興で書いたというようなものもあるが、禅の教えを表現していることには、変わらない。「布袋提燈釣鐘」や「すたすた坊主」、「お福お灸」などは、実にユーモラスに描かれている。白隠の画集もあるので、どんな絵かは実際にみていただきたい。
 白隠は、若い時から絵を描いているが、晩年のものと違い達磨の図も几帳面に書いている。しかし、高齢になっても丁寧に描かれている物もある。「関羽」は、六九歳の作品であるが、賛も細い楷書体で書かれている。抽象化せず、こうした写実的な絵も描けたのである。この絵は、普段は、白隠が長く住職をしていた静岡県にある松蔭寺に所蔵されている。関羽は三国志に出てくる英雄であるが、日本でも崇拝する人物として知られている。確か、横浜中華街にも祀られていたような気がする。
 白隠の書は、太い文字で描かれているものが多かった。書き初めをやった経験がある人は、字数を考えて均等な文字として書くように先生から指導されたと思うが、白隠は、お構いなしで、最後の文字は窮屈そうである。「南無阿弥陀仏」はわかるが「南無地獄大菩薩」という人はいない。地獄も天国も表裏一体だという心境まで白隠は辿りついたと解説書に書かれている。「百寿福禄寿」は、福禄寿を中央に描き、寿の文字を百の書体で書いている。もはや遊びの世界である。
 せっかくデパートに来たのだから、服の一着ぐらい買おうと、紳士服売り場に立ち寄る。さすがに、デパートの品は高い。天下の東急本店である。安売りコーナーを覗いたらカシミヤ一〇〇%のカーディガンが目に入った。良く見ると中国製である。食品ではないので買うことにした。食事は、店内のレストランで食べず、駅近くの店で食べて、池袋に向かう。
 この日には、もう一か所訪ねてみたい美術館があった。熊谷守一美術館で、現在は、豊島区立の美術館になっている。もともと、晩年熊谷守一が住んでいた家の敷地に、娘の熊谷榧さんが美術館を造ったのである。彼女も画家である。池袋から、地下鉄有楽町線で一駅目の要町駅で下車し、徒歩で八分の場所にある。住宅街の一角にあり、良く見ないと通り過ぎてしまう。一筋間違った道を進み、途中で人に訪ねても要領を得ない返事が返ってきた。
 鉄筋三階建てで、熊谷守一の作品は、一階と二階にあった。熊谷榧さんの作品もあり、喫茶コーナーがあり、なかなか雰囲気の良い美術館になっている。熊谷守一という人は、青木繁と同期の東京美術学校の卒業だが、若い時はそれほど絵を描いていない。初代岐阜市長の息子として生まれたが、父親が死んでからは貧しい生活をした。そのために、肉体労働したこともあり、結婚後も絵が売れず、というよりは描かなかったので子供の病気にも薬も買えず、幼くして死んでしまった子もあった。戦中戦後、その貧しさは変わらなかった。しかし、彼の画力を認める友人があって、ほそぼそと暮らしていた。
 東京音楽学校を卒業し、「海ゆかば」を作曲した信時潔と親しく、熊谷守一の息子が、
信時潔の長女と結婚している。音楽と絵画の違いはあったが、二人の間には深い芸術への共感があったのであろう。それほど上手くはなかったようだが、チェロも弾いていたという。そのチェロと弦も展示されていた。
 熊谷守一は、暮らしぶりから仙人のような印象を世間に与えていたが、愛用のパイプをくわえた風貌はまさに仙人のようである。九七歳と四カ月生きたというからすごい。また、若い時から歯がほとんどなかった。そのため、日露戦争の兵役を逃れることができたという。
 それよりも、驚くのは六〇歳頃からほとんど家を出ず屋敷に植えた木や花、鳥や小動物を観察し絵を描いた。小宇宙の中に人々の魂を癒す絵を描いたのである。子供が書いたようにも見えるが、そうではないのである。白隠と同じように死の寸前まで画境を高めることができた稀有な画家であった。文化勲章も辞退する程、世間欲もなかった。


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