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2013年04月21日

『春の雲』金印発見の島、志賀島

金印発見の島、志賀島
 福岡市の沖合に志賀島はある。砂洲が近くまで延びていて、車でも行ける。当日は、福岡港から小型船で渡る。初春の博多湾は、船の切る波のしぶきが、窓をうつほどに凪いではいなかった。湾を抜ければ玄界灘で、日本海を北上すれば対馬に至る。明治三十九年、日露戦争の日本海海戦で、東郷平八郎率いる連合艦隊に敗れたバルチック艦隊は、この海域を通過していった。 
 志賀島は、周囲数キロの小さな島である。島の頂上あたりに灯台があったが、その日は曇っていて、冷たい海風が吹いていた。当然、対馬の島影も見えない。東映映画社の配給する映画の冒頭に海岸の岩を波が洗うシーンがあって、東映のシンボルにもなっている。この島の北東岸にその場所があった。教えられなければ通り過ぎてしまうほどの特別な海岸風景でもない。とりわけ観光地ともいうべき所ではない志賀島を訪ねたのは、この島が、古代、中国の皇帝から授けられた金の印章が発見された島だったからである。
 『春の雲』金印発見の島、志賀島

 江戸時代、この島の農民が、農作業している時に偶然発見された。金製で、奴国王と刻まれていた。このあたりを支配していた勢力者に与えられた金印で、卑弥呼の邪馬台国の時代に近い。中国の古文書に記されていた内容と一致し、史実となった。考古学ブームの現代でなくも、当時としても大変な発見であったと思う。発見された場所は、金印公園となっているが、道路から石段を登った丘の中腹にあって、簡単な説明が表示されているだけである。
近くは海岸である。蒙古塚というのがあって、元寇の時、台風にあって遭難し、この島に流れ着いた元軍の兵士を弔った場所である。兵士の多くは、朝鮮半島の人達であったと井上靖の小説『風濤』に書かれている。長く大国中国王朝の属国として、近代を迎えた朝鮮民族の悲哀が描かれている。朝鮮、とりわけ李王朝は、儒教を中国からとりいれ、本国以上に儒教の国になった。
儒教の祖は、孔子である。井上靖に『孔子』の労作がある。宗教家ではないが、東洋が生んだ傑出した思想家であり、哲人である。彼の思想が、政治に取り入れられたことが、功であったか罪であったか議論の別れるところだろう。儒教は、為政者にとっては、都合が良かった。特に身分社会であった封建時代には、その傾向が強い。朱子学のような、形式的体系になると、それだけで人間の暮らしや、精神が雁字搦めになる。韓国は、李王朝が長く儒教を政治の根幹にとりいれたために、その名残がいまも人々の慣習の中に根付いている。韓国では同姓の間では原則ではあるが、婚姻が認められない。ただ出身地が違っていれば可能だというのだが、日本では考えられない。「いとこ同士は鴨の味」などという表現は、少し下品だが、近親婚でなければ、結婚に形式的な制約はない。目上の人を尊重するのは良いが、成人した人間がそうした人の前で煙草も吸わないというのも極端である。成長した人間の規範は、外側から規制されるのではなく、自らの心に宿した規範によるものでなければならない。孔子は、そう思ったに違いないが、国の乱れた春秋戦国時代にあって、我が思想を盛んに諸国に君主に宣伝したのも確かのようである。彼の教えというか境地は、教育の題材として今日少しも色褪せてはいない。思想というものは、それを生み出した人の想いとは別に一人歩きするものだということがいえる。
日本は、孔子の思想も取り入れたが、固執することはなかった。古来からこの国は浮気者で、そのときそのときによいと思ったことを身に纏う。ただ生身はそのままにして。その生身が何かということだが、それを日本の風土が生んだもの、あるいは神道だとは言わないが、心理学者のアドラーが言った集団的無意識のように永く養われたこの国の人の気分のようなものだと思う。
 
『春の雲』金印発見の島、志賀島
 志賀島の蒙古塚に、朝鮮民族の歴史を思い巡らし、儒教の思想に私観を述べたが、元寇のあった鎌倉時代、北条時宗の時世に想いを馳せる。海に囲まれ、国そのものを他国から支配されることのなかった日本が、初めて国家間の防衛戦争を経験したのである。元軍の船団は、対馬を容易く攻め落とし九州本土を目指した。博多の沿岸に上陸し、当時発明されていた火薬を武器にし、しかも集団としての戦い方は、当時一対一の戦いをルールとしていた鎌倉武士には不利で苦戦を強いられた。一時は、大宰府付近まで進出されたという。
日本に幸運であったのは、季節が秋だったということである。台風の季節である。沖合の軍船に帰った元軍は、その風雨の中、荒波にのまれ多くが水死した。
それは、神意による風、神風と言われ太平洋戦争という思い上がりの戦争に、不幸な戦法を生んだ。神風特別攻撃隊である。国家が個人にこのような戦法を強制することは、文明国であれば野蛮そのものである。個人が自ら公である国、愛する家族、同胞を守るために身を捧げることは尊いことかもしれないが、国家が個人に死んでくれとは言えない。発案者であった大西中将もそのことは知っていた。形式はあくまで自ら志願したという形をとったが、実際には強制といってよかった。終戦の日、大西中将は自決して責任をとるのだが、あまりにも悲劇である。
はるばる海を渡って、この戦に駆り出された元軍の兵士の亡骸が志賀島にたどりついたのであろう。その人々を、敵とはいえ、手厚く葬ったこの島の人の行為は人道に沿っている。
蒙古塚雲居は割れて鳥雲に
海を見やると、わずかに雲間から薄日がさしていて、そして数羽の鳥が飛んでいくのが見えた。肉体は、志賀島の岸辺に朽ちても、魂は祖国に帰っていく。春になって、北帰する鳥を兵士の化身とまでは思わなくても、自然に渡り鳥に合掌する自分があった。


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