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2013年03月13日

湯田温泉の春雨(2013年3月)

 旅の途中、湯田温泉にある「中原中也記念館」に立ち寄った。中原中也のことは、詩に触れたこともなく、どのような詩人であるかも知らないのであるが、他界した父が、「月夜の晩に、ボタンがひとつ波打ち際に落ちていた」という彼の詩の一節を、幾度となく呟いていた記憶が残っているだけである。しかし、そこから、なんとも言えない情感が漂ってきて、気になる詩人ではあった。
記念館は、生家に建てられていて、湯田温泉街にある。そこで、「内海誓一郎」名を目にした。既に故人になられているが、この方を二二年前に取材し、記事を書いたことがある。温厚な紳士で当時八九歳であった
音楽はなぐさめ       内海(うつみ)誓一郎さん(平成三年・春号)
 一九八九年『群像』(講談社発行)二月号に「中原中也と音楽」というタイトルで内海さんの論文が載っている。音楽と作曲に若い時から惹かれていた内海さんは、諸井三郎の主宰する作曲運動の同人団「スルヤ」を通じて中原中也を知ることになった。昭和三年の頃で、中原中也は無名の新人であったが、あるときぶっきらぼうに、 「お前も俺の詩に作曲しろよ」と言って下宿に連れて行かれ、手渡された多くの詩稿の中から『帰郷』という詩に曲をつけることになった。内海さんは作曲するにあたって、その詩の一部の表現を変えた。自分の主張を通す中也は、スンナリ内海さんの考えを認めて曲は完成した。八十六歳の時、こうしたいきさつを『群像』に発表したのである。中原中也を深く調べていた作家の大岡昇平は、内海さんのこの歴史的証言に添え書きを寄せて、自身の研究の正しさが確認されたと述べている。
 内海さんは、第一高等学校から東京帝国大学に進み、理学部で化学を専攻した。化学と音楽という組み合わせがあまりにも対照的なので、お尋ねすると、
 「父が早く他界し、女手一つで育ててくれた母親を心配させないためにも、就職しやすい道を選びました」という答えが返ってきた。当時音楽で生計を立てるなどという発想は、あまりにも冒険的で、肉親の反対は目に見えていた。しかも、戦争へと向う時代背景もあった。
 「私は信仰をもっておりませんが、人を深く感動させる音楽は、神に通ずるものと確信しています。私にとって、音楽は〝なぐさめ〟で多くの人が思うような〝なぐさみ〟ではありません」
内海さんは、バッハの曲にそれを感じるという。とりわけ、『マタイ受難曲』は、神に祈るようにして作られ、それはまた、神から贈られた作品だと、バッハは、作曲に際し涙して筆を進めたことを容易に想像できるという。

 中原中也の生誕の年を見ると一九〇七年である。内海さんの方が年上になる。記念館にあった、昭和三年のスルヤの発表会の記念写真を見ると、盛装した内海さんは成人した紳士のように写り、右端にいる中也は学生のようである。
 帰郷という詩はどのようなものなのか。館内で見ることができた。内海さんに再会したような気がした。
   「帰郷」                           中原中也
柱も庭も乾いてゐる
今日は好い天気だ
    縁〈(えん)〉の下では蜘蛛の巣が
    心細さうに揺れてゐる

山では枯木も息を吐〈(つ)〉く
あゝ今日は好い天気だ
    路〈(みち)〉傍〈ばた〉の草影が
    あどけない愁〈(かなし)〉みをする

これが私の故里〈ふるさと〉だ
さやかに風も吹いてゐる
    心置なく泣かれよと
    年増婦〈としま〉の低い声もする

あゝ おまへはなにをして来たのだと……
吹き来る風が私に云ふ

 内海誓一郎作曲の楽譜もあったが、メロディーは、脳裏で奏でることはできなかった。後日、楽譜を手に入れ、旋律だけでも、ギターで弾いてみたいと思った。
 今日、三〇歳という若さで死んだ、当時無名であった中原中也が、有名詩人になった理由が、記念館を訪ねるとわかったような気がする。交友関係に一流の人物が多い。小林秀雄、河上徹太郎、大岡昇平・・・・。とりわけ小林秀雄は、恋敵のような関係にもなったが、中也の詩の魂を理解していた。同県の出身である河上徹太郎は、音楽家諸井三郎との縁を作った。大岡昇平は、中原中也を良く調べ世に広く紹介した。
 有名にした理由は、啄木と同様夭逝したこと。そして、生まれた子供も幼児のうちに死んでしまったこと。それと、今流の言葉でいうイケメンだったということ。ハットをかぶった有名な写真があるが、館内にあるハットの色は葡萄色だった。ただ、素行は、決して良いとは言えなかった。酒を飲むと相手にからむところがあった。あの太宰治さえ辟易したという話が残っている。しかし、自分の才能を他人に認めてもらいたいという願望は人一倍強く、この点は、石川啄木に似ている。
 中原中也記念館の近くにかめ福という旅館があって、食事つきで日帰り温泉のプランがあった。ビールが一本ついて二四〇〇円と手ごろな値段である。湯田温泉街は、春雨が降り続き、山波は煙っている。そうした風景の中温泉につかることができた。新幹線と在来線を乗り継いで、山口市に来たが、夕方五時半までには、下関に辿りつかなければならない。赤間神宮で数学者岡潔の三五年祭が行われる。
 芭蕉の句で
  春雨や蓬を濡らす草の道
というのがある。岡潔は、この句が好きだった。毎年、奈良で墓参会が続けられているが、「春雨忌」という名がついている。中原中也と親しかった小林秀雄は、晩年、岡潔と対談している。『人間の建設』という本になっている。碩学同士の語らいは、深い洞察力がどういうものか教えてくれている。


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Posted by okina-ogi at 07:42│Comments(0)旅行記
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