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2013年02月20日

蘭亭序

 


 新聞や、テレビの映像に雛飾りが登場することが多くなった。三月三日の雛の節句が近づいている。今年は、この日が日曜日になる。大宰府天満宮で毎年行われる「曲水の宴」は、広く知られている。春の禊祓いとして平安時代の宮中行事を再現したものである。たまたま、この行事の日に太宰府天満宮を訪ねたことがあるが、人だかりに阻まれて鑑賞できなかった残念な思い出がある。
 この曲水の宴は、中国の故事に由来する。とりわけ、西暦三五三年の三月三日に、蘭亭で催された、書聖として知られる王義之が四一人の名士を招いた曲水の宴が有名である。流れ下る小川に杯を浮かべ、たどり着くまでに詩を作るという趣向である。できないときは杯に注がれた酒を飲まなければならない。この宴の序文を王義之が書いたのが「蘭亭序」である。
東京国立博物館で「王義之展」が開催されている。昨年の十一月には、「中国の至宝展」が開催され、中国の歴史を知る良い機会になった。今回のテーマは、漢字の歴史である。主役はもちろん王義之である。
王義之の書道に占める位置は、どれほどのものがあるのか門外漢には実感として湧かないが、この展示会を見るとなるほどと思うところがあった。とりわけ、「蘭亭序」の紹介コーナーに多くのスペースをさき、入場者をひきつけていた。恥ずかしながら、「蘭亭序」とは何かということすら知らなかったので、新鮮な驚きがあった。王義之とはどのような人物だったのか、概略を示したい。
王義之の生きた時代は、東晋の時代。彼は、三〇三年に生まれ五九歳で亡くなっている。東晋というのは、「死せる孔明、生ける仲達を走らす」で知られる、仲達、即ち司馬氏が興した晋が、匈奴に滅ぼされ、その後に都を東に移し再興した国である。王義之は、貴族であったために、政治家としても活躍した。書にも優れ、今日の漢字の書体の基礎を作ったといえる。そのため書聖と崇め奉られている。
時が経ち、唐の時代になると、貞観の治として後世名君とされる唐の太宗は、大変な書のマニアであった。王義之が残した書の多くを収集し、それを模写させた。惜しむらくは、それらは太宗の死とともに墓に埋葬されてしまったという。苦労して手に入れた「蘭亭序」も同じ運命をたどった。そのため、王義之の真筆とされるものは、現代ほとんど残っていないとされる。しかし、王義之を後世に知らしめた功績は大きい。
「弘法は筆を選ばず」と能筆で知られる空海は、遣唐使として唐に留学した時に、王義之の書の影響を受けた。渡航する前から空海の書のレベルは高く、航海の途中で遣唐使を派遣する公文書を紛失し、空海が新たに公文書を書くことにより入国を許されるということがあった。つまり、中国の公文書の書体が決められていたのである。空海は、それができたということは、既に公文書の書体になっていた王義之の書法を学んでいたことになる。留学中に、磨きをかけたと言っても良い。当時、中国では、科挙の試験に合格するためには、書も学ばなければならなかったのである。
唐代に名高い、書家がいる。政治家であったことも王義之に似ている。顔真卿という。
今回の企画では、その書を見ることができなかったが、空海は、顔真卿の影響を受けているという。安禄山の乱に立ち向かった唐の忠臣であるが、あくまで正義を貫くこの人物の生涯は、栄進と左遷を繰り返し、最後は不運の死で終わる。
現在、小学生から書道は、教科に組み入れられているが、手紙もメールなどの手段を使うことが多くなり、綺麗とは言わなくも、諧書や行書で整った文字を書ける人が少なくなっている。我々の文化も漢字という文字によって成り立っていることを思うと、時には墨を磨って、和紙に漢字を書いてみることがあって良いと思った。


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