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2013年04月26日

『春の雲』長崎への旅

長崎への旅
 
 夜明けとともに門司港に着く。門司は雨だった。少し早い朝食だが船内ですます。門司駅から特急で長崎をめざす。約三時間半、船中泊では熟睡できなかった分を車内で眠る。博多、鳥栖、佐賀::。長崎県の土を踏むのはこれが始めてである。
 長崎は、江戸幕府が鎖国政策をとりながらも、わずかな扉を西洋に向かって開いていた。出島にあってオランダだけには貿易を許していた。出島は、扇の一部を切り取った形をしていて、縦百メートル、横二五〇メートル程の人工の島で、橋で陸と繋がっていた。現在、ミニュチュア版の出島が当時の場所に作られているがそれほど広くはない。出島の跡地には資料館が建てられていて、周囲は埋められて市街地となり、今は海には面していない。
 豊臣秀吉の政権から徳川幕府へと移る中、ザビエルやフロイスが布教したキリスト教は弾圧され、二六聖人の殉教や島原の乱が起こり、以降キリスト教徒の受難の時代が長く続くのである。出島にオランダだけの交易を許していた時期、すでにポルトガル人は国外追放となっていた。出島は、日本に居留していたポルトガル人を収容するために造られた島であった。ポルトガルとの国交断絶は、キリスト教の布教と無関係ではない。鎖国の時代から、固く信仰を守り続けてきた人を隠れキリシタンと呼んだ。
 
 長崎浦上の地には、建築当時東洋一と言われた壮麗なレンガ造りの天主堂が築かれた。街にはアンジュラスの鐘が鳴り響き、市民にとって安らぎを与えていた。まさしく、浦上天主堂は、キリスト教弾圧に耐えてきた人々の何世代に亘る信仰の継続がもたらした象徴的な建物であった。昭和二十年八月九日十一時二分、この天主堂から一キロメートルも満たない地点、地上約五百メートルの上空で、広島に続く第二の原子爆弾が炸裂し、一瞬にして長崎市は灰燼に帰した。天主堂も破壊され、鐘楼とともにアンジェラスの鐘も地上に落ちた。鐘楼の残骸は、当時の惨状を想起させるように、あえて放置され、天主堂の立つ小高い丘の斜面に苔むしていた。
 
 浦上の地で忘れられない人がいる。永井隆博士である。〝浦上の聖人〟と言われ、「如己堂」という二畳程の家に白血病の病に身を伏し、平和を祈り多くの書を世に出した。妻を原爆で失い、二人の幼き子供の成長に限られた生の中で愛を注いだ。〝如己愛人〟は、「己の如く隣人を愛せよ」という聖書の言葉から博士が選らび、漢文体にしたものである。記念館に飾られた博士の書は見事である。絵も亦よい。緑夫人の昇天の絵などはマリヤ様を想像させる。
 永井隆は、明治四十一年に松江市に生まれた。父親は医師であった。松江中学から長崎医大に進み首席で卒業した。専攻は放射線医学であった。江戸時代、キリシタンの信徒頭をつとめる家系に生まれた森山緑と結婚する。大学時代に下宿していた家の一人娘であった。卒業から三年後のことであった。結婚の前に永井は洗礼を受けた。中学時代、唯物論に傾倒していた男が信者になったのは、実に森山緑の影響が強い。
 永井博士が慢性骨髄性白血病となったのは、原爆により放射能を浴びたためではない。戦争中に結核診断のためにレントゲンを撮り続けたことによる結果であった。一日百人のレントゲン撮影をこなし、フィルムが不足し多くは直視で行ったため信じられないほどの放射線を受けたのである。原爆投下の三カ月前に診断され「余命三年」と告げられた。妻に打ち明けると、気丈な態度で「神様の栄光のためネ」と言ったという。
 原爆投下の日、妻はいつものように笑みを浮かべて博士を送った。弁当を忘れたことに気づき引き返すと、妻は玄関先にうずくまって泣いていたのを見た。気丈な態度の内面には、いつも博士の身を按じる心の辛さがあったのである。これが妻との永別となった。原爆が落ちたとき、博士は長崎医大の建物の中にいたが、爆風で吹き飛ばされ、ガラスの破片などで大傷を受けた。簡単な治療を済まし、三日間被爆者の救護活動をして家には帰らなかった。家に帰ったとき、台所あたりに黒い塊があった。それは妻の腰椎と骨盤であった。〝腰椎と骨盤〟医師であったがための悲しい発見であった。傍に十字架のついたロザリオの鎖が残っていた。骨と化した妻同様、原型を留めてはいなかった。博士は、救護活動をしている間に、妻の死を感じとっていた。生きていれば、深傷を負っていても生命ある限りは、這ってでも自分の安否を訪ねて来る女性だったからである。家から長崎医大までは一キロメートルもない。
 
 サトウハチローが作詞し、古関裕而が作曲し、藤山一郎が唄った「長崎の鐘」の背景にあるものはずっしりと重いものがある。永井記念館から平和公園までは、わずかな距離であるが、歩きながら何度も目頭が熱くなり、立ち止まって五月の青空を見上げた。
「こよなく晴れた青空を悲しと思うせつなさよ:::」
八月九日の長崎の空も青く澄んでいた。
 平和公園には、北村西望作の「平和の像」が立っていた。どっしりと座した男性の右手は空を指し、左手は真横に伸ばしている。戦争の終結を早めるために原爆を使用したということだが、落とせばどうなるかは分っていたはずである。非戦闘員である市民が暮らす場所に。
 「アメリカという国は、極端に善いものから悪いものまであります」
という国際基督教大学の学長や同志社大学の総長を務めた湯浅八郎氏の言葉を思い出した。力の強い者は何をしても良いというものではない。ただ戦争というものは嗜虐的なことどもを生み出す。
 平和公園の丘を下ると爆心地に至る。さまざまなモニュメントがあった。浦上天主堂の建物の一部も移されていた。浦上駅前の市電乗り場から長崎駅方面に向かう。市電はどこで降りても百円。子供は半額である。かつての京都市がそうであったが、市電が廃止されてからもう久しい。
 
 二六聖人記念館は、長崎駅に近い小高い丘にある。キリストが処刑されたゴルゴダの丘に似ているという人もいる。坂下はNHKの長崎支局がある。二六聖人の中にパウロ三木がいる。織田信長の家臣、三木半太夫の子で三十三歳で殉教を遂げた。大坂で捕らえられ、長崎までの道すがら説教を続け、刑死する直前までやめなかった。「汝の敵を愛せよ」のキリストの言葉が語られ、「私は太閤様を憎んではいない。この国がイエズスの教えに従うことを祈っているのだ」と信仰の喜びの中に息絶えた。フロイスはそう記録の中に記している。
 沢田政広作のパウロ三木の木彫の像は凛々しく、十字架上の横木にしっかり足をつけ、顔には穏かな笑みすら浮かべ、柔和な彼の心が伝わってくるようである。
 「良い知らせを伝える者の足はなんと美しいことか」
と聖書の中にある。仏教の菩薩像の足は片方が少し前に出ている。それは、衆生を導くために歩みだそうとしている姿だ、とある彫刻家から聞いたことがある。記念館の前には、海に向かって手を祈るように広げた二六聖人の彫刻が、壁面にレリフのようにして刻まれている。作者は舟越保武である。
 殉教について考えてみる。迫害にあっても信仰を捨てず、ひたすら教えに従い、その結果死に至る。どうしてそのようなことが起こるのであろうか。人は死を恐れる。保身をはかり、他人を犠牲にしても生き延びたいと思うものである。仏教では人間の心の中には無明が働いていて無意識的に死を避けるようにできている、だから無明を抑えるように生きよと教えている。無明とは生きる盲目的意志のことである。無明の主人公は、自我である。自我に対して大我、真我というのがあって、これは人を生かしてくれるもの、そう考えることが信仰の窓口であり、その実感と確信の深さが殉教とは無縁ではない。
 殉教、この言葉自体がキリスト教に付随しているように響くのは、キリスト教徒の殉教が多いからであろう。鍵は「愛」、「真心」という言葉であろう。愛の本質は、自己犠牲であると思う。他人を守るために身を挺し、その結果の死は、無条件に愛の行為である。線路に落ちた人を救おうとして列車に跳ねられて死んだ人の話があったが、殉教の心と同じである。「真心」とは、「かくすればかくなるものとは知りながら やむにやまれぬ」という心のことである。人が悲しんでいるの見たら何の疑いもなく悲しいと思う人の心のことである。
 「諸君は功業を成すつもり、僕は忠義を成すつもり」
と松下村塾の弟子たちに告げて刑死した吉田松陰も殉教者と言える。
「死を見ること帰するが如し」
大我、愛、真心の人は喜んで帰って行ける心の故郷をもっているような気がする。
 パウロ三木という戦国時代に生きた青年には、キリストが十字架の道へ至る気分がある。自分の行為や言葉が死であるという自覚をもっているからである。キリストから「あなたは、鶏が鳴くとき、三度とも私を知らないと言うだろう」という人とは違っている。保身を図ることを咎めることはできないが、裏切りや、人を落とし入れる行為は死に値する。

 坂本竜馬が興した日本最初のカンパニー(会社)、亀山社中は伊良林地区の傾斜地に建っていた。個人の所有地になっているが、当時の建物として今も保存されている。竜馬が背をもたれたという柱も健在であった。屋根の一部は、原爆による爆風で吹き飛ばされ修復され今日に至っている。この、ちっぽけな亀山社中を拠点に、倒幕の基礎となった薩長連合に竜馬は一役買ったのである。長州藩の米は薩摩に、そして薩摩藩の名義で武器が長州にわたった。理念だけでなく、実利を心得ていたのが坂本竜馬である。有名な「船中八策」の写しも見た。
 亀山社中から坂道を登ると風頭公園に辿りつく。竜馬の像が建っていて、長崎市街と湾が見渡せる。細く長くのびていて良港であることがわかる。幕末当時、外国船が停泊している風景を想像して見た。竜馬は遠く海外を見ていたのかも知れない。竜馬像の目もはるか彼方を見つめているように見えた。近年、像の近くに、司馬遼太郎の『竜馬が行く』の一節を記した石碑ができた。
 
 伊良林地区の坂道を下り、中島川を渡ると鳴滝地区にシーボルト記念館がある。外観がレンガ風に作られたりっぱな洋館で、長崎市の市営となっている。亀山社中とは対象的である。シーボルトは、ドイツ生まれであったが、オランダ医として長崎に来た。一八二三年、シーボルト二七歳の時であった。
 シーボルトは、医学だけでなく生物学や他の分野の学問も学び、日本文化に対する関心が強かった。短い日本での滞在中に、多岐にわたるサンプルを収集した。一方西洋医学のすぐれた技術と知識を与え、多くの蘭学医を育てた。その塾の跡が、現在のシーボルト記念館になっている。オランダの領事を将軍が謁見するのが江戸参府で、シーボルトもその一員に加わった。江戸滞在中に収集した樺太の絵図が引き金になってスパイ容疑がかかり、取調べの後国外追放になる。世にいうシーボルト事件である。
 シーボルトは、たきという日本女性の間に一子をもうけた。日本最初の産科医、楠本イネである。妻子を置いて故国に帰ることになった。日本が開国する三〇年の間に、日本で収集した資料を整理し、西洋に日本文化を正しく伝えたのはシーボルトの業績である。シーボルトが日本の土を再び踏んだのは六三歳のときであった。しかし、三〇年の月日はあまりにも長かった。またも妻子と別れオランダに帰る。オランダには、四九歳の時再婚したヘレーネという貴族出身の女性との間に三男二女があった。シーボルトは最後まで日本を愛した。七〇歳で世を去る直前に、
 「私は美しく平和な国に行く」と呟いたと言う。美しく平和の国とは日本であった。
 オランダ坂から孔子廟、グラバー公園と歩く。長崎は坂の多い街である。木々の緑が綺麗で、メタアセコイヤの緑は柔らかく目に映った。異文化との交流地点で歴史的なドラマがあり、海と山が迫って美しく旅情は独得なものがある。新婚旅行や恋人と歩くのに相応しい街であると思った。大浦天主堂は、木造建築の古い教会だが、五月三日の祭日であったので国旗がたなびいていた。日の丸と教会、いかにも長崎らしいとカメラに収めた。この地の名物にカステラがある。幼い時からの大好物で、世の中にこれほどうまい物があるのかと思う。カステラを食べるたびにドラマチックな長崎行が思い出されるかも知れない。



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