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2013年04月27日

『春の雲』南紀白浜、難波から奈良へ

南紀白浜、難波から奈良へ
 紀州は上州からは陸路では遠い。大阪あるいは、奈良、さらには名古屋から海岸線に沿って陸路白浜をめざす方法と羽田から飛行機で白浜空港をめざす方法を比較しての実感を言うとそういうことになる。実際、時間に置き換えてみると半日と一日がかりというほどに違う。
南紀白浜は、白砂青松の日本有数の温泉地である。白浜という地名は全国に少なからずあるからあえて区別して南紀を付けている。石英が長い年月に細かく砕かれて白い浜辺を形成したことが地名の由来になっている。かつては、ガラスの原料として大量に採取された時代があったが、今は人工的に維持されている。砂岩が波によって削られた千畳敷や熊野水軍の基地となった三段壁の景勝地は白浜の海岸とは対照的であるが、ともに夕陽が海に沈むのを見る絶好の場所である。
 白浜温泉は、古くから知られていて、斉明天皇の御子有馬皇子も白浜温泉をよく訪ねたという。古代の政争の中にあって誅されたこの悲劇の御子に心を寄せる姫がいた。白良媛(シララヒメ)はその死を知らず待ち続けたという話が残っている。
秦の始皇帝は不老長寿の薬を求めて、部下を遥か日本に使わしたという伝説がある。「天台の鳥薬」を二千人という人々を引きつれ、熊野をめざした人物は徐福である。徐福達も白浜の湯に浸かったという想像も逞しくはあるが、それほどに温泉地として白浜温泉が古くから知られていたということである。しかし、この話は湯煙の中に見る風景に近い。
 白浜に近い田辺市に生れた、植物学、民俗学の奇才に南方熊楠がいる。奇才といったのは、ほとんど独学でこの分野の世界的業績を残したからである。同時代の民俗学者柳田国男に優るとも劣らないというのが近年の評価になっている。記念館は海岸近くにあって、今回は訪ねることはできなかったが、またいつかその機会があるだろう。熊楠の功績といえば、明治に起こった全国の小神社の合併に反対の論陣を張り、結果的に阻止したことであろう。その気魂は尋常ではなかった。社(やしろ)を包む森が失われることを何よりも危惧したためである、植物学者としての善意からすれば当然とも言えるが、世界各地を旅し、中国の革命家孫文とも親交があったという熊楠の行動力が実を結ばせたといってよい。
 白浜の町から富田川に沿って上る道がいわゆる熊野古道であるが、岩田地区に「愛の園」がある。神愛修女会の人々が創った老人施設である。初代霊母(修女長)は深田伊都子氏で今は故人となっている。二代目の霊母が濱野タキさんで、鞠のようなふくよかさをしていて、しかも小柄である。その表情には厳しさを内に秘めて慈愛を漂わせている。礼拝堂でお話を聴く機会があった。
「私達修(道)女は一生を神様に捧げるために生きています。その原点は榛名荘です」
濱野霊母以外に神愛修女会には修女さんが数名いて、みな高齢である。濱野霊母は、戦後まもない頃、榛名荘の結核患者の看護にあたった。当時を振り返るようにして話は続く。
 「当時は、大気療法といって、外気を直接室内にとりこむように、夜でも窓を空けたままにしておりました。私たちも患者さんの病室の一画に生活しておりましたので、雪の降る日などは、朝起きてみると布団の脇に雪が薄く積もっていることがありました。またあるときは、厨房の屋根裏のような場所で寝起きしたこともありました。寝ていると、目から涙が出てくる。(生活が辛かったのではなく)玉葱を下で刻んでいたからなんです。木村神父は、『あなたがたは、畳の上では死ねませんよ』と言われました」
木村兵三神父は、神愛修女会の創設者で、今でも修女さんたちは師父と慕っている。昇天して三十年以上になるが、いつも傍らにいるように濱野霊母は語る。
 「愛の園」の下を流れる富田川のさらに上流に本誓寺がある。住職は赤松宗典和尚で修女さん達と親しい。平成六年八月に、修女さん達に同行され榛名を訪ね、伊香保や榛名湖をご案内したことがあった。このときは、原正男理事長も健在で、新生会の職員や榛名荘ゆかりの人たちと親交、旧交を温めた。宗典和尚は、仏教、キリスト教という宗教の壁や教義に拘らない人である。真理子さんという最愛のお子さんを亡くしている。九歳という短い生涯であったが、宗典和尚は、「天に帰る約束の日」として娘の旅立ちを表現した。真理子さんの日記が残っていて、虫や動物達と遊ぶのが好きで、植物にすら話かけるほどに天使のような心性を持った少女であったという。
合掌         赤松宗典 
 父母に合掌すれば孝順となり
 子供に合掌すれば慈悲となり
 目上に合掌すれば敬愛となり
 お互いに合掌すれば平和となり
 自己に合掌すれば徳行となり
 事物に合掌すれば感謝となり
神仏に合掌すれば信心となる
今回、紀州白浜行きを思い立たせたのは、濱野霊母さんと宗典和尚の心に惹かれたのかも知れない。和尚手製の「薬師梅」を口にできなかったが、霊母さんから金山寺味噌のお土産をいただいた。宗典和尚からの贈物でもあったようにも思った。
和歌山県の果樹の生産量とその品質において優れているのは、蜜柑と梅である。山肌に蜜柑の木と梅の木が混在している。和歌山県は、平地は少なく和歌山市を河口とする紀ノ川の流域以外にほとんどないように見える。石高に意味のあった江戸時代に徳川御三家の一つ紀州藩がおかれたのは不思議である。水田が少ないからである。和歌山県の梅の生産高は、断然日本一である。二位は群馬県であるが、生産量は十倍を超える。「南高」という種の梅が特産で果肉が多く、梅干しにしても皮が薄くしかも強いので高価で売られている。南高(なんこう)という響きから、楠公、すなわち楠木正成を連想させる。鎌倉末期の武将で、河内の千早城主である。湊川の戦いで足利尊氏の大軍により戦死する。子供正成(まさつら)との別れは、歌になって残っている。「青葉茂れる桜井の:::」。千早城のあったあたりは、和歌山県境から近い。
「愛の園」に別れを告げ、海岸線に沿って宿泊地に向う。風は強く、日ざしも強い。刈り入れの終わった田はあるが、まだ夏の名残が消えていない。真珠を商う店に寄る。紀伊半島は真珠の養産地として名高い。店の前は海である。浜辺を歩く。砂浜と海の境が渚である。寄せては返す波の音にしばし聴き入る。海に発生した生命が、この渚を克服して地上に生を営むのにどれほどの時間がかかったであろうか。三好達治の詩に
 

日本よ母の中には海がある
フランスよ海の中には母がいる
というのがある。フランス語では母も海もラメールである。
南紀白浜から大阪に向う途中、紀三井寺に立ち寄る。紀伊国屋文左衛門ゆかりの寺である。孝行息子の文左衛門は、高齢の信心の深かった母親を背負い二百数十段もある寺の階段を上ることが多かった。ある日上る途中で草鞋の鼻緒が切れてしまった。それを見かねた女性が替わりの草鞋を差し出した。これがご縁となって文左衛門と夫婦となり、文左衛門が後に巨額の財を成したことから、縁結びと商売繁盛を祈願する人々が参拝するようになった。
境内には、寄進者の石塔があって、松下幸之助の名が刻まれていた。金弐阡六百万円を寄贈したことがわかる。松下電器の創業者の松下幸之助は和歌山市の出身である。経営者としてだけでなく、PHP研究所を設立し、文化的活動も行った。松下政経塾からは若い政治家が生れている。丁稚奉公から、二股ソケットの発明を契機に長寿を全うして一代で世界の松下を築いた。
大阪湾に沿った高速道路を宿泊地の難波を目指して走る。関西国際空港の人口島が目に入る。海上に浮かぶようにしてあり、近代的な橋で繋がっている。上が車道、下が鉄道となっている。島の周辺のある距離までは漁業も禁止され、進入するものは退去を命じられるとバスのガイドさんが解説していた。途中、堺市を通る。堺は、織豊時代鉄砲などの商いで特に栄えた港町である。その商人の一人に千利休がおり、後世茶道の祖と仰がれている。工場群も多く、近代構造物に埋まっているという感じで、わびの世界とは対象的な風景である。
堺の出身といえば与謝野晶子もそうである。明治から大正にかけて活躍した情熱の歌人である。情熱の歌人といったのは晶子の歌で
やわ肌のあつき血汐にふれも見で
さびしからずや道を説く君
 といった、当時の世相、時代からしてあまりにも赤裸々な人間解放的な歌を発表しているからである。しかも女性であったことを考えると驚きである。若い修行僧を見て詠んだという人もいるが、男性にとっては挑発的な(?)歌である。また
 鎌倉やみほとけなれど釈迦牟尼は
       美男におわす夏木立かな
 お釈迦様の教えもすばらしいが美男子であるところも女性からすれば捨てがたいと言っているのである。夫、与謝野鉄幹は、晶子にとって尊敬する歌人であり美男だったということになる。鉄幹と愛人の中に入り、鉄幹を夫にした情熱は、昌子の歌のようである。鉄幹との間に十人の子供を設け、「乱れ髪」などの多くの歌集を世に出した。また、日露戦争旅順攻防の戦いに参戦した弟を思い、「君死にたもうことなかれ」の詩を赤裸々に心情を吐露して歌い上げている。反戦歌という評価をする人がいるが、昌子の感情量が多く抑え切れなかったのだろう。反戦と言えば思想的、理知的な匂いがあるが、晶子にはそれがないというのは、言いすぎだろうか。晶子の歌にはまた、
 金色(こんじき)の小さき鳥のかたちして
       銀杏散るなり夕陽の丘に
という自然描写のものもある。歌の中に色と動きのあるのは健康的ではある。そして圧巻は、鉄幹が棺の人となったとき、自分の身を棺の中に入れてあげたいと歌っているのである。こうした女性を男性はどうみるか。
筆硯煙草を子等は棺に入る
名のりがたかり我を愛できと
 
大阪市は、江戸時代は大坂であり、日本最大の商業都市であった。江戸はもっぱら消費する町で、米や酒が運ばれ胃袋を満たしていたと言われる。輸送手段は船であった。その基礎を築いたのが豊臣秀吉でそのブレーンが近江商人であった。晩年の豊臣家の蓄財は莫大であったに違いない。その秀吉の出自は武士ですらなかった。当時、湿潤な沼地が点在するこの地に城を築き、短い期間であったが天下統一を果たした。大坂城の城壁とその堀の広大さは秀吉の当時の威光をよく示している。天守閣は権力者の居城そのものである。天守閣の下に立った時、日はかなり西に傾いていた。
 露と落ち露と消えにしわが身かな
         浪速のことは夢のまた夢
壮年までの秀吉の人生は、世人に及ばぬ知恵と勇気と機略に富み、幸運と有為な人材を集めた。現世に権力を具現し、関白まで上り詰め位人臣を極めた。臨終に及んで、心は露のように虚しくなってなっていた。家康よりも秀吉が好きだという人がいる。昭和の今太閤と言われた田中角栄は、現代版秀吉とされる。田中角栄の人物像は、死後も書物になって読まれている。人を惹きつけるのは、人情の機微であって、苦労人で出世した人にそうした資質をもつものは多い。秀吉の死後、太閤様の恩を思って家康に対抗した武将も多かった。
昭和六十年頃、赤坂プリンスホテルにある清和会(自民党福田派)の事務所に福田赳夫元総理を尋ねたとき、政敵ではあったが、ロッキード裁判中の身ながら、政界のキングメーカーとして政治力を発揮している田中角栄の話題が出たとき、福田氏は「たいしたもんだね」と言った。たいしたもんだというのは、人が田中角栄の周りに集まるという意味だが、単に金銭や自己の地位への魅力ばかりではないようだ。それが人情の機微である。こうしたふわっとして言語化しにくい分野は学者肌に人にはわかりにくいかもしれない。ただ知というのを少し取り除いてみればよい。これが秀吉好きの人を理解する鍵である。
人間の精神の働きを大別すると、知情意に分けられるというのが古くからのギリシャの説である。知や意によって情は納得しない。逆に情によって知や意は満たされる。情といっても感情といった末梢神経系の感覚器官に繋がった表層的なものでなく、もっと深い心、仏教哲学の唯識で言う阿頼耶識の心とでも言おうか。少し表現が学術肌になって分かりにくくなっている。要は人情の機微に通じる心である。
 殿(しんがり)とは、負け戦にあって退却しつつ最後部で敵と戦うことである。福井の朝倉氏を攻めたとき、背後から浅井氏に挟撃され信長が窮地に陥ったことがあった。そのとき、殿を買って出たのが秀吉であった。このとき、秀吉は死を覚悟していたであろうが、幸運にも生き延びた。そういう死生観も秀吉の中に同居していたことを考えると、彼の一生には起伏がある。求道者のような人生もあって良いが、身を状況にまかせる人生もあって良いのであって、人への評価ほど難しいものはない。
 秀吉と淀君の間に生まれた秀頼は、悲劇の世継ぎである。正室ねねとの間に子宝に恵まれなかった秀吉に秀頼が誕生したのは六十代に近かった。直系を後継者としたいというのは、当時の為政者の素直な気持ちであったろう。今の世にあっても、起業者の後継に子供が就任する場合が多い。法人という法的人格が封建時代の家のようになっている。このことは、人間の業に近い。
 天皇制について反対する人々の中には、万系一世などというのはおかしいという人がある。日本の国を最初から天皇が統治したとは思わないが、神代(かみよ)の時代はともかく飛鳥に都があったころから皇位継承があったのは事実である。しかし、今日の日本は祭政一致の社会ではない。国家神道の力が強かった戦前ですらそうではなかったのだからそれほど目くじらをたてることでもない。天皇家を維持してきたのは為政者(権力者)の知恵であったとみるべきであろう。天皇家が権力を持ち続けようとしていたら今日のような立場にはない。むしろ世界史的にみれば奇跡というに近い。
 中国の政体は、王朝の繰り返しである。その長は皇帝である。天より選ばれたものであるが、覇権主義であるから、必ず新たな皇帝にとって変わられる。天から選ばれた者が替わるのはおかしいというので易姓革命という言葉を発明した。中国の理想の政治は古代にあった。尭、舜の時代で覇権主義に対して王道政治という。ほんの一時期、三国志の時代だが、諸葛孔明という人が蜀の国を宰相として治めたことがあった。この人の余韻が漢民族の中に残り、孫文のような人物を産んだ。魯迅という文人もその中にあるかもしれない。
大化の改新頃までは天皇が政治に強くリーダーシップを発揮している。東大寺や平城京の建設を進めた聖武天皇などは、その筆頭であろう。平城京をタクシーで案内してくれた運転手の話では当時の人口は約五百万人であり、その半分の労力を平城京建設に徴用したであろうというのは大変なことである。しかし、その後平安時代となってからの天皇は政治から一歩離れ、どちらかといえば名誉職に退いた。むしろ祭主のようになった。民の平和を祈ることが仕事になった。だから今日まで天皇家は続いているという。そこがこの国の個性であるが、政治や企業にあっても血の継承ということが一義ではない。政治家に二世、三世の議員が増えているのを一概には批判できないが、世襲になることは問題がある。これは天皇制とは違う。政治には人格識見共に優れたものが選ばれて能力のあるものとして携わればよい。ただし、個人でなく公を優先できる人であるという条件がつく。人に仕えるというのは宗教的表現過ぎるが民意を政策として実行できる人である。
 秀頼のことに戻る。秀頼の誕生により、豊臣政権は複雑になった。関白職を秀吉から譲られていた秀次は自殺に追い込まれた。やがて秀頼は大坂城に母と運命を共にし、若い生命を終える。妻の千姫は救出され、他家に嫁いではいるが余生のような人生を過ごしたように思える。秀頼は、信心のあった武将のように思えることがある。出雲大社に先年詣でたときに、秀頼が寄進した品があった。今回訪ねた法華寺にも秀頼が寄進した痕跡がある。側近の片桐且元の進言があったかもしれないが、できれば平穏な日々を送りたい願望が強かったのであろう。弱冠とは二十歳のことをいうのだが秀頼はその歳にも満たなかった。
 難波(なにわ)は、奈良時代以前から難波津といい、海に面していたとされる。遣唐使の舟が旅立った場所でもあり、当時は葦などが鬱蒼として茂っていたであろう。今は、近鉄、南海、JRなどの駅があって交通の一拠点になっている。近鉄奈良線で奈良市までは約四〇分である。平城京跡は、一面の草原(くさはら)でところどころに木が植えられている。往時の建物も少しずつ復元されて、近年朱雀門が建てられた。内裏の南門にあたり、貴賓だけがくぐれる門とされている。法華寺は平城京跡の北に位置している。
 
 法華寺は尼寺であり、国分寺の総本山が東大寺であるように、国分尼寺として創建された寺である。建立したのは光明皇后、すなわち聖武天皇の后である。大化の改新に功のあった藤原鎌足の子不比等の娘であり、寺は不比等の館跡であったとされている。大極殿のあった場所に極めて近い。
 この寺には、天平彫刻の傑作の一つである維摩居士像が安置されている。本堂に入って左側に置かれていたが、格子越しで少し見にくかったが、少し俯きかげんの温和な表情からは深く思索する姿をも想像出来る。現在の寺の規模は、創建当時よりはるかに狭くなっているが、尼寺の清楚さが感じられた。いまでも修行する女僧がいて、さきほどの運転手の話では、比較的年齢が高い女性と若い女性で真ん中がいないということだが、そのまま鵜呑みにも出来ない。
南紀白浜の修女会と尼寺、旅の始めと終わりが、仕えるのが神と仏の違いはあるが、神聖な女性の教場となった。法華寺の更に北は、丘陵地になっていて、ここは歴代皇族の霊地のような場所である。日本書紀に登場する人々の陵がある。次回奈良を訪ねた時は、さらに時代を遡ることになる。


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