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2013年04月24日

『春の雲』我が師、そして古都奈良

我が師、そして古都奈良
 
 二〇〇一年は、数学者岡潔博士の生誕一〇〇年の年にあたる。博士は、京都帝国大学を卒業し、フランスに留学した。フランスでは、人工雪の結晶と随筆家で知られる中谷宇吉郎博士やその弟の考古学者であった中谷治宇二郎と親交を深めた。特に、弟の治宇二郎とは無二の親友となった。
博士の数学上の業績は、他変数函数の分野で多くの発見をしたということだが、それがどのような意味を持っているのかは世人には想像がつかない。現代のアルキメデスと言われたこともある。「発見には鋭い喜びがともなう」そして「発見は何の疑いを持たない状態である」と言っている。
昭和三十五年の池田内閣の時に、佐藤春夫や吉川英治らとともに文化勲章を受けている。吉川英治とは、以来心通わすところがあった。
 
 昭和五十三年の三月に他界したが、その前年の二月十二日に、奈良市高畑、新薬師寺の近くにある自宅に博士を訪ねたことがある。正確には、岡博士の思想に魅せられた大学の後輩に誘われて行ったのである。
当時、自宅周辺にはほとんど住宅はなく、古い土塀に沿って小道があって、その先に高円山(たかまどやま)の原生林を背にするようにして博士の家はあった。
 
 博士は、数学の研究者としてだけでなく、大変な碩学で、日本文化に関心を寄せ、民族の心に深い洞察力を持っていた。『春宵十話』毎日新聞社、『紫の火花』朝日新聞社、小林秀雄との対談、『人間の建設』新潮社など次々と書を出し、学研からは、岡潔集全五巻が出版された。一巻毎に対談が企画されていて、井上靖、司馬遼太郎、石原慎太郎、松下幸之助、小林茂などの角界の著名人が登場している。
博士の繰り返し述べるところは、戦後めざましく経済復興を遂げた日本人の心に、物質的欲望、とりわけ自我を第一とする考えが強まっていくことに対する警告であった。現代の世相を見ると、博士の危惧したところは残念ながら見事に的中してしまっている。あまりにも残酷で、自己中心的な犯罪が増えている。
 博士の思索は、仏教、神道、キリスト教といった宗教にもとらわれず、晩年は心そのものを追求し、世人には極めて難解な思想と映った。けれども、博士に直接お会いし耳を澄まして聴くと、その調べは実にさわやかで心地良いものだと言える。ただ、そう思える人は、今の日本には少ないだろうと思う。なぜなら、
「物質というものはない。造化が放送するテレビ放送、映像である」
こうはっきりと言われれば、ほとんどの人がとまどってしまう。しかし、
「人は懐かしさと喜びの世界に生きている」
「人は他人の喜び、それ以上に悲しみがわかる人でなければならない」
「人のこころの中核は情です。真心に対しては、人は疑いという気持ちが起こらない」
という表現になっていくと納得がいくのである。
実際、博士に直接会い、その一瞬一瞬の生を真剣に生きる姿と肉声に触れると言行一致の強烈な印象が心に刻まれることになる。
 もう、お会いしてから四半世紀近くの時が流れているが、今もって一介の名も知らぬ青年に、真心こめて講義された博士の姿が今も鮮明に想い出されるのである。博士に直接電話して面会を求めた後輩のかわりに上座に座らされて、奇しくも博士と対座することになった。それは実に大事なことであって、今になってみると、自分の人生にとって幸運としか言えない。博士の背後にある襖の上には熊谷守一の蟻のシンプルな絵が何とも印象的で、今日でもその色や線までも再現できるような錯覚がある。
 
 博士の一言一句は心の底に沈んだが、心の調べは消えない。だからこそその時の過去の情景が懐かしいのだろうと思う。岡家を去るときに、博士は不自由な高齢の体で玄関に見送りに出られた。その姿と言葉は生涯忘れられない。
「僕は、足腰はダメだが、首から上は大丈夫。タクシーを呼びましょうか」
博士は座ったままで申し分けなそうに、しかも優しい眼差しで若者を送ってくれたのである。それが博士とのこの世の永別となった。帰りの道すがら見る古い奈良の風景が、格別なものに見えた。
格別とは、何か悠久なものに触れたような気分である。博士のこころの深さを悠久なものに感じたからであろうか。
 博士には、ミチ夫人との間に一男二女があって、次女の松原さおりさんが、博士の死後二十数年に亘って、博士を人生の師と仰ぎ、想いを寄せる人達のために毎年自宅を提供して『春雨忌』を催してくれている。『春雨忌』は、芭蕉の
春雨の蓬を濡らす草の道
をとりわけ生前高く評価し、「自分は、慈雨のように春雨の小止みなく降り続くように説き去り、説き来るようにして世の人々に良き心が芽生えるようにしたい」という悲願からとったのである。第七稿でついに未刊となった著書は『春雨の曲』であった。
松原家のその想いと労苦にはいつも頭が下がる。ご主人は地質学の先生、一子始さんは、生物学を専攻する京大の学生さんである。博士から松原父子ともに京大というところが素晴らしい。始さんは、俗称「ハメちゃん」で、春雨忌に集まる人から愛称こめてそう呼ばれている。幼い時から見ているのでそう親しく呼ぶようになったのであろう。小さい時から利発で良く気の廻る、しかも博学の男の子であった。
時を別にして、就学前の我が子を春雨忌に連れていったことがあったが、玄関前で、虫眼鏡で黒く塗った紙に太陽光線を当てて娘と遊んでくれたハメちゃんのことが忘れられない。
五、六人が泊まり食事や風呂の世話などし、夜遅くまでお話くださるので睡眠時間も少なくさぞかし大変だと思うが、言葉に出さない。いつかはそのご恩に報いたいと思う。春雨忌に集う人達は全国にいるのだから、老年になったら各地を旅されたらと思う。
二〇〇〇年の夏、関東在住の有志で信州や、群馬の榛名湖をご案内することができた。今回は、松原家に三泊もしてしまった。まるでずうずうしくも居候のように甘えて、奈良公園あたりをブラブラしたり、気ままに博士の遺稿などを読みふけったりして、それが一人だけではないのだからひどい迷惑に違いない。
 二〇〇一年の九月頃、博士の生誕百年を記念して本が出版される予定である。多くの人の目に触れ読んで欲しいと思うが、出版社は以前のようには売れないと思っている。二〇〇〇部から始めるという。出版社は、哲学者西田幾多郎や鈴木大拙の著書を出している燈影舎に決まった。
岡博士は京都帝大入学時は理学科で、そこには西田幾多郎の子息の外彦氏がいた。これも何かのご縁なのかも知れない。外彦氏の妻は西田あささんといって、晩年、群馬県榛名の新生会の老人施設に入居し、ひとときの知己を得た。
 博士の生誕地は、和歌山県と大阪府の境にある紀見峠にある。今は、和歌山県橋本市になっているが、標高四百メートルを越える山間の里である。岡家は代々、庄屋であった。博士の祖父にあたる文一郎は、篤志家で一山に私財を投じてトンネルを掘った。今では〝手掘りトンネル〟としてハイキングコースの名所になっている。車が通るには狭く、電灯もない暗闇のトンネルだが、入り口と出口はしっかりと石積みされ大変な費用と時間が費やされたことが容易に想像される。
博士の墓地は、奈良白豪寺の近くの霊園にあるが、分骨されて紀見峠の岡家先祖代々の墓地に、ミチ夫人とともに眠っている。この地は土葬の風習があり、遺骨は石塔とは別の何の変哲もない叢に埋めれている。自然に帰ることを説いた博士にふさわしいと思った。
伊勢神宮の皇学館で神官となろうとしている墓参に加わった恵良さんの横笛の音は、薫風と青葉の中に清楚に流れて清々しく響いた。棚田で弁当を広げ、移りゆく春の緑の中で昼食となったが、また忘れられない人生のひとこまが与えられた。
 
 群馬を立って四日目の五月一日、松原宅を辞して近鉄で西の京駅に向かう。ここには薬師寺と唐招提寺がある。薬師寺は、故高田好胤がその復興に力を尽くした法相宗の寺である。東塔が古く創建時の面影を残している。
行く秋や大和の国の薬師寺の
    塔の上なるひとひらの雲
佐々木信綱の歌碑がある。薬師如来、日光菩薩、月光菩薩の安置されている本堂や西塔も完成し、往時の寺の骨格ができつつある。
 高田好胤は、仏教哲学である唯識に詳しく、はるばるインドから仏教を古代中国の唐に伝えた玄奘三蔵を尊敬してやまなかった。薬師寺を訪れる修学旅行生に仏教を易しく語り、著書も書いてマスコミにとりあげられ、寺への寄進は目を見張るものがあった。その修学旅行生の一人の女性と結婚し話題ともなった。後に離婚することになったがそれなりの理由があったのであろう。名僧であるかないかは知らないが、仏教に帰依した人には違いない。
 好胤師と同じく、三蔵法師を思慕する人物がいる。画家平山郁夫である。彼は、「仏教伝来」を画壇へのデビュー作としてシルクロードをライフワークとしてきた。平山氏の壁画が玄奘三蔵院に完成し公開されていた。それを見たかったのである。
最近、イスラム教徒の手で破壊されたバーミアンの石像の遠景も描かれている。ほぼ中央には、パミール高原の高峰が、雪をかぶり須弥山と題されて神秘の景観を見事に描き出していた。最後は、大雁塔であるが、数年前、この塔が建てられてより千数百年後の姿を西安で見た。人が命をかけても惜しくないものを求めた人物を思慕し、高田好胤も平山郁夫もまた命をかけてきたのである。
 薬師寺から徒歩で一〇分ほどの距離に唐招提寺はある。先の阪神淡路大震災で建物がゆがみ、金堂は十年近くの歳月をかけて修復されることになった。正門から見えたあの美しい建物はすっかり修復のための建物に覆われてしまっている。もちろん「天平の甍」も見られない。井上靖の小説『天平の甍』は、唐の高僧鑑真和上の東征を感動的に描いている。鑑真も命がけの人であった。国禁を犯すに近いかたちで仏教の布教のために日本に渡ったのである。再度にわたる渡航の失敗にもめげず、さらには六十五歳の高齢で盲目になっても日本を目指したのである。
若葉して御目の雫ぬぐはばや
の句碑も初めて見た。
 
 この日は、受付の人が改修中の入場に申し訳なさそうに、「鑑真の故郷楊州の花ケイ花がきれいに咲いているから是非見てください」と順路とともにこまかな説明をしていた。ケイ花は低木だが白い花であった。隣には藤が満開に咲いている。ケイ花と藤、それは日中友好とも言うべき組み合わせになっている。
 『天平の甍』は、長編小説ではない。遣唐使として律宗僧を日本に招聘する任務を課せられた栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)の若き僧に焦点を当てて描かれている。聖徳太子没後百年以上も経た聖武天皇の治世には、税をのがれるために多くの農民が寺をめざし僧になることを求め社会的な問題になっていた。僧たる資格の基準を示すところの高僧がいなかったし、その教本もなかったのである。鑑真和上の渡来の背景にはそうした事情があったのである。
 栄叡は大陸で没し、普照は帰国した。彼ら以前に唐に渡っていた業行は、数十年の歳月をかけひたすら経典を写し続けた。帰国のための船は四艘であったが、業行は最後の舟に乗った。その舟には阿倍仲麻呂も乗船していたが、この舟だけが難破し、業行は経典とともに海に沈んだのである。仲麻呂は唐の都に戻ることはできたが、生きて日本の土を踏むことはなかった。
 天の原ふりさけ見れば春日なる
       三笠の山にいでし月かも
仲麻呂の悲運もさることながら、業行の末路は悲しい。『天平の甍』の影の圧巻は業行の報われない悲運の生涯であったように思う。業行が故国にたどり着いていれば、後に空海が伝えた密教がいち早く日本に伝えられていたのである。ただ空海と言う天才の出現を待たなければならなかったのかもしれない。歴史や人生もそうしたくり返しとも言えなくはない。
 人の世の無常というもその日々を
       真心尽くす人に幸あり
老年まで、もくもくと経典を捜し続け、ただひたすらに写しとり、わが身とともに海の藻屑と消えた業行の生涯はあまりにも日本人的である。世の影となり、脚光も浴びず尊い仕事を成していく。
そのような人の上に日本の国が成り立ってきたことを忘れないでおこう。生きがいのある人生とはこころのありかたによって決まる。業行の人生に生きがいがあったことは疑いのないところである。それで報われている。


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