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2013年04月21日

『春の雲』下関周辺、柳川への旅

下関周辺、柳川への旅
幕末、明治維新の先鋒となった藩の一つが長州藩である。下関市街地の隣が長府で、ここに江戸時代、長州藩の支藩である長府藩庁があった。下関は、長府藩に属していた。商港として栄え、この町が産んだ富が倒幕を支えたであろうことは想像に易い。
赤間神宮の神官、青田國男氏とは二十年来の知己である。横笛の名手で、岡潔の供養の集い「春雨忌」の墓前で吹くその音色は、実に清々しい。人柄も清く、憂国の士そのものである。長州男児の体質を感じる。そのご縁でこの地を踏むことになった。
『春の雲』下関周辺、柳川への旅

 真っ先に訪ねてみたいところがあった。功山寺である。昭和五十二年にNHK大河ドラマ「花神」(司馬遼太郎原作)を見て以来、雪の功山寺を馬に乗って、一人明治維新の義挙ともいうべき行動を起こした高杉晋作のことが忘れられなかったからである。都落ちしていた三条実美らの公家にその意思を告げるためだったというが、彼は、その時「長州男児の心意気をお見せしましょう」と言ったという。
九月、山門に至るモミジは緑を失っていなかったが、門をくぐると晋作の騎馬像が右手にあった。識見あり、詩才あり、行動力あり、その発想も破天荒で革命児にふさわしい。三十年に満たない人生を思い切り駆け抜けたという感じである。自分にないものを持つ人には憧れを持つものである。功山寺境内には長府博物館があって、この地の歴史資料館となっている。坂本龍馬の書簡があった。山際には墓地があり、かつての領主であった大内氏の墓もある。家臣陶氏に滅ぼされたが、陶氏も毛利元就に宮島での戦いで滅びる。栄枯盛衰である。
功山寺にほど近いところに乃木神社がある。日本では人を神にするが、近代になって乃木将軍ほど祀られる人を知らない。東京、京都桃山、四国松山、一時隠遁生活を送った栃木那須にもある。生家を見たが小さな家であった。押入れに入れるはずの寝具が、天井に吊るされている。それほどに狭い。軍人としては無能であったと酷評する史家もいるが、忠君愛国はこの人のためにあるような言葉である。殉死は、江戸期より久しくなかったが、静子夫人とともに明治天皇の大葬の夜、自決したことは、明治の人には衝撃であった。夏目漱石に『こころ』を書かせている。

うつ志世を神さりましゝ大君の
みあと志たひて我はゆくなり
(希典)
 出てましてかへります日のなしときく 
けふの御幸に逢ふそかなしき
(静子)
乃木将軍六十四歳、静子夫人五十四歳であった。遺児はない。二人の男児があったが、ともに日露戦争で戦死した。乃木神社の近くに忌宮神社がある。神功皇后ゆかりの古い宮である。
この夜は、仲秋の名月が見られる日で、青田さんに観月の宴に招かれた。巫女の舞を豊功神社で見た。下関の内海が眺められる高台にあり、月はなかったが満珠、干珠の島影が見えた。
無月なれど満珠干珠の島の影
 その日の二次会は、行政書士、警察官の某氏と青田さんとで、ふぐ料理を食べながらおおいに談じた。ホテルまで送ってもらったが、フロントで自分の部屋が思い出せないくらい酔いが廻っていた。
 翌日、赤間神宮に参拝し、豊功神社に瓦を奉納して、青田さんの友人である平田誠一郎さんに車で高杉晋作の墓のある東行庵に案内してもらった。下関からは、約一時間ほどの距離にある。高杉の墓はそれほど大きくない。どうしてこの地を墓所としたかは、高杉が死の直前に「吉田へ・・」と呟いたからだという。師である吉田松陰のもとへととれたが、彼の創設した奇兵隊の本営のあった吉田郷清水山となったといういきさつがある。
 平田さんには、新下関駅まで送ってもらった。平田さんは、参議院選挙に立候補したが、残念ながら当選を果たせなかった。彼も青田さんに似て国士という感じがした。
 
『春の雲』下関周辺、柳川への旅
 夕方、博多駅に着く。群馬県に住み、さすが福岡県には縁が薄いが、学生時代からの友人がいる。久しぶりの再会である。卒業から四半世紀近く経つが、逢えば一瞬に心が通じる。不思議なものだ。ビルの屋上で月見酒ができた。博多名物、屋台のラーメンも食べられた。時間は経ち、空間も変わり、それぞれの空の下で人と交わり生きてきた。ただ、思い出だけは二人の中に残っている。生活空間の中だけで人生が完結していないところが、人間社会の素晴らしいところだ。人生という旅で、行き会う人との一期一会を大切にしたいと思った。
 ホテルまで荷物を持ってもらったが、エスカレーターの前を行く友の肩に、再会までの人生ドラマを見たような気がして、そっと肩に手を掛け
「大変だったね」と一言。
 あくまで想像の世界。人は、親子、兄弟、友達であっても皆違う世界に生きている。ただ心だけは通わせることができる。ただそれだけのことである。
 翌日、西鉄で菅原道真を祀る大宰府天満宮を参拝する。この旅、神社へお参りすることが多くなった。意図した訳ではないがそうなった。道真公の歴史的な資料は持ち合わせていない。この地に左遷されてきたこと。学問の神様として後世崇拝されていること。そして
 東風吹かば匂いおこせよ梅の花
  主なしとて春な忘れそ
 の歌を詠んでいる。左遷というのは、いつの時代にもある。そのことを嘆くのもよし。発憤するもよし。ただ心のままにということであろう。
『春の雲』下関周辺、柳川への旅

 柳川は、水郷の町でもあり、文学の香りのする街である。北原白秋の存在が大きい。『火宅の人』を書いた壇一雄の墓所がある。女優壇ふみの父親である。無頼派と言われ、太宰治らとも親しかった。読売新聞に書いていた壇ふみの父親評が面白かった。作家として世に認められた父ではあったが、酒と愛人に明け暮れた人生に翻弄された「火宅」の一員である娘は、
「あれだけ生きたいように生きられた人には、もう『おめでとう』と言うしかありません」
と達観し、そして
「人は一人で生まれてきて一人で死んでゆく。でも、人を愛せずにはいられない。そのテーマで人生を文学にしたのが父だと思います」
娘も人生を深く見つめる歳になった。
酒と言えば、太宰治ら弟子にもてはやされた、井伏鱒二の漢詩「勸酒」(干武陵)の名訳を思い浮かべたくなる。壇一雄もその詩を口ずさみながら文人仲間で文学論、人生論を談じた光景をふと柳川に来て想像した。
原作は、五言絶句で
勸君金屈巵  満酌不須辞  花発多風雨
人生足別離
〈この酒づきを受けてくれ
 どうぞなみなみつがしておくれ
 花に嵐の喩えもあるぞ
 「サヨナラ」だけが人生だ〉
平易な訳に見えるが、なかなか奥行きと味わいがある。最後の「サヨナラだけが人生だ」のところの余韻に魅せられて、太宰などは本当に自らの人生を絶ってしまった。壇一雄だったら「(人間なんて欲望さ)サヨナラだけが人生だ」と付け加えたに違いない。娘壇ふみが言うように自分という存在を知ってほしいという愛の尽きることのない希求者には、キリスト的愛を語ったり、行為したりするのは、うっすらと感じていても気恥ずかしかったのではないだろうか。京都清水寺管主として百歳を越える長寿であった大西良慶は、人間の欲望を薦めてはいないが否定はしなかった。人生一筋縄ではいかない。
残暑の中、一本の竹竿で船を漕ぐ船頭さんの技術は素晴らしい。行き交う船に乗る見知らぬ人と言葉を交わす。船もゆるやかに時もゆるやかにながれている。船にトンボがとまっている。つがいである。
つがいトンボしばし小舟の客となる
石造りの川べりには、桃色の貝がこびりついている。田螺の種類らしい。この川は、有明海に続いている。柳川といえば泥鰌である。昔は、田舎の小川にはどこでもいた魚だが、あまり見かけなくなった。今は、獲る人もいない。泥鰌鍋は、ゴボウや葱に卵を入れて食べるのだがなかなか美味である。泥臭いという人もいるが、素朴な味がする。その日は、うなぎを昼飯にした。柳川のうな重は、蒸篭で蒸したもので、柔らかさがあって上品な味がした。
久留米市に立ち寄り、石橋美術館を見る。前から見たいと思っていた絵がある。坂本繁二郎の馬の絵である。輪郭は、はっきりしないがなんとも淡い絵で、やすらぎを感じる。優しさもある。坂本画伯の人柄が顕われているのだろう。同級生に青木繁がいる。男たちが大きな魚を担いで浜辺らしきところを歩いている絵は有名である。古事記をモチーフにした絵もある。男性的で、坂本繁二郎とは対照的である。どちらがということより、好きづきというところであろう。黒田清輝の絵も展示されていた。
その夜の宿は、福岡ドームの隣にあるシーホークホテルである。なかなかデラックスなホテルだが、それほど高い宿泊料でもない。博多湾の夜景が眺望できるレストランで、中華料理を友人と楽しむ。気分も良かったのか、老酒六百ミリリットルを一人で空けると
「結構いけますね」
なかば呆れられた感じで、友の方は、ビール中ビンでかなりきつそうである。学生時代はかなり行けた口と思っていたが、これも時の流れによる変化である。昨日から今日一日、久しぶりの再会とはいえよくつきあってもらった。博多の町の夜景は美しかった。
街の灯のひとつひとつの夜長かな
家々の灯りの中に、まだ見知らぬ人々の暮らしがある。芭蕉の句で
秋深き隣は何をする人ぞ
というのがある。そんな気分に似ている。自分は、世の人と隔絶して生きているわけではなく、ご縁があれば、親しくできる同世代に生きているという意味で一種の懐かしさの感情すら起きる。
芥川龍之介は、この芭蕉の句に寂しさを感じたという。彼は自我の強い人だったから、隣は他人と感じた。しかも秋はものがなしい季節だとも思った。孤独と言う感情は、一人でいることにより生まれるのではなく、一人だと思うその人の心の中に生まれてくるのだろう。芥川の友達は、彼を慰めるために来訪し、楽しい宴を持つと、その時だけは芥川の寂しさは紛れるのだが、友達が去ると前にも増した孤独感が彼を襲った。彼の晩年は、そんな心理的状況だったという。
君看よや双眸の色語らざれば憂いなきに似たり
他人の魂に敏感すぎるほどの感受性をもった芥川の好きな言葉である。誰の作か定かではないが、良寛さんだったであろうか。
友人を送り、その夜はエキゾチックな部屋で安眠ができた。 (平成九年九月十九日)


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