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2013年03月12日

上野界隈(2013年3月)

 五〇代になって、旅を意識してするようになった。どうした心境でそうなったかと言えば、芭蕉のせいかも知れない。芭蕉は、五〇で人生を終えたが、彼に変わって平成の旅をしてみようというのは言いすぎかも知れないが。
 もう一つの理由は、家族は別だが、日常性というしがらみから、一瞬でも離れてみたいという願望があった。逆に、過去であった友人知己を訪ね、その日常性に触れてみたかったこともある。そのためには、空間を越えなければければならない。芭蕉の時代と違って移動の手段は、格段の進歩があり、時間を大幅に短縮することができる。飛行機であったり、列車であったり、便利を享受するために随分費用もかかっている。もちろん後悔はしていない。
 さらに言うと、時間を越えることもできたのではないかと思っている。歴史を訪ねる旅であったからである。歴史上の人物でも、誰でもよいというわけにはいかない。惹かれない人のところには行かないもので、この点では筋が通っている。これまでに書き綴った紀行などを読み直してみるとそう感じる。そこから、懐かしさの感情も生まれてくるような気もする。
 これからは、六〇代の旅になる。脚力も弱くなり、財力も少なくなるわけだから、近距離の旅を多くしてみようと考えている。手頃な場所があるではないか。東京である。江戸時代の名残をとどめている場所も少なくないだろうし、明治、大正から昭和初期にかけての歴史的建物も、戦災を免れて残っているものもある。遠距離の旅であれば、多くの友人と一緒というわけにはいかないが、東京ならグループで行ける。その道先案内人くらいは務まるかもしれない。職場に、ハイキング同好会のようなものがあって、山登りやら、旧跡めぐりなどしている。いつもは、運転手役である。
 その手始めに提案したのが、上野界隈の散策である。亡くなった俳優の地井武男の「ちい散歩」にあやかって「おぎ散歩」になれば良い。カメラを気にしなくて良いわけだから気楽な散策ができるに違いない。第一回は、上野周辺を選んだ。
 山手線の日暮里駅で降りて、谷中墓地を通り、上野の森へ。東京芸大のキャンパスと奏楽堂に立ち寄り、西洋美術館で「ラファイエロ展」を鑑賞。昼食は、上野精養軒。極めてラフな行程であるが、変更も自由である。列車以外は、なるべく長い距離を歩くことに意味がある。ハイキングなのだから。
今回の企画には、下調べがしてあって、一度このコースを一人で歩いてみたことがある。やはり三月でお彼岸の頃だった記憶がある。谷中墓地の墓調べもしてある。会の皆さんを最初にご案内したのは、五重の塔の跡地。炎上する塔の写真が今回も掲示されていた。
「この塔は、戦災で焼けたのではなく、放火だったのですよ。しかも心中事件のために。あの幸田露伴の『五重塔』の名作のモデルになった塔です」
と、道先案内人の役を果たしたつもり。次にご案内したのが、徳川最後の将軍徳川慶喜公のお墓。前と同じように厳重に囲いがしてある。大河ドラマ「八重の桜」の放映中ということもあり、幕末の歴史について語ろうかと思ったら、墓の解説者がいた。
 解説料を請求されたわけではないからボランティアの人だったのだろう。それにしても詳しい。毎日とは言わないが、天気の良い日にはこの場所に来て訪れる人に説明しているのだろうと想像した。それにしても徳川慶喜びいきの話の内容であった。勝海舟の評価も高い。下手に会津の松平容保を擁護しようものなら険悪なムードになると思い、素直に聴いた。
 「墓の形を不思議と思いませんか。石塔ではありませんよね。皇室と同じ神道の形をとっているのです。代々の将軍は、皆仏教によって埋葬されています。ここに慶喜公の遺言とも言うべき意思があるのです」
なるほど、水戸家は徳川光圀以来勤皇思想が強い。錦の御旗には手向かうわけにはいかなかったのだ。徳川慶喜の恭順の態度がなければ江戸の町は戦火を免れることはできなかった。無血開城をやってのけた勝海舟の手柄もなかったわけだ。
 「この墓地には、奥様(正室)だけでなく、側室の墓もあります。一人ではありません」
 ハイキング仲間から
 「へえ」


 という声が上がる。しかも一二人の子供を産んだというのである。四〇歳になると、側室としての役割は解任になる。女性のハイキング仲間もいるので、これにはビックリしたらしい。政権が終わるのに世継ぎの必要もあるとは思えないのだが。政欲より性欲があった人なのか。徳川慶喜という人は評価が分かれる人だと思った。当時の慣習なのか知らないが、勝海舟にも本妻以外に四人の女性がいて、子供までなしている。この女性を側室とは呼べないが、勝海舟の娘は慶喜の子を養子にし、その墓は慶喜の墓地の近くにある。墓の形も同じである。
 東京芸術大学は、入学試験のために一般の人は身分証明をしないと構内には入れてくれないらしい。岡倉天心像を見てもらいたいと思ったがとりやめにして奏楽堂に向かう。時計は一二時を回っている。
 「三時からパイプオルガンの演奏があります。入場料無料」
先に、昼食をしようということになり、上野精養軒に向かう。すると砂塵が舞い、天侯が急変し帽子も飛ばされそうになる。桜並木に提灯はあるが桜はまだである。ランチにありつけると思ったら、レストラン入口には行列ができている。あきらめて不忍池を渡り東天紅はどうかということになった。
この日は、日曜日とあってランチも高い。グルメが目的ではないので、岩崎邸を見ようということになった。東京散歩の良いところである。企画者として、参加者の希望を良く聞いていなかったという反省がある。同行者の人の娘さんが、この近くに住んでいたことがあったのである。岩崎邸も娘さんを訪ねた時に見たのであろう。岩崎邸も訪問の場所に加えたいと言っていたのを失念していたのである。
 

 上野の国立博物館に何度も行く機会があって、岩崎邸の存在は知っていても足が向くことはなかった。岩崎邸は、三菱財閥の基礎を作った岩崎弥太郎が土地を購入し、息子の岩崎久弥が、著名な建築家コンドルの設計により完成させた洋館である。この建物の印象を書こうとは思はない。事業に成功し、資本家になることは否定しない。しかし、これほどの富が個人と、その末裔にもたされるということには、否定的にならざるを得ない。この館を訪ねなかったのは、無意識の中に岩崎弥太郎という人物の私的欲望を感じていたからだと思う。坂本竜馬とは、どこか違うのである。竜馬が刺客に倒れていなかったならば、岩崎弥太郎を凌ぐ資本家になったとは想像できない。商才があるとないのとの違いではない。
 建物を出ると、岩崎邸の木々が暴風に揺れて、吹雪とはならないでも冬に逆戻りした寒さになった。徳川慶喜、岩崎弥太郎のゆかりの地を訪ね、明治維新を実感したような気がした。時には、自分好みの旅ではなく、同行の人の動機に合わせた旅も良いと思った。岩崎邸の近くに無縁坂と呼ばれる坂がある。この人によって無縁坂も自分にとって無縁ではなくなる。歌になっていても、その意味が解ることが大事である。奏楽堂に戻りパイプオルガンの音色を聴くことができたが、奏楽堂の訪問の印象は、この章とは別にして書きたいと思っている。


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