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2013年03月17日

本居長世と奏楽堂

 東京音楽学校奏楽堂は、明治二十三年に落成し、昭和六十二年に移築され、重要文化財となっている。音楽ホールとして、我が国最古の洋風木造建築である。平成二十五年の四月からは、改修のためにしばらく閉館になる。
 
 
 二階が音楽ホールになっているが、パイプオルガンが備え付けられている。この日も演奏会が開かれていて、その音色を聴くことができた。三月の閉館まで、さまざまなコンサート企画されている。クラッシックが主で、しばしのお別れコンサートという内容である。
 一階が事務室と展示室になっている。東京音楽学校から東京芸術大学と移る中、多くの音楽家を輩出し、その人々の紹介と日本の西洋音楽の歴史がわかるようになっている。
本居長世を紹介する展示室があって、特別企画の展示かと思ったら、常設展示となっている。本居長世は、国学者本居宣長の末裔である。祖父も国学者であった。
 一九八五年(明治一八年)に東京で生まれたが、母親とは一歳の時死別し、養子だった父親も家を去り、祖父に育てられるという幼児期を過ごしている。国学ではなく、音楽の道に進む。東京音楽学校の本科を首席で卒業し、同期には山田耕作がいる。中山晋平、弘田龍太郎は教え子になる。鈴木三重吉の『赤い鳥』に触発された斉藤佐次郎の『金の船』に童謡を作曲し掲載するようになる。名作「赤い靴」、「七つの子」、「青い目の人形」、一五夜お月さん」が野口雨情とのコンビで生まれる。
大正時代、ラジオはなく、本居長世は、得意のピアノを演奏し、長女のみどりと全国を演奏旅行した。やがて、次女も三女も加わり、多くの人に彼の童謡が歌われるようになった。長女のみどりは、童謡歌手の第一号となり、レコード吹き込みも行った。その曲が「十五夜お月さん」であった。
十五年戦争と言われる時代、軍歌を作曲することはなく、本居長世の名前は忘れ去られていくが、東京音楽学校の後輩であった藤山一郎は、本居長世に師事するところがあった。昭和十六年に長女のみどりが亡くなり、長世も体調を崩すようになる。明治天皇の御製に曲をつけるという企画を持ち込まれ、最後は自費で完成させることとなり、経済的にも困窮し、晩年は恵まれなかった。死の直前
「死んでから生きるよ」
と不思議な言葉を繰り返し語り終戦の年に亡くなった。谷中墓地に眠っている。



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