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2013年04月30日

『春の海』信州佐久平

信州佐久平
 

 信州は海に面していない。中部山岳を始めとする高峰を有し、豊かな水源地に恵まれている。そこから発する川の流域に文化が育ち、信州といっても多様な文化圏を持つように思える。
 佐久平は千曲川の流域にある。八ヶ岳、浅間山を遠山にした景観は素晴らしい。千曲川は、小諸に通じ、島崎藤村に「千曲川旅情の詩」をもたらした。懐古園にその碑がある。
 小諸なる古城のほとり
 雲白く遊子悲しむ
で始まる詩は歌となり、草笛によって奏でられることもあり、その詩情を高めている。
懐古園の展望台から見る千曲川の風情は実に良い。先年、友人とこの展望台に登り、藤村の古(いにしえ)に思いを馳せたことがある。
 天公践を空しうするなかれ
 時に范蠡なきにしもあらず
の一節を含む「児島高徳」の歌を友人がしみじみとした調子で唄ったことを思い出す。大正初期の歌で、今では殆ど知る人はいない。公践や范蠡という人は呉越同舟や臥薪嘗胆の故事で知られる中国の古人である。児島高徳は後醍醐天皇の南北朝の時代の忠臣である。不思議とその歌が千曲川の流れに溶け込んで聞こえた記憶が残っている。
 
『信州に上医あり』(岩波新書)、『ダイヤモンドダスト』で芥川賞を受賞した南木佳士の著のタイトルである。南木は医師であり、群馬県嬬恋の生まれである。〝信州の上医〟とは、若月俊一のことである。〝上医〟という中国の言葉を引用したところに彼の筆力を感じる。〝上医〟とは、国の患部まで診断治療できる医師だと説明している。
 十数年ぶりで佐久総合病院を見学する機会を得た。企画したのは榛名町在宅介護支援センターで社会福祉士の資格を持つ高林正洋さんである。彼の中に何かしら佐久総合病院に惹かれるところがあったのだろう。
 『信州に上医あり』を書いた南木と若月の共通点は、その生い立ちにあると思っている。南木が秋田大学の医学生の時、若月の講演に惹きつけられたのは、無意識的であろうが、成人するまでの感受性を育んだ環境にあったというのが読後感としてある。
 生い立ちには著書に書かれているので説明しない。
 南木は言っている。
「若月の顔は笑っているが、目は鋭かった」と。そして一度だけ目があった。そして講演を終えた若月に語りかけようとしたが、思いとどまったという。就職を申し込もうとした自分の安易な行動を意識したからである。
 まるで恋人への想いに似ている。ご縁というものはそういうものである。南木は佐久総合病院に就職した。勿論試験を受けてである。もっぱら若月が面接者として質問し、その当日に合格を告げられている。
 就職して二十年近くの月日が経ち『信州に上医あり』として若月俊一を著すことができた。鋭かった目の意味がわかるまでの時間として、これだけの期間が必要だったのかも知れない。
著書の中で南木は、若月を〝先生〟と書かず、敬称を略している。取材記者的第三者の立場で書きたかったからである。四〇歳もの歳の離れた部下に「若月」と書かれる若月の南木への想いは孫への想いにも似ている。
 若月俊一は、確かに〝上医〟と言って良い。昭和二十年に東京大学の医局から佐久の片田舎の診療所に赴任したのは、若月にとってはまさに都落ちであった。
 しかし、彼はヤワなインテリではなかった。信念があったし、情熱があり、それを形にする企画力を持ち合わせていた。
 思想的にアカと見られ、投獄、停学まで受けた若月には、農民に注ぐ愛があった。彼は、進んで農民の中に入って行った。地域診療、往診を実践した。
 今村昌平監督の「カンゾー先生」という映画があった。
「開業医は足だ。片足折れなば片足にて走らん:::」という町医者の父親の遺訓を守り、往診をするカンゾー先生を思い浮かべた。若月の場合は隊を組んでのチームではあったが、
「農民とともに」という詞を若月が書き、曲をつけた
 朝霧晴れて病院の
  白樺窓に揺れる時
 手をとりあって歌おうよ
  農民と共に進むうた
 山の彼方にこだまして
  国いっぱいに響くまで
詞は二番に続くが、詞の中には「農民と共に」という言葉が歌のタイトルになっている。「農民のために」ではなく「農民と共に」というところが、若月の思想が良く表れている。劇団を編成して、農民にわかりやすく啓蒙活動したのも若月のアイデアである。
人生はドラマというが、若月は役者になれる才能があった。この点、新生会・榛名荘の創立者の原正男に類似している。
二人の間には親交があったと聞くが、詳しいことは生前の原正男の口から聞いた記憶はない。ただ、お互いに敬愛の念をもっていたことは事実である。
原正男の場合、結核撲滅運動の初期は、在宅訪問による啓蒙活動であった。「新生」という機関紙を発行し、ペンと肉声により結核療養のあり方会員に呼びかけた。
二人に共通するのは、イデオロギー的使命観というより、ヒューマニストだという点である。言葉を変えれば、愛の人であり、行為の人であるということである。加えて論客だったということも言える。
この論客の意味は、売名行為といった悪い意味ではない。社会に向けて発信し、国の福祉、医療制度のあり方に影響を与えてきた。若月の場合、この部分が〝上医〟と言われる所以でもある。
 一〇数年前、若月俊一に会う機会があった。老人保健施設が全国七カ所にモデル的に開設し、佐久総合病院はその一カ所であった。老人保健施設をテーマにして、農村医学夏季大学が佐久総合病院で開催され、新生会職員、榛名町職員と一〇名近い人数で参加した時である。
 パネラーには、医事評論家の水野肇、NHK解説員行天良雄が常連のように参加しており、若月の人脈の広さを想像させる。二人は、一九九四年に発行された『農民とともに五十年』にも原稿を寄せている。立命館大学教授の宮本憲一も原稿を寄せ、彼が若月のよき理解者であることを知った。
 静岡大学人文学部教授の学生以来の友人である桜井良治君の師でもあり、彼の結婚式で会った記憶がある。
 講座が終了し、木造の古い講堂に懇親会場が設けられ、若月は精力的に各テーブルを挨拶してまわった。我々のテーブルにもビールの入ったコップを持ちながら、気軽に声をかけた。
 「新生会の皆さんも舞台に出て余興を一つやってみませんか。私名前は若月ですが酒好きと呼ばれています。今夜は楽しくやりましょう」。ジョークを交え気さくに笑みを浮かべて話した。目の鋭さという南木のような印象はなかった。当時八〇歳に近い年齢であったが顔の肌つやの良い小柄な人という記憶が残っている。サスペンダー姿がナウかった。
 
 若月俊一という人は魅力的であり、佐久総合病院そのものである。見学資料として渡された中に「農民とともに」という広報誌が入っており、二四頁で毎月発行されている。この広報力は佐久総合病院の面目躍如するところである。
 現在、佐久総合病院には一五〇〇名を超える職員が働いているが、一〇〇名を超える職員が介護支援専門員の資格を持っている。さらに地域ケア科という組織があり、数か町村の在宅介護支援センターや訪問看護ステーションに多くの職員を出向させている。
 若月の心情は職員に引き継がれ、今日も千曲川の流れのように絶えることがない。


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