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2013年04月24日

『春の雲』長州から出雲への旅

長州から出雲への旅
機中「菜の花の沖」を読む。下関から山陰本線で松江までの日本海側を北上する旅である。いまから約二〇〇年前この沿岸に沿って北前船を操って歴史に名を残した男がいた。高田屋嘉兵衛である。蝦夷地、今日の北海道の昆布やニシンを上方に運んだ。ロシア船に拿捕され、カムチャッカに遺留されたが、日本に抑留されていた、ゴローニンらと引き換えに日本に戻るのだが、国家間の紛争を防ぐことになる。一介の町人が外交官の大役を果たしたといっても良い。ロシア船の乗員からタイショウと慕われ、その信頼が両国の合意を生んだ。嘉兵衛は、淡路島の出身である。当時、淡路島は、菜種油の産地であった。春になると、島は菜の花に埋め尽くされた。
 旅の基点は、福岡空港である。福岡空港は、戦後、板付空港として軍用に使用されていた。市街地までのアクセスが極めて良く一〇分程で博多駅に着く。博多からは、門司を目指す。門司港駅周辺は、レトロの街として洋館建築が見られる。
 アインシュタイン博士夫妻が宿泊したという三井物産の商館を見た。移築されたものだが豪勢な造りである。天井が高いのが洋館の特徴である。レンガ造りではなく木材がふんだんに使われ、内部に使用された木の肌は、当時の輝きを少しも失っていない。その一室に林芙美子の展示室があった。芙美子は、その波乱に富んだ幼少、青年時代を門司と下関に住んだ。その後、尾道に出ることになる。
  花の命は短くて 苦しき事のみ多かりき
 あまりにも有名な芙美子の呟きである。
門司の対岸は、下関である。関門海峡を挟み1キロにも満たない距離である。夕陽が山の端に沈み行く中、少し荒れた海を小型船で渡る。源平の壇ノ浦の戦いがあり、幕末には長州藩と四カ国艦隊と馬関戦争のあったところである。
 
 師走の夕は足早である。日清戦争の講和条約が結ばれた春帆楼に立ち寄り、清国全権李鴻章、日本全権伊藤博文、陸奥宗光らの会見の席を見て往時を偲ぶ。貧農の子から宰相まで登りつめた伊藤博文は、松下村塾に学び、「俊輔は、周旋の才あり」と師吉田松陰にその才を認められた人物。この交渉で遼東半島と台湾を得ることになるが、名高い列強の三国干渉により遼東半島は手放すことになる。後年、日露戦争では、その半島の先にある旅順の攻防により、二〇三高地の熾烈な戦いや、広瀬中佐の参加した旅順港閉塞作戦の攻防があった。
 「動如雷電 発如風雨」
 伊藤博文が、明治維新の前、徳川幕府による第二次長州征伐を前にして高杉晋作がたった一人長州藩の藩論を倒幕に変えるために長府の功山寺で挙兵した。その当時を想い、高杉の人物評を書き記した言葉である。高杉の墓のある東行庵にその碑がある。高杉の創設した奇兵隊は動かず、伊藤の力士隊が呼応し、維新回天のドラマが始まったのである。
 
 春帆楼のすぐ近くに赤間神宮がある。
 「海の中にも都がありますぞ」と平徳子の母時子と入水された安徳天皇を御祀りする宮である。徳子は、助けられて出家して京都大原に余生を過ごすことになる。建礼門院その人である。龍宮城を想わせる水天門が、白と朱のコントラストを見せて美しく、その門から見える関門海峡を行く船の往来が見事な絵となっている。江戸時代、赤間神宮は、阿弥陀寺といった。この地の地名でもある。高杉晋作の奇兵隊創設に資金を援助し、多くの志士に助力した下関の豪商白石正一郎は、初代の赤間神宮の宮司であった。維新に功績のあった人々が明治政府の高位に就く中、心の欲するままに淡々とこの宮に仕えた白石正一郎の評価は高い。武士という特権階級ではない商人の中にこうした人のあることは、日本文化の裾野の広さとして誇りとして良いかもかもしれない。戦後の民主主義は、大いに個人の自由をもたらしたが、反面、公に命がけで尽くす精神を置き去りにした感がある。公とは、私の対照語であるが、戦後流に言えば公共の福祉程の意味だが、生命と財産をかけた命がけの行為を考えれば大義というに近い。
 その日の夕食は、ホテルに近いスポットライトに照らされたレトロの洋館に近い店で、名物ふぐ料理と今では珍味となった鯨料理を満喫した。旧友とも再会し思い出に残る会食となった。
 翌朝、ホテルから見える関門海峡は、一面の冬靄であった。わずかに、太陽が輪郭を見せて現れることはあるが、一向に晴れない。
   彼岸かと見えて赤間の冬霞
 九州と本州の間は近くも、対岸は異郷の地のようにも思える。高杉晋作が功山寺で挙兵する前に、福岡の野村望東尼の庵にかくまわれることがあった。数年前、その地平尾山荘を訪ねた時は、まだ肌寒さの残る春の日であった。淡い紅梅と馬酔木の花が咲いていて、庵の傍らに椿の木があった。
  庵棲む尼にせめての椿かな
 九州の同志の決起を促すためであったが、不可能と知るや、単身、下関に帰るのである。野村望東尼は、勤皇の歌人であった。清水寺の僧、月性とも心通ずるものがあったであろう。
 高杉晋作を看取ったのは彼女である。
  面白き事もなき世もおもしろく
 と高杉晋作が詠み、命が消え行く間際に望東尼が下の句を
  棲みなすものは命なりけり
 とつけた。晋作は、一言
 「面白いのう」と言ったという。このあたりは、司馬遼太郎の創作らしい。東行庵の学芸員、一坂太郎氏の指摘するところであるが、この辞世の歌が二人の合作であったことは事実である。
 司馬遼太郎には、「世に棲む日々」という小説がある。
     *    *    *
 下関から長門までの日本海は、晴天の中澄み切っていて実に綺麗であった。田のひこばえは、やがてくる冬の風雪を知ってか知らぬか弱弱しい緑を視界に広げていた。
  ひこばえの田のはてなり日本海
 沿線の家々には、だいだいがそこかしこにたわわに実をつけていた。陽に映えて、その黄色が目に強くやきついた。山陰という言葉の響きは、なにやら物悲しさを感じるが陽は穏やかで、師走としては暖かな日の中を列車は走る。下関を発つ前に魚市場で仕入れた刺身と鯨のベーコンを肴に、ふぐのひれ酒で朝からいっぱいというのも、ゆったりとした列車の旅ならではである。コンビニでわさびと醤油を買って、魚介類を途中買って酒を飲むというのは極めて合理的である。旅のひとつの発見であった。
 
 今日の旅のメインは、青海島めぐりであるが、仙崎の地は、若くして世を去った金子みすずの生地である。昭和の初期、無名の詩人の詩才を西條八十は認めた。西條八十は、大正、昭和にかけ童謡,歌謡詩界をリードした。みすずの「大漁」の詩は、岩波文庫の日本童謡集にも収録されている。「積つた雪」の感性に、みすずの人柄が良く顕われている。
  上の雪
  さむかろな。
  つめたい月がさしてゐて、

  下の雪
  重かろな。
  何百人ものせてゐて。

  中の雪
  さみしかろな。
  空も地面(じべた)もみえないで。

 雪をわが身に置き換えている。
  いくたびか雪の深さを尋ねけり
               子規
 の気分もわかるが、自他の別がみすずの世界には希薄である。
  ぬかるんでいつしか雪の暖かさ
 という句はどうであろうか。
 自然と人間の対立のない世界を日本人は古来から意識してきた。大木とうっそうとした森に囲まれた神社の静寂な空間に身を置く時、そんな気分になることがある。
 数学者で文化勲章を受章した岡潔は言う。
  自分は自分という名の自分 
  他人は他人という名の自分
  自然は自然という名の自分
  それが意識できる人を日本民族という。
 少し哲学的な表現であるが、みすずの詩の世界に通ずるものがあるような気がする。一方、「積つた雪」の詩に冬の厳しい風土を想像できない。北陸から東北、北海道へと日本海を北上すればこうした詩が生まれてこないかもしれないとも思う。山陰長門仙崎の街は、それほど厳しい冬ではないのだろう。そうした分析の前に、みすずの精神性が、雪にでも寄せる優しさを内包しているということなのであろうか。それは、逆にみすずの人として満たされない日々の寂しさと無関係ではないともいえる。
金子みすずにもう少し触れてみたい。生まれたのは、明治三六年。父は、庄之助、母はミチで兄と弟がいた。本名はテル。父親は、ミチの妹の嫁ぎ先の上山文英堂書店の清国支店長であった。その父親もみすず三歳の時に他界。一家は、仙崎に帰り金子文英堂を営むことになる。その建物は、今も仙崎の街に残っていた。みすずの詩の才能を生んだ背景には、幼い時から書に親しむ環境のあった事が想像できる。大津高等女学校に入学することになるが、成績は優秀であった。二〇歳の時、下関に移り住み、この頃から童謡を書き始め、投稿した詩が西條八十に認められることとなる。
 昭和元年二三歳の時、宮本啓喜と結婚。宮本とは、上山文英堂に勤めたことによる縁であった。後に、宮本と養父松蔵との仲が悪くなり、離婚の引き金となる。この年に、一子ふさえが誕生。ふさえは現在も健在であり、みすずは、二六歳で三歳の幼子を残して世を去ったのである。カルモチン服毒自殺であった。下関亀山八幡宮近くの写真館で最後の写真を撮り、その翌日死んだ。白衣のドレスを自ら整え、それを身に纏って死んだ、群馬武尊山の麓川場村の歌人江口きちを連想させる。
 おおいなるこの静けさや天地の
          時誤またず雀鳴く
きちの辞世の歌である。便箋に綺麗に書かれた直筆のこの歌を先年、川場村歴史民俗資料館で見たが、カルモチン服毒後の朝、薄れ行くであろう意識の中で詠んだとは思われなかった。大自然の営みをこれほどに感じるのであれば、何故に自ら死を選ぶことがあろうかと強い哀惜の念を持った。
みすずは、どんな心境で旅立ったのだろうか。遺書が残されていた。夫に対してである。
「あなたが次に結婚しても、ふうちゃん(ふさえ)には心の糧を与えられないでしょう。だから必ず私の母に預けてください」
という一文であった。仏壇にあった便箋書きの遺書を偶然ふさえは、女学校二年の時に見たのである。だから、ふさえは、母親は、愛なくして自分を産んだと思っていた。近年、多くのみすずの詩が世に出ることになり、その考えは、百八十度変わったという。
仙崎は、人口に比して寺の多い町である。みすずの墓地は、みすず通りを海辺に向かって進み、通りに面した遍照寺の一画にある。いつも花が絶えることが無いらしくその日も供養の生花がみずみずしかった。銀杏の大木があった。
 
 仙崎に接するかのように青海島がある。周囲四〇キロほどの広さをもつ島である。日本海の荒波に洗われ、奇岩のある景勝地として国定公園になっている。島一周の船が出ていて、約一時間半で島巡りができる。多くの釣り人が岩に立って糸を垂れていた。みさごという嘴の長い鳥が岩山の頂上に巣を作っているのが目に入った。
ここに素朴な疑問がある。こうした大きくもない島に五〇〇〇人もの住民が暮らしているということだが、いったい水はどのようにして得ているのだろうか。生活に必要な水は、はたして沢のような所、あるいは井戸を掘って得られるのだろうかという疑問である。幼稚な疑問ではある。
仙崎の宿は民宿であったが、夕食は豪華であった。近くのスーパーからふぐとイカの刺身を買い、名産の蒲鉾、特にアゴ(トビウオ)の蒲鉾が美味である。土産物屋で買い入れておいたふぐのひれ酒は格別で至福の時間を与えてくれた。
同宿の友曰く「主婦は、普段家計を助けるために、少しでも安く良いものを買おうとするが、旅に出るとその感覚が麻痺してしまう」というのは至言である。そこへいくと、我々の今宵の夕食メニューは、旅の知恵、男の冷静さというところであろうか。下関でふぐ料理のフルコースを食べられなかった反動でもある。朝食は、民宿のメニューだったが、生簀に泳ぐイカが活け造りとしてこの地の売り物と知り、後悔の念が少し沸いた。 
   *     *     * 
 仙崎駅から長門駅までは一区間である。日本一短い線かもしれない。もちろんワンマンで本数もきわめて少ない。山陽本線のイメージがあるためか、山陰本線も複線かと思いきや沿線には冬枯れた草が刈られずに残り単線であったのが意外であった。萩までの列車も二両連結で運転手は一人であった。しかも若く、一駅一駅ごとの慎重に乗客の乗り降り、信号や機器の確認をする様が印象的であった。                   
 
 萩に近づくにつれ小雨はやみ、古き城下町の落ち着いた町並みが視野に入る。萩市は江戸時代、長州藩三六万石の城下町であった。安芸の国、現在の広島県の小さな城主であった毛利元就は、中国地方の大半を戦国時代に勢力化にいれたが、関が原の戦いを境に毛利氏は、防長二州に移付されたのである。多くの藩士は、家禄が減らされてもこの地に移り住んだ。百姓と同じように田畑を耕し、生活をつないできた。江戸時代、この藩の武士の比率は他藩よりも高かったはずである。徳川二五〇年、藩士の家々では、東に足を向けて寝るという習慣が守られてきた。東とは、徳川幕府である。そうした精神風土の中から吉田松陰は生まれてきた。松下村塾という小さな教場から明治維新を起こした有為な人材が輩出された。松蔭は、国粋主義者であるという人がいる。それは、第二次世界大戦後のイデオロギーによる見方であろう。戦前の教科書に盛んに引用され、軍国主義の高揚に利用された反動もある。吉田松陰は確かに憂国の人であった。神国日本という体質もあったことも事実。しかし、国を愛するということが、いつから不自然と思うようになったのであろうか。私と公があるとすれば、まずは公を愛することが人の道だと思う。日本は駄目だ。政治家が悪い。そのように言うのは簡単である。今から一五〇年前に、身を省みず、日本の国難に立ち上がった人物がいたのである。家族の愛に恵まれ、友を愛し、教え子を愛した私心の極めて少ない人物が松蔭であった。松下村塾に学ぶ者は、互いに助け合い、上下もなく学んだという。松蔭に権威的要素はなかった。野山獄に投獄された時も全てが仲間であった。一瞬一瞬の生を大事にしたのである。弟子の高杉晋作が師を評して言ったように政治的には過激過ぎたかもしれない。浦賀沖に黒船が到来した時に海外渡航を企てたりした。その行為が死罪とも知りつつ。海外を見聞し、その先進技術、知識を身に付けることが国を守ることだと思ったからである。和魂洋才という言葉があるが、西洋の纏が必要だと考えたのである。
 かくすればかくなるものとは知りながら
          やむにやまれぬ大和魂
 死を決意しての行動というものは簡単にできるものではない。この松蔭の歌は少なからず赤穂浪士の討ち入りを意識しているが、大和魂とは、もともとは、「もののあわれを知るこころ」のことである。平安時代の源氏物語にも書かれているくらいだから、極めて女性的で社交上の色合いの強い言葉であった。それが、いつから勇ましい意味合いになったのだろうか。
 敷島の大和心を人問わば
        朝日に匂う山桜花
 本居宣長の歌に勇ましさはない。清純な雰囲気がある。
 松蔭は、純粋培養の人と評したのは司馬遼太郎である。人間の真心がどういうものかを、生涯の行動をもって示したのが吉田松陰ではなかったかと思うのである。松蔭神社の周辺をタクシーで足早に廻ったが、田で叔父玉木文之進の厳しい教育を受けている幼き寅次郎(松蔭)の姿を見たような気がした。
 時雨きて維新に殉ず志士の墓
萩の市街地にある喫茶店「俗塵庵サワモト」の澤本良秋さんには会えなかった。我が家には二〇数年前に萩を旅した時のスナップがある。当時五〇代後半であった澤本さんも今年八二歳になった。奥様に萩焼きの器でコーヒーをいただいたがうまかった。奥様は、我々の関係を知らない。旅から帰ると一通のはがきが届いていた。旅立ちの直前に出した喪中はがきに気づき年賀はがきの投函をやめたこと、父へのお悔やみ、私とのご縁を何かしら感じていることなどが丁寧に綴ってあった。年賀状のやりとりを初対面の日から二〇年以上に亘って続けていたのである。ご縁というものはそういうものであろう。ご長寿を願い、またお会いできる機会があることを願うばかりである。
 
 萩駅から再び山陰本線で北上する。益田市を過ぎ三日目の宿は、温泉津である。ゆのつと読む。古びた温泉街である。野口雨情の歌碑があった。旅館のひとから聞くところによれば、この街の民家の二割が江戸時代の建物、八割が戦前の建物というから、最近の建物はほとんどないということになる。石見銀山の湯治場や北前船の寄港地として江戸時代にぎわった街だというが現在では秘境秘湯の地と思われた。温泉津の湯は、狸が見つけたというが湯量は少ない。その日の夜、裏山から本物の狸が六・七匹集まってきたのにはビックリした。仲居さんが、食事が終わった頃
「狸が来ています」
というので窓を開けるとそのとおりであった。随分と血色の良い狸で我々の残り物を当然のようにもらって食べていた。翌朝窓を開けたが狸の気配はない。昨夜の出来事は、夢の中のことのように思えた。
   *     *     *
 温泉津から松江まで列車で約二時間、同行の友が乗り合わせた老婦人にウニの事を盛んに尋ねている。そういえば旅先でウニにこだわっていたことを思い出した。
「今は、バフンウニの時期ではなく紫ウニの時期ですよ。十二月から四月にかけて紫ウニが獲れます」        
そして、息子が運輸省に勤めているなどとも話し、彼の方は、住所を教えるから獲れたウニを送ってほしいなどと親しく話している。さすが元旅行社勤めの人だと感心した。
松江からはレンタカーを借りた。松江城を見て小泉八雲の記念館を見学する。お堀に沿った武家屋敷の一郭にあり、家並みが綺麗である。八雲が晩婚であったことを知る。ギリシャに生まれ、ヨーロッパやアメリカに住んだ八雲が日本に憧れ帰化したことが不思議である。国を超えて惹かれるものがあるのである。
 
 島根出雲地方は、神々の国。出雲大社が代表的な神社であるが、熊野大社に詣でることにした。大国主命の父であるスサノオノミコトを祀る神社である。この近くには、八重垣神社もある。
 八雲立つ出雲八重垣妻ごみに
         八重垣作るその八重垣を  
古事記に登場する我が国最初の歌といわれるこの歌は、結婚を祝す歌である。相手はクシナダ姫である。壮大な歌である。古来から神道は、男女二神である。素朴といえば素朴であるが真実であろうと思う。愛しき者は、男からすれば女、女からすれば男、真に愛しくあるかが問題である。
熊野大社から出雲大社までは、約八〇キロ。信号も少ない山あいの道を走り、約一時間半でたどり着く。出雲大社に近づくにつれて暗雲が覆い、風花が舞いだす。左前方の空が少し明るくなったと思うと陽の光が矢のように地上を照らし始めた。その荘厳さ、絶妙のタイミングに旅のフィナーレにふさわしい光景が与えられた。
神無月は、出雲では神有月である。十二月となり地方から来た神々は既に帰ってしまっている。氷雨交じりの雪も降ってきて夕方近く人数も少ない。
 
 出雲大社の社殿は、熊野大社のそれよりも古くまた雄大である。古代の社殿の後が発掘され、想像図によれば、高さは、約五〇メートルで東大寺の大仏殿より高い。社殿まで階段がまさに天に登るようにして建てられていた。国造家は、千家氏である。くにのみやつこと読む。「年の初めのためしとて」で始まる正月の歌は、明治初期に国造であった千家某氏の作詞だという。
 古くあり高き社に氷雨降る
旅の目的は十分に達成できたという想いが沸々とこみあげてきた。皇后陛下の御話が小冊子で無料配布になっているのを旅の最後の土産とした。


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