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2013年02月19日

浦賀散歩(2013年2月)

 


 浦賀は、横須賀市の一地域である。深く入りくんだ入り江が良港となり、江戸時代は、問屋が立ち並び、繁栄した。とりわけ、干鰯(ほしか)は、商品の中心であった。江戸時代の後期になると、外国船が浦賀沖に出没するようになり、この地に奉行所が置かれるようになった。
 ペリーの黒船艦隊が、アメリカ大統領の親書を携え、日本に国を開くように求めたのもこの地である。長く鎖国政策を続けてきた幕府も、黒船の出現は、近代技術の差を見せつけられ、自国の防衛の非力を思い知らされた。もはや、外国船を打ち払う能力がないことを思い知らされる。「泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず」この狂歌は誰が作ったのか知らないが、実に良く黒船の日本人に与えた脅威を表現している。上喜撰は、お茶の良質なものという意味である。四杯は、四隻の黒船を意味している。
 幕末に関心を持つ友人がいて、浦賀に行くことになった。横須賀には、何度か足を運んでいるが浦賀に来たことはない。吉田松陰が、海外渡航を企てたのは下田であって、浦賀ではない。個人的には黒船のことは、下田を訪ねたときに終わっている。
 友人は、長く音楽関係の仕事に携わり、近代西洋音楽が日本にどのようにもたらされたかということに関心を持ち続けている。同時に、海に憧れがあるのか造船にも興味を持っている。さらに、銃器のことにも。その結果が浦賀散策同行ということになった。異文化交流ということにより新しい文化が生まれる。私にとって、彼との旅はそのあたりに意味があると思っている。
 横浜から京急で浦賀駅まで行く。浦賀は、海の近くまで丘陵が迫り、丘の上や、斜面の下にも家が建てられ、内陸群馬からすると驚くほどである。大地震があって、津波が来たらどのように避難するのだろうか。そんな心配をするほどの町である。駅の下には造船所らしき建物がある。今はどうなっているのか解らないが、この場所で、日本で最初の洋式帆船が建造されたのである。鳳凰丸という。この建造に携わった人物で中島三郎助という人物がいた。
 最初に訪ねたのは、彼の墓のある東林寺である。函館戦争で亡くなっているので供養塔のようなものかも知れない。幕府の人間として最後まで戦ったことから、ラストサムライと評価する人がいる。息子二人も父親に殉じている。今回の浦賀行きは、この中島三郎助に想いを寄せた友人の動機にあると言ってよい。
 中島三郎助は、浦賀の与力の家に生まれている。与力とは古くは「寄騎」であり武将に加勢する人のことで、下級武士ということになるのだが、江戸時代では、奉行所に務めていることから、行政官、司法官、警察官のような役目と考えて良いかもしれない。基本的には世襲制ではないが、中島三郎助は見習いを経て父親と同様に浦賀奉行所の与力になっている。若い時から武術に優れ、砲術も学んでいる。俳句、和歌、漢詩の素養も身につけている。かなりの秀才であった。
 ぺリーが最初に浦賀に来た時に、交渉役となったのが中島三郎助である。通詞(通訳)を同伴した。ペリーは、国書を将軍に渡そうと考えていたので、幕府高官との交渉を求めた。浦賀奉行は、二回の交渉役として中島三郎助に命じている。外国事情に洞察力を持っている中島三郎助が適任者と考えたのは想像できるが、なぜ自分から出向くことをしなかったのか。今でいう外務省の出先機関は、長崎奉行所である。奉行所の宰が交渉にあたるわけにはいかなかったのであろう。建前の世界である。
老中阿部正広の決断で、久里浜で国書を受理することになる。中島三郎助は、船に招かれ慰労されることになるが、艦内を隈なく案内してもらい、その設備、構造を見聞し、記録したという。とうてい、身分の高い者の行動ではないと、ペリーの乗組員に見抜かれたが、既に交渉後のことである。副奉行と身分を偽って交渉にあたっていたのである。
その後、幕府に軍艦製造の意見書を提出し、建造の責任者となった。そして完成させたのが鳳凰丸である。後に、勝海舟に「やっかい丸」と酷評された船だが、国産ということは、活気的なことには違いない。その後の日本は、海軍力を増強し、戦艦大和を造るまでになる。そして、今も海運国日本の造船技術に引き継がれている。
勝海舟と中島三郎助は、長崎に幕府が創設した海軍伝習所に学んだ。士官としての能力や、技術者としての知識は、勝海舟より勝っているように思える。皮肉なことだが、咸臨丸の艦長には勝海舟が選ばれた。出航前の咸臨丸の修理を指揮したのは、中島三郎助であった。表舞台に出たのは勝海舟で、中島三郎助は裏方になったともいえる。明治の元勲の一人、木戸孝允は、造船技術を知るために中島三郎助のもとを訪ねたことがあり、函館の中島父子の死を悼んだという。明治政府で新国家のために生きてほしかったと考えていたからであろう。それほどの逸材だということを知る人間が、幕府の外にもいたのである。勝海舟、榎本武揚は明治政府の高官となり、華族までなっている。福澤諭吉は、二人の変節的な生き方を批判している。


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