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2013年03月04日

中原中也と内海誓一郎

 旅の途中、湯田温泉にある「中原中也記念館」に立ち寄った。中原中也のことは、詩に触れたこともなく、どのような詩人であるかも知らないのであるが、他界した父が、「月夜の晩に、ボタンがひとつ波打ち際に落ちていた」という彼の詩の一節を、幾度となく呟いていた記憶が残っているだけである。しかし、そこから、なんとも言えない情感が漂ってきて、気になる詩人ではあった。
記念館は、生家に建てられていて、湯田温泉街にある。そこで、「内海誓一郎」の名を目にした。既に故人になられているが、この方を20年まえに取材し、記事を書いたことがある。温厚な紳士で当時89歳であった
中原中也と内海誓一郎

 音楽はなぐさめ   内海(うつみ)誓一郎さん(平成三年・春号)
 一九八九年『群像』(講談社発行)二月号に「中原中也と音楽」というタイトルで内海さんの論文が載っている。音楽と作曲に若い時から惹かれていた内海さんは、諸井三郎の主宰する作曲運動の同人団「スルヤ」を通じて中原中也を知ることになった。昭和三年の頃で、中原中也は無名の新人であったが、あるときぶっきらぼうに、 「お前も俺の詩に作曲しろよ」と言って下宿に連れて行かれ、手渡された多くの詩稿の中から『帰郷』という詩に曲をつけることになった。内海さんは作曲するにあたって、その詩の一部の表現を変えた。自分の主張を通す中也は、スンナリ内海さんの考えを認めて曲は完成した。八十六歳の時、こうしたいきさつを『群像』に発表したのである。中原中也を深く調べていた作家の大岡昇平は、内海さんのこの歴史的証言に添え書きを寄せて、自身の研究の正しさが確認されたと述べている。
 内海さんは、第一高等学校から東京帝国大学に進み、理学部で化学を専攻した。化学と音楽という組み合わせがあまりにも対照的なので、お尋ねすると、
 「父が早く他界し、女手一つで育ててくれた母親を心配させないためにも、就職しやすい道を選びました」という答えが返ってきた。当時音楽で生計を立てるなどという発想は、あまりにも冒険的で、肉親の反対は目に見えていた。しかも、戦争へと向う時代背景もあった。
 「私は信仰をもっておりませんが、人を深く感動させる音楽は、神に通ずるものと確信しています。私にとって、音楽は〝なぐさめ〟で多くの人が思うような〝なぐさみ〟ではありません」
内海さんは、バッハの曲にそれを感じるという。とりわけ、『マタイ受難曲』は、神に祈るようにして作られ、それはまた、神から贈られた作品だと、バッハは、作曲に際し涙して筆を進めたことを容易に想像できるという。


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Posted by okina-ogi at 20:08│Comments(0)日常・雑感
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