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2013年04月18日

心に浮かぶ歌・句・そして詩113


心に浮かぶ歌・句・そして詩113

朧月夜
1. 菜の花畠に、入日薄れ、
見わたす山の端(は)、霞ふかし。
春風そよふく、空を見れば、
夕月かかりて、にほひ淡し。
2. 里わの火影(ほかげ)も、森の色も、
田中の小路をたどる人も、
蛙(かはづ)のなくねも、かねの音も、
さながら霞める朧月夜。
高野辰之作詞の文部省唱歌である。故郷、紅葉も彼の作品だが、良く歌われている。高野の生地は、長野県で記念館もある。数年前に友人と訪ねたことがある。紀行に書いている。一部抜粋して掲載する。
心に浮かぶ歌・句・そして詩113
善光寺平の春
長野県民だけでなく、多くの日本人に愛されて歌われている曲がある。「故郷(ふるさと)」である。作詞は高野辰之で、長野県豊田村(高野が生れた明治九年は永田村、平成の合併で中野市になった)の出身である。高野の生地は、長野盆地の北の端、飯山市にも近く、山村と言って良い場所である。高野が学んだ、永田小学校の跡地に記念館が建てられている。五月の連休を利用して行ったのだが、古木の桜が散り始め、菜の花が咲く頃で、飯山から野沢温泉にも繋がる国道には菜の花が途切れることなく植えられ、鮮やかに咲いていた。千曲川が沿って流れ、後方の山々には残雪があった。
『ふるさとを創った男』というタイトルの本を書いた猪瀬直樹も長野県の出身である。猪瀬は、良く高野の足跡を取材して書いている。歌というものは、曲は知っていても、誰が作曲したとか作詞は誰かということには関心がいかないものだ。「故郷」は文部省唱歌として音楽の教科書に載ったとき、作詞、作曲共に作者の名前は書かれていなかった。「紅葉」、「春の小川」、「春が来た」、「朧月夜」は、文部省唱歌であり、高野辰之が作詞した。作曲したのは、全て岡野貞一である。岡野は、鳥取県の人で東京音楽学校(現在の東京芸術大学の前身)の教授であった。文部省から高野と同様に、唱歌の編纂委員を委嘱されたために、コンビを組むことになったのである。
高野辰之については、後に詳しく触れたいと思うが、岡野貞一という人は、敬虔なクリスチャンで、謹厳実直という言葉がピッタリの人物だった。また、高野辰之記念館で購入した資料には、「右手のしたことを左手に伝えない人柄」という、クリスチャンの岡野にふさわしい軽妙な人物評があった。対照的に、高野という人物は、立身の志は、充分あったし、豪放磊落に近いところもあり、岡野が寡黙であったのと対極的に、弁舌巧みで、聴衆を話に引き込ませる能力があったという。
二人が世に出した名曲を良く聴いてみると、岡野の清潔で、純粋な魂が響いてくるような気がするし、高野の郷土の山河への愛着が詞の中に溢れていて、しかも自然の豊かさを子供にもわかるように表現されている。「故郷」や「朧月夜」の表現は、やや古文調ではあるが、当時の小学生であれば、充分理解できたのではないだろうか。ただ、「春の小川」は、東京、代々木に流れていた小川のスケッチから生れたと言われているが、やはり幼き日に過ごした郷里の風景が情景になっているのだろう。
高野辰之の生家は、記念館の近くに残っている。立派な塀に囲まれ、屋敷の中を覗いたわけではないが、庭木も丹念に手入れされ、蔵もあり、屋敷も大きい。現在、高野の末裔が住まいにしていると聞いたが、高野辰之には実子はなかったので、養子夫婦の子孫の家なのであろう。道路から見えるところに高野辰之博士の生家と書かれた標識があったが、何か気の毒な感じがした。
高野の生家は、農家であったが決して貧しくはなかった。父親は、仲右衛門と言い、小布施の豪農商であり、佐久間象山とも親交もあり、高齢の葛飾北斎を招いた教養人で知られている高井鴻山が晩年開いていた塾に学んでいたという。父親の教養と知識の影響は、大きかった。
高野辰之は、尋常高等小学校を卒業すると母校の永田尋常小学校の代用教員になる。十四歳の時である。今日で言えば、中学を卒業した少年が小学生を教えるということだが、誰もがなれるわけではない。十七歳で代用教員をやめ、長野師範学校に進む。同窓には、アララギ派の歌人島木赤彦がいた。教員となり、赴任した飯山市(当時は飯山町)の真宗寺の住職の三女井上つる枝と結婚する。この時、つる枝の父親は、
「将来、この山門を偉い人物になって故郷に錦を飾るくらいの人物でなければ、娘はやれない」と言ったと、猪瀬直樹はその著書に書いている。この寺は、島崎藤村の『破戒』に出てくる寺でもある。〝末は博士か大臣か〟というのは、地方の親が持つ子供への期待であり、学問のできた子供は、志を立てたのである。唱歌「故郷」の
「こころざしをはたして、いつの日にか帰らん」
というのは、まさに若き高野自身の正直な決意だったのである。四十九歳の時、『日本歌謡史』によって、東京帝国大学から博士号を送られ、〝こころざしをはたす〟ことになった。
 高野は、若い時から古典文学への関心が強く、とりわけ近松門左衛門の浄瑠璃の世界に魅了された。当時の国文学では本流の研究分野ではなかった。長野師範学校に勤務しながらも、研究は続けられた。その方法は、丹念に古文書を実証的に調べていくことであった。作家円地文子の父親である、当時東京帝国大学の教授で文学博士であった上田萬年(かずとし)に師事しながら教職を辞し、上京するのである。高野が〝こころざしをはたす〟ことができたのは、実力もさることながら、上田博士の後ろ盾があったからである。
 高野辰之は、その研究内容からすれば、国文学者ということになる。たまたま、唱歌の作詞者として後世に名を残す事になったが、本望であったかどうか。晩年は、野沢温泉村に対雲山荘という別荘を持ち、悠々自適な日々を過ごした。誕生地の記念館とは別に、村営の「おぼろ月夜館」があって、高野の業績を伝えている。建物の中には、高野の書斎が復元され、斑山文庫の額が掛けてある。斑山は高野の号であり、豊田村に近い斑尾山からとったものである。信州人は山が好きである。
心に浮かぶ歌・句・そして詩113


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