☆☆☆荻原悦雄のフェイスブックはこちらをクリック。旅行記、書評を書き綴っています。☆☆☆

2013年04月21日

『春の雲』土佐そして九州佐賀への旅

土佐そして九州佐賀への旅
 『春の雲』土佐そして九州佐賀への旅

 南国土佐を旅するのはこれが二度目である。前回は、職員旅行で、本州からは、瀬戸大橋を渡って四国に入ったが、今回は、羽田空港から高知空港への高知直行の空の便である。
 高知県の人口は約八〇万人。他県に比べて少ない。そのうちの約三〇万人が高知市に集まっている。病院が極めて多く医療が充実している。北海道の札幌も病院が多く、冬になると高齢者の入院の比率が高くなるということを聞いたことがある。
 土佐と言えば、はりまや橋と桂浜、そして坂本竜馬を思い浮かべる。桂浜には竜馬の像があってなかなかの巨像である。全国の竜馬ファンの募金も含まれているらしい。国民的人気が没後一〇〇年以上になっても衰えないのは彼の人なりにある。
竜馬の人生は三〇数年にすぎない。京都河原町にあった近江屋で友人中岡慎太郎とともに刺客によって暗殺された。薩長同盟も竜馬の仲介がなかったらできなかっただろうと多くの史家は考えている。司馬遼太郎が描いた竜馬像が好きだ。
 京都二条城で、徳川慶喜が朝廷に大政奉還をするのだが、竜馬にとっては、政敵である慶喜に対して「よくぞやった」という思いがこみあげ、感涙に及ぼうとする場面がある。周りには倒幕派の志士がいる中である。言葉に出したら竜馬といえども斬られていたかもしれない。竜馬にとって大事なのは、日本という国の行く末だった。新しい政治体制が整えば、世界に向けて商売をしたいとも考えていた。このエピソードに竜馬の人としてのスケールの大きさを感じる。三菱を創設した岩崎弥太郎も土佐の人である。西南戦争のとき、船で政府側の物資を運んで財をなしたというが、経済人としての竜馬の影響がある。
 「船中八策」という、新政府の青写真を竜馬が船上で書いた草案がある。閣僚ともいうべき政府のスタッフの中に竜馬の名前が無いのでどうしてかと尋ねると
「わしゃあ、世界の海援隊でもやろうかいな」
と答えたというのである。海援隊とは、長崎で竜馬が創った商社の事である。俳優武田鉄矢は、竜馬が好きで自分のバンドに同じ名前を付けた。欲がないと言っても政治的野心のことであるが、地位や名誉にこだわらないところが竜馬の人気の秘密なのだろう。剣をとっては、江戸千葉道場の塾頭であり、商売の才もあり、政治のビジョンがあって人徳もあるといったらモテナイ訳が無い。
本邦で最初の新婚旅行は、坂本竜馬夫妻という説すらある。奥さんは、京都伏見の寺田屋で風呂から裸で飛び出して、幕府の追っ手が来たのを知らせ、竜馬の窮地を救ったお竜(りょう)さんである。旅行先は九州霧島の温泉で、西郷隆盛のはからいであったという。
 少し、坂本竜馬に深入りした。竜馬の生家は才谷屋といって武士というよりは商人に近い。市電の走る道沿いに碑が建てられているだけで、家は無い。近くに才谷屋という喫茶店があったがただ名前をつけただけであろう。幕末の土佐藩の武士には、他藩にない身分差があった。上士と郷士とに別れていた。もちろん上士が上で、後藤象二郎や板垣退助は上士であった。土佐勤皇党の首領で月形半平太として戯曲化された武市半平太や坂本竜馬は郷士の身分であった。郷士は藩の重職には就けないだけでなく、辛い差別があった。
 徳川幕府の成立以前、四国の大半を制覇したのは長宋我部(ちょうそかべ)氏であったが、関が原の戦いで西軍に組みしたがために、土佐は、静岡掛川の小大名であった山内家が支配する地となった。殿様よりその奥方が有名になった山内一豊以来、武士の中に上下の差別ができた。山内家の家臣を上士といい、長宗我部氏の家臣は郷士となった。勤皇思想は、主に郷士の中に生まれた。
倒幕の雄藩であった長州藩や薩摩藩は、藩主から家臣まで、徳川家には苦汁をなめさせられた。土佐は、違っていた。このあたりが、土佐の特殊な事情である。
 土佐の人は頭が良いと言われている。方言としての言葉も日本語にない明晰さがあるという。太平洋戦争でシンガポールを攻めた山下奉文大将は敵将にイエスかノーかと迫ったというが、白黒がはっきりしているのが土佐人の言葉使いの特徴である。山下大将も高知の出身である。「いごっそう」、「はちきん」は、土佐の典型的な男女に使われる言葉である。南国土佐の明るい風土と無関係ではないと思う。この地の人は豪放磊落、実に屈託がない。社交的でもある。外交官から戦後長く首相を務めた吉田茂は高知県人である。
「総理の活力のもとはなんですか」
と記者から聞かれ
「人を食っているからさ」
こういうジョークはなかなか出てくるものではない。
 頭の良さといえば、思想家や学者では、ルソーの翻訳で有名な中江兆民は、土佐の人である。
「中江のおにいさん、煙草を買って来てつかわさい」
と坂本竜馬から幼い時頼まれたことを終生忘れなかったという。夏目漱石の弟子で、物理学者の寺田寅彦は高知市に生まれた。生家を訪ねたが平屋の立派な家で庭は後年整備されたのだろうが民家としては、広い庭園になっている。寺田寅彦は、随筆家としても著名で、科学者の書いた文章には良いものが多いように思う。雪の結晶を人工的につくった中谷宇吉郎の随筆も良い。彼は石川県の人である。一九九九年が生誕一〇〇年ということで、加賀温泉に春雨会(数学者岡潔ゆかりの人の集まりで、毎年命日近くに春雨忌を開き、奈良新薬師寺に近い次女松原さおりさん宅に集まっている)の人達と「中谷宇吉郎・冶宇二郎兄弟展」を見に行った。弟冶宇二郎は考古学者であったが、若くしてなくなった。パリ留学時代、多変数函数の分野で多くの発見をしたことにより文化勲章を受けた数学者岡潔と親交があった。弟も筆がたった。
 高知県には土佐鶴という越の酒に劣らない地酒があって、さはち料理には欠かせないお酒になっている。日本酒は寒い土地ほど美味いと思っていたが、そうではなかった。灘の酒は、個人的には好んで飲まないが、江戸時代には江戸の町の人間を酔わせたと言ってよい銘酒も寒地の酒ではない。その土地の水が多分に影響しているのであろうか。鉄分が少ないほど良い酒ができると、元禄時代から倉渕村で、造り酒屋をしている牧野酒造のご主人に聞いたことがある。
 高知市には一泊して、翌日土讃線で瀬戸大橋を渡り岡山駅まで行く。旅に出ると何かを紛失するが、今回は九州の旅行ガイドブックを駅に置き忘れてしまった。また本屋で買えばよいのだが、大事なメモが書いてあった。本に自分の名前を書いてあるわけでもないから、拾った人はゴミ箱にでも捨ててくれるだろう。岡山駅から山陽新幹線に乗り換えて博多をめざす。福岡市は、九州の首都のような町であるが、市街地は博多と呼ばれている。恥ずかしい話だが、瀬戸内海の伯方と博多の音が同じなので、伯方の塩は博多の塩だと思っていた。黒田藩の城下町であるが、商港としても栄えた街で、その名残が博多という地名を今に残している。日本は海に囲まれた国。港は交通の要所となる。大阪市に近い堺港もそうであるように博多もしかりである。俵屋宗達という商人の名が浮かぶが、人物の詳細は知らない。福岡市に宿をとるのはこれが四度目になるが、ここを起点にして九州の各地を旅した。柳川、久留米、鳥栖、大宰府、志賀の島、学生時代には鹿児島まで行った。明日は、佐賀へと旅立つ。吉野ヶ里、そして佐賀市へと。
 『春の雲』土佐そして九州佐賀への旅

邪馬台国が北九州か近畿かという古代史論争は今をもって終着していない。それが明らかにならないところにロマンがある。吉野ヶ里遺跡は、今は佐賀平野の内陸にあるが、当時は海辺の近くにあった。というよりは、海が近づいていたという言い方が正しい。駅からは、区画整理された田園地帯になっていて、道は舗装されている。途中、赤米(古代米)が植えてある田があった。穂は充分に実り刈り入れは近い。
吉野ヶ里平成の世を秋津飛ぶ
この日は、秋とはいえ暑い日であった。当時の建物を再現したその影に涼しさはあるが、強い紫外線が降り注いでいた。雑草は、観光客に踏みつけられ哀れですらある。多くの弥生人が生活したであろう吉野ケ里遺跡は、平成という時代に旅する人の一時の場所に過ぎない。
 佐賀市は、吉野ヶ里から一〇数キロの距離である。タクシーに乗ることにした。運転手に聞いた話では、近年佐賀空港ができたが利用する人が少ないという。佐賀という県は不思議な県である。江戸時代には、鹿児島薩摩藩と同様に二重鎖国の藩であった。藩主は鍋島氏である。藩の外との交易や、人的な交流といったものを禁じ、日本は、長崎の出島にオランダと中国二カ国に貿易を許し、他の国々との国家的関係を閉ざした。二重鎖国とはそういう意味である。
 江戸時代の佐賀藩は、豊かというよりは貧しかったと言ってよい。藩内の民、特に農民はよく働いた。「佐賀者の行く後に草はない」という言葉を聞いたことがある。田園の草は肥料にし、山の枯れ木は燃料とした。一方、武士は学問に精を出した。優秀でなければ、藩から高禄で登用されないからである。国を閉ざすということは、異質な文化に触れることがない。経済的には自国(藩)という狭い中での流通は、自給自足に近い。学問を深めるといっても観念的になりやすい。葉隠れの思想は佐賀藩に生まれたが、良くも悪くも鎖国の国の匂いがする。しかし、佐賀藩の教育水準の高さと伝統が、明治になって大隈重信や江藤新平などの政治家を生んだ。明治政府というのは、財政基盤も弱く、法体制もなく、足早に西洋諸国から模倣に近いかたちで取り入れざるをなく、倒幕雄藩である薩摩・長州・土佐には官僚的政治家が殆どいなかった。つまり、政治の実務ができる人材がいなかったのである。江藤新平は司法の分野で、大隈は経済の分野でというふうに。大隈重信の国家観は「日本は法治国家である」という認識を明治の始めにもっていたことである。「日本は武士の高潔さを生んだ儒教の国、農本主義の国」だという西郷隆盛などとは国家建設のビジョンが違っていた。江藤新平は佐賀の乱に刑死し、大隈重信は、一時は下野しても明治政府の要職を務めた。早稲田大学の創立者でもある。
 曼珠沙華大隈公に義足あり
大隈記念館で義足を見たが、それほどの感慨もない。爆弾を投げつけられ、足を負傷し、そのために足を切断し義足で長命を保ったのは立派には違いないが、その足を床の間に置いて来客に語るのを常としたというのは悪趣味に近い。
 日本陸軍の創始者といわれる大村益次郎が、刺客に遭い、足に受けた傷がもとで死ぬのだが、手術が遅れたためで、彼が明治政府の高官であったために役所の許可が必要だから手遅れになったというのであるがつまらない話である。高位なる者の体にメスを入れてはいけないというのは全くの形式論である。大隈の足などは地に一刻も早く返すべきであって、大村の足などはさっさと切断(きる)べきであった。皮肉なことだが、大村は、百姓出の医者であった。
 『春の雲』土佐そして九州佐賀への旅

 佐賀城は、平城であるが、城内は広い。その一部しか見られなかったが、なにか佐賀藩の城として納得するところがあった。城門が大きく、記念写真を撮ったら人物が小さくなってしまった。佐賀県の隣は、長崎県である。この県にはいまだ足を踏み入れたことがない。


同じカテゴリー(旅行記)の記事画像
上野界隈散策(2017年10月)
九州北岸を行く(平戸、武雄温泉編・2017年8月)
九州北岸を行く(唐津編)
春めくや人様々の伊勢参り(2017年4月)
東京の桜(2017年3月)
三十年後の伊豆下田(2017年3月)
同じカテゴリー(旅行記)の記事
 上野界隈散策(2017年10月) (2017-10-20 11:16)
 この母にこの子あり(2017年9月) (2017-09-12 17:44)
 九州北岸を行く(平戸、武雄温泉編・2017年8月) (2017-08-26 09:04)
 九州北岸を行く(唐津編) (2017-08-25 17:19)
 春めくや人様々の伊勢参り(2017年4月) (2017-04-04 17:56)
 東京の桜(2017年3月) (2017-03-27 16:36)

Posted by okina-ogi at 19:19│Comments(0)旅行記
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
『春の雲』土佐そして九州佐賀への旅
    コメント(0)