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2013年04月27日

『春の雲』薩摩への旅

薩摩への旅
 七月七日、七夕の日、早朝群馬を立ち羽田より鹿児島空港へ。東京の空は晴れていたが鹿児島は雨だった。
薩摩半島の南端には枕崎市がある。人口は三万人に満たないが遠洋漁業の町として知られている。空港からは、バスで行く。枕崎駅は大変ローカルな駅であった。切符は駅では買わず、支払いは車内か到着駅でする。運転手は車掌も兼ねて一人である。この日の運転手は、気さくな人で、運転しながら客と話をしている。停車駅で停車時間が長いときには「時間がありますから、タバコでも吸ってください」といって自分も一服している。
都会にないのどかさと人情がある。
 

 駅前の店で鰹料理を食べたが、頭の味噌煮は、この店の自慢料理らしく美味しかった。〝ビンタ〟というのが料理の名前である。目の周囲のゼラチン質のところが体に良いと店の人が説明する。張り紙にも「癌の予防になる。高血圧に良い」などと書かれている。
 観光する時間はなかったが、魚センターをのぞく。鰹節が名物で、乾燥したものや、半干状態のものもあって値段も安い。鰹の腹の部分だけを冷凍して売っている。現地でなければ買えない品物だが、旅の初日ということもあり、手は出さなかった。店の一角に、北海道直送と書かれたコーナーがあった。九州最南端の漁業の町に北海道の海産物が売られている。不思議に思うが、インフラの進んだ日本ならではである。中国大陸であったらありえないだろう。また、店の人の売り方もしつこくなくて良い。正直な売り方だと思うから、かえって買いやすい。このことは、鹿児島県にいるうちその印象は変わらなかった。
 観光地というほどの場所ではないが、枕崎の近くの海岸に坊津(ぼうのつ)という地名がある。ここは、唐の高僧鑑真が遣唐使船でたどりついた場所だと伝えられている。
二時二九分、枕崎駅から指宿市をめざす。いぶすきと読むが砂蒸し風呂の温泉地として全国的知られているから読めるのであって、普通は読めない地名である。
 鹿児島県は、江戸幕藩体制下にあっては、島津氏の支配する地であった。西に薩摩半島、東に大隈半島があり、その間に鹿児島湾が入り込んでいる。錦江湾ともいうが、この方が日本語としての響きは良い。宮崎県の一部日向の地も薩摩藩に組み込まれていた。指宿は薩摩半島の錦江湾側にあり、対岸は大隅半島で視野に入る距離である。十キロ前後の距離に見える。錦江湾の出口にあたり、種子島や屋久島の浮かぶ東シナ海も望める。
鹿児島の土壌の多くは、シラス台地という火山灰地である。列車から見る田園風景に田は少なく、畑が多いのは土壌と無関係ではない。サツマイモは、この地より全国に広まったというが、唐芋という呼び名もある。中国から伝わったからである。
今日なお産地となっているのは、この地の土壌が栽培に適しているからである。収穫を前にした畑の隣には、苗木が植えられ、年に二度の収穫が可能になる温暖な気候にも恵まれている。
 島津家の始祖は、忠久である。源頼朝の長庶子とも伝えられている。戦国末期に大名として登場する徳川家よりは、その格式が高いとも言える。この国の場合、天皇家への血の距離が格式の高さになってきたが、島津家の場合は、系図の長さ、歴史の長さはそれぞれ三十二代、八〇〇余年と徳川家を上回っている。
 
 島津家別邸として今も残っている仙巌園は、磯庭園といわれ、桜島と錦江湾を借景とする名勝である。島津家の当主として歴史の表舞台に登場するのは、十五代の貴久で、フランシスコ・ザビエルの日本での布教を許している。十七代の義弘は関が原の戦いで東軍と戦った。西軍としては敗れたが、敵陣を突破したその勇猛果敢な戦いぶりは、後世に伝えられ、薩摩隼人の武人としての強さを人々に植え付けたと言ってよい。
 二十八代斉彬(なりあきら)は、徳川期の大名のうち最も優れた人物と評価されるほどに開明的な殿様であった。薩摩藩の船に日章旗を掲げたのは斉彬である。斉彬は、諸外国の脅威が迫るのをアヘン戦争などの情報により知り、殖産して富国強兵して日本を守ろうとした。西洋の文明の高さを知り、磯庭園の一隅に反射炉や諸工場を作り、国難の時に備えたのである。紡績工場だったという石造りの建物は島津家の歴史資料館になっている。
 その斉彬に認められたのが、西郷吉之助、後の西郷隆盛であった。斉彬が急死し、遺言により久光の長男忠義に家督を譲るのだが、実権は久光にあった。久光は保守的人物だったというが、幕末にあって、影響力をもった。
 平成になって、島津家はもはや華族という特権階級でもないが、当主修久(のぶひさ)氏が三十二代にあたる。昭和天皇の后、良子皇太后様の母君は宮家に島津家から嫁がれた。昭和天皇に遅れること十三年、百歳に近い長寿をまっとうされ身罷れた。皇太后は生前の呼び名である。島津家のことに少し寄り道をし過ぎた。
 今回の旅のテーマは、終焉ということにした。人の最後、人生の終末を考えてみたかったからである。指宿の近く、内陸に入ったところに知覧町があるが、ここは太平洋戦争中陸軍の航空基地があった。特攻隊員の飛び立つ基地であった。陸軍の特攻攻撃による死者は千余名にも達した。多くがこの知覧から、東シナ海沖縄水域に散っていった。大隅半島鹿屋には、海軍の特攻基地があった。今では海上自衛隊の基地となっている。特攻隊による殉職者は海軍の方が多い。それは、飛行機だけでなく潜水艇による特攻があったからであり、発案者の大西中将は海軍であった。終戦の翌日、責任をとって自決したが、知覧にある特攻記念館で遺書の写しを見た。特攻攻撃に犠牲となった隊員とその遺族に深く詫び、戦後、残った若者は生きて国の発展のために尽くし、世界平和を求めてほしいという文面である。指揮官である大西中将を責めるというより戦争という時代が生んだ悲劇である。ただ、戦術として組織化したところにどうしても批判は残る。人の命を武器として、死を強制する権利は、近代国家にはない。
 
 知覧町は、薩摩藩独得な郷士組織の中で武家屋敷を今も留めている地として知られている。薩摩藩は、鹿児島市内にある鶴丸城の他、外城を築かなかった。一一三の郷士地区を定め、それぞれに守らせた。「人は石垣、人は城、情けは味方、仇は敵」甲州武田氏の思想に似ている。今回はくり返すが人の終焉がテーマである。まだ、歴史的には温もりのある太平洋戦争末期に多くの若者を死地に向わせた特攻基地に関心を寄せた。
 特攻隊の若者の死はあまりにも悲しい。桜花の散るように美しいと見るよりも、若草が萌え出でようとする青春期の芽というよりは、草そのものを根こそぎ奪われてしまう感があるからである。
また、特攻攻撃に志願した、あるいは表現はきついが駆り出された人々は、生育した地に二度と戻れぬ、切り集められた生花に似ている。ただそれは、美しい花を愛でる人の喜びを生むというのではなく、国を守るための生贄のように見える。特攻隊員は、戦死後二階級特進する。二十歳前後ながら、少尉、中尉、大尉となる。また、命(みこと)となって神として靖国神社に祀られる。彼らの終焉は他人から美化されても、彼らからして本当に納得して旅立てたのであろうか。
 「月光の夏」という小説がある。映画にもなった。特攻に立つ前に、どうしてもピアノを弾いて死にたかった隊員がいた。一人は音楽学校、一人は師範学校から特攻隊員となっていた。佐賀県鳥栖市のある小学校にピアノが置いてあることを知り、校長に許可を得て弾いた。曲はベートーベンの「月光」であった。その音色に惹かれ、先生や生徒が集まってきて、耳を傾ける。隊に戻る時間も迫り、隊員は感謝してその場を辞そうとする。そのとき、聴衆であったあった誰からともなく「海ゆかば」を歌って送ろうということになった。「月光」の譜面を捲っていたもう一人の隊員が、伴奏した。
 「海征(ゆ)かば、水漬(づ)かばね
山征かば草むすかばね
大君の辺(へ)にこそ死なめ
かえりみはせじ」
歌の作者は大伴家持である。
 この夜のことは、ある時まで居合わせた人々の記憶から消えた。鳥栖の学校から特攻隊員が弾いたというピアノが古くなり廃棄されるというときになって、当時その場にいた代用教員であった女性がこの思い出を語り、ピアノの保存を訴えたのである。あまりにも感動的な話として、新聞、テレビで報道され有名になる。あの日から四十五年の歳月が経っていた。ところが、皮肉なことにある一人の人間を苦しめていた。実は、二人の特攻隊員のうち一人は生きていたのである。友は死んだ。「月光」を弾いた男であった。生き残ったのは「海ゆかば」を伴奏した男である。
 生と死。特攻の日、飛行機のエンジンの故障により引き返したことにより、彼はなんとも苦痛な長い年月を過ごしてきたのである。死んだ隊員は、英雄となった。
 死は一瞬の苦痛であろう。しかし、死について時間を限って予告的に知らされた人の生き様というものは、どんなものであろう。知覧で見た隊員達の写真は、時に笑み浮かべている。遺書も、思い残すことはあっても、真摯であり、人間性に溢れている。人は何時死ぬか分らないから、生をまっとうすることができるのであって、死の宣告というのは無残なことである。自覚し、承知の上で刑死したキリストにしても辛いものがあったであろう。
「主よ、われをなぜ見離し給うか」
という絶叫には、人としての辛さを想像しても良いような気がする。もちろん、信仰の人には反論されることは知りつつも。
 
 映画「ホタル」が上映されている。鹿児島の旅から帰り、その余韻がホタルの光りほどになった頃見たのである。主役は高倉健、特攻隊員の生き残りを演じている。監督は降旗康男で、大ヒットした「鉄道員(ぽっぽや)」のコンビである。朴訥で寡黙な高倉健のキャラクターが生きている。
 知覧特攻基地の近くに食堂を経営する鳥浜トメという女性がいた。店の名は冨屋食堂。トメは「特攻の母」と隊員から慕われた。平成四年八十九歳の生涯を閉じた。富屋旅館は、特攻隊員と肉親との最後の別れの場所であり、隊員同士の束の間の憩の場でもあった。トメは、店が軍の指定の食堂にもかかわらず蓄財するどころか、隊員の死出の旅立ちに旅費をさしだすようにして隊員をねぎらいふるまった。戦後は、彼らの供養のために、今日の「知覧特攻平和会館」建設の呼び水の働きをした。映画「ホタル」のヒントは、鳥浜トメに特攻隊員が残していった肉声の記憶にあった。
 宮川軍曹(戦死して少尉)は、出撃前夜、富屋旅館に来て、
 「明日は沖縄に行き、敵艦をやっつけてくる。帰ってきたときは、よくやったと喜んでほしい」と言った。トメは、
 「どんなにして帰って来るの?」
と尋ねると
 「ホタルになって帰ってくる」
と彼は言ったという。
 宮川軍曹が出撃した日の夜、次の出撃を待つ隊員が富屋旅館を訪れていた。そこに一匹のホタルが舞い込んできた。本当に宮川軍曹がホタルとなって帰ってきたと皆が口々につぶやき、見入っていた。映画「ホタル」の題名はこのエピソードから生まれた。
 特攻隊員の中には、朝鮮出身の者もいた。故国の民謡「アリラン」をトメの前で泣きながら歌って出撃していった、光山博文少尉。映画「ホタル」の金山少尉のモデルとなった。
 戦死した金山少尉の許婚(いいなずけ)が山岡知子である。知子を演じるのは田中裕子である。気丈さと、あどけない女性の雰囲気を出している。金山少尉のまさに出撃するときに「一緒に連れて行ってほしい」と泣きすがる知子と、未練もありながら飛び立っていく金山少尉の別れの場面は、男女の愛の美しさと辛さを表現していている。戦後、金山少尉の部下であった山岡曹長は知子と結婚する。同情で結婚してほしくないという知子も山岡の愛を受け入れていく。山岡も生き残りの苦しさを秘めながら漁師として生きていく。知子の命は、腎臓の病気で一年余しかないと山岡は医師から告げられていた。韓国に住む金山少尉の遺族に、出撃前に少尉が語った遺言とも言える言葉を伝える決意をする。開聞岳が見える波の打ち寄せる海岸で聞いた言葉を。その内容は、
 「トモちゃんありがとう。明日は出撃します。私は、日本帝国のために死ぬのではありません。朝鮮の家族のため、トモちゃんのため民族の誇りをもって死にます。トモちゃん万歳、朝鮮民族万歳」
 トモちゃんとは山岡の妻のことである。この金山少尉の言葉は、もう一人の部下であった藤枝伍長が聞いていたが、彼は既にこの世にはなく、金山少尉の生きた証を知るのは山岡だけだった。過去を語ろうとしなかった山岡だが、特攻体験者として尋ねられると、
 「生きているもんも、死んだもんも前に向って進んでいる」
と鹿児島弁で、若い記者にポツリという。「月光の夏」、「ホタル」という特攻にまつわる物語は、人の死から逆にいかに生きるかということを考えさせられる。
 知覧町から鹿児島市に向う。二日目の宿(ジャルシティーホテル)は西郷隆盛の生家に近かった。西郷隆盛は正直な人であった。徳のあった人である。徳があるということはどういうことかと言えば、生ある限り他人を愛せる人のことである。「自分に愛を引き寄せることより、ひたすら愛を尽くすことが大事だ」と言ったロシヤの文豪トルストイの言葉のように生きられる人である。西郷さんは人からも愛された。西南戦争のときのエピソードがある。中津藩士で増田宗太郎という武士が郷土の有志を引きつれ薩摩軍に参加した。敗色が濃くなり、故郷に帰るときになって、彼はこのまま戦を続けるが、他は自由にしてもらいたいと隊員に言う。薩摩軍には何の義理があるわけではなく隊員が増田に尋ねると


 「西郷という人に接すると、一日いれば一日の愛が生ずる。何度も会っているうちに離れがたくなってしまった」
と話したというのである。
 もう一つのエピソードは、ある武士が非礼なことをしたと腹を切って詫びようとすると、西郷さんは、
「腹らば切れば痛かど。血も出もっそう。おいどん、そげんこと考えとうなか」
と言って、思い留めたという話である。西郷に腹を切るという死に方はなかったようである。
 西郷隆盛は、七カ月に及ぶ西南戦争に破れ、故郷鹿児島の城山で戦死する。西郷を始め、生き残った薩摩の将兵は、故郷に骨を埋めたかったのであろう。西郷達がたてこもった城山の洞窟は、以外に市街地に近い谷のような地形にあった。しかも、彼らが学んだ私学校跡地にも近い。政府軍にいつでも攻略されても良い場所に思えた。驚くことに、この洞窟を下り、視界が広がり錦江湾が見える場所で西郷は終焉を迎えたのである。弾丸が西郷の巨体に当たり、
 「晋どん、もうここいらでよか」
〝晋どん〟とは、別府晋介のことである。かねてより西郷は、その死を他人から殺されるかたち、この期に及んでは戦死の形を望んだ。


 南州墓地で団体旅行の若者に鹿児島弁で案内する老人の解説は、このあたりの件(くだり)を
 「痛か。痛か。晋どん、もうここいらでよか」と弾に当たった苦しみを口に出している西郷さんを口上していて、この方が人間的親しみを感じさせる。南州墓地には、西郷隆盛の墓石を正面に戦没者の墓石が立ち並んでいる。陽は、傾きつつあったが、赤穂浪士の泉岳寺の墓のように訪れる人が多く、花も手向けられていた。
 朋友、勝海舟の歌が石碑に刻まれていた。
  ぬれぎぬを干そうともせず子供らが
なすがまにまに果てし君かな
 西郷の終焉に自刃ということはなかった。彼が死を求めて行動したのは、勤皇の僧月照と錦江湾に入水したときである。その後の生涯は、死は他人から与えられるという一種の殉教の道を歩んで行ったように見える。西郷自身、天寿をまっとうできるということは考えていなかったようである。
 西郷と親しかった坂本竜馬の終焉はどうだったか。京都伏見の寺田屋で幕吏により重傷を負った竜馬は、西郷のはからいで、妻お竜と霧島温泉に身を休める。日本最初の新婚旅行だと言う人がいる。薩摩の旅の紀行に竜馬も加えたい。
 坂本竜馬が好きな武田鉄也原作の漫画「おおい竜馬」の最終巻の近江屋で暗殺される場面はなんともいえない気分になる。あれほどの剣の達人が頭を切られる場面である。その鮮血は床の間の掛け軸に飛び散り、今も残されている。頭をねらった人間の残虐さを思うと殺された竜馬を愛しく思うのである。竜馬は、脳漿が流れ出ているのを自覚し、自分はダメだと思った。この日、共に倒れた中岡慎太郎には「石川動けるか」と、偽名で呼ぶ配慮をしたという。また、「医者を呼べ」とも言いたかったが大きな声にならなかった。竜馬の人生も神がとりわけ選んで与えた人生に見える。
 
 西郷の郷土の友であった大久保利通は、西南戦争の翌年、役所に出勤する途中、東京紀尾井坂で暗殺される。今のホテルニューオータニのあたりで四十七歳の生涯を終える。大久保は、西郷の幼き時からの友であり、苦難を共にしてきた。維新の英傑が多く輩出した加治屋町には、大久保の像が建っている。
 「児孫のために美田を買わず」は西郷の遺訓であるが、大久保は、借財だけを残していた。家屋敷を担保に国家経営のための借財は、今日の金で八千万円ともいう。葬儀ができないというので政府がやりくりしたという話が残っている。
 大久保は、日本のビスマルクといわれ、現実的で怜悧、非情の政治家とみる人が多い。しかし、友人西郷の死を知ったときは、家族に隠すことなく泣き叫んだという話もある。暗殺された日、包みの中に西郷の手紙があったという。
 鹿児島を立つ日、城山に上る。展望台から桜島が正面に雄大な姿を見せる。大学四年の夏だったか、九州の友人と四人で鹿児島を旅したことがあった。二十五年前に桜島を眺めたその場所に立っている。木立ちは大きく鬱蒼としていて当時と変わらない。鹿児島市内を朝から車で案内してくれた演奏家の上橋さんの話では、最近になって足元が整備されて夜でも登ってこられるようになったということである。
城山展望台の眼下に大きな社がある。照国神社である。島津斉彬を祀っている。拝殿の横に広場があって、そこに斉彬の像が建っている。盤石という表現とはこういうものかと思わせるほどにしっかりとして大きく高い石の台座の上に像がある。作者は朝倉文夫である。説明書きには出世作とあった。大分県竹田市、岡城址の滝廉太郎の像も彼の作であった。その傍らに、戊辰の役に殉じた薩摩藩の人々の名前が刻まれている。名前だけの人もいる。苗字がないということは、武士ではないということである。その数は、七百人に達しない。あの明治維新を武力によりやり遂げた雄藩の犠牲者が意外と少なかったことに驚かされる。西南戦争の薩軍の犠牲者が二千余、特攻隊は陸軍だけで一千余、太平洋戦争の戦死者は数百万ということを考えると、明治維新はほんの一握りの志をもった人々によって、しかも革命とはいえないほどに比較的血を流さないで済んだ政治変革だったと思えた。国家的規模の戦争が多くの人の犠牲を生み出すことを考えれば、話し合いによる変革の道を内政外交に求めていかなければならない。
鹿児島は、彫刻の多い町である。東郷元帥の像は海の臨める小高い岡にあり、墓地の近くに建っている。
  聖将の海を見ており蝉時雨
鶴丸城に近い通りに建つ西郷隆盛の像は巨像といえる。大久保利通、小松帯刀といった明治維新の立役者からザビエル公園の彫刻などと、数え上げれば他の地方都市のその数を凌駕するに違いない。
 旅は人のご縁の大切さを痛感させられる時でもある。音楽プロデューサーの滝沢隆さんの恩師を旅先で訪ねることになった。恩師とは、福島雄次郎という日本の民謡を題材として作曲活動をしている人である。滝沢さんのご縁で、鹿児島に住む福島先生に会うために訪ねてきた、広島県福山市の声楽家平本弘子さんとも知己を得ることができたし、ピアノ演奏で榛名に来た上橋さんには食事を一緒にしたり、市内を車で案内してもらった。福島先生の家は、見晴らしのよい高台にあり、短い時間であったが、質問はもっぱら平本さんがしたのだが、有意義な話を聞かせてもらった。二十三歳の時、結核療養後であったが、五木村で過ごした体験が後の作曲活動に影響を及ぼしたという話をされた。人気(ひとけ)の少ない山奥の中で、労働者の唄った五木の子守唄が若い福島先生の耳に残った。話の合間に、奥様が変わった葉で包んだ草餅や果物、紅茶などを出してくださる。
 「僕の曲は一生懸命さが出すぎて寛容さがない」
というと、平本さんは「そんなことはありません」と否定する。平本さんにとって福島先生の曲には強く引かれるものがあるのである。そうでなければ、ここまで会いには来ない。
 「技術的なことより、自分の人生でなければ生まれて来ない音を自然体で表現すればよい」
福島先生はそう言いたかったのだろうと思う。
〝島原の子守り唄〟を作詞した宮崎康平のことが頭をよぎった。同席した滝沢さんが、私のことを「彼は俳人です」と変な紹介をすると、先生は、
 「俳句を音楽にしたものもありますよ、朝顔の句でしたかね」
朝顔に釣瓶とられてもらい水
加賀千代女の句であるが、俳句が歌になっているというのは初耳であった。
先生は短い時間であったが、名残惜しそうに玄関先まで送ってくれた。一緒にスナップに収まった平本さんの目には光るものがあった。もう少し話したかったのだろうが帰りの飛行機の時間が迫っていた。
鹿児島に住む上橋さんに
「遊びにいらっしゃい。レッスンもしてあげますよ。僕も淋しくしてますから」
と話していたのが印象的だった。内臓の病気で午後は体調が悪いと言っていた。正直な優しい先生という感じがした。帰ったら原正男自叙伝『一筋の道』を送ろうと思う。
この日は大変暑い日であった。上橋さんが、
「シロクマを食べましょう」


というがなんのことか想像がつかない。カキ氷のことで、メロン、スイカ、オレンジと小豆が氷にのっていて、たっぷりコンデンスミルクがかかっている。なるほどダイナミックで白熊の命名がぴったりすると納得した。


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