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2013年05月01日

『春の雲』原正男先生の遠景

上野駅
 上京してから五年の月日が経った。意気揚揚と降り立った同じ駅を、正男は結核という絶望的な病の中、父母の住む上州に帰るとは思いもしなかった。昭和四年の師走の空は晴れていたが、正男には、陽は肌に届かず、病に追い討ちをかけるように冷気だけが身にまとわりつくように感じられた。阿佐ヶ谷の河北病院から高熱が引かぬまま、兄の信一郎、狩野ツヤ、彼女は後に正男と結婚することになる。そして看護婦の三人に付き添われての帰郷であった。途中車の中で、貧血を起こして倒れたが、意識は戻り、上野駅にたどり着くことができた。
 見送るものはただ二人。学友の薄井と後藤静香の社会教化運動に共鳴し、狩野ツヤを姉のようにしたい、修省舎という女子寮にいた山口であった。山口は、思想的な同志とはいえ、正男の入院中、何回となく見舞うだけでなく、衣類を洗い、励ましのことばをかけてくれた。若き男女に恋慕の情を傍から見れば想うかも知れないが、山口からすれば、ひたすら正男の回復を願っての行為であった。
 薄井は、下宿先が病院に近かったこともあり、ほとんど毎日病床を訪ねてくれた。
 「必ず直る。なぜなら君のような善人を神仏は見放すわけがない」
というのが彼の決まり文句であった。人の真心というものが、正男には、病を得て初めてわかったような気がした。
 正男は、自由にならない身をベットに横たえて考える。後藤静香に惹かれ、帝都学生勤労クラブに入り、地方青年の社会教化のため、上州や信州の農村を駆け回った頃、はたして他人の気持ち深く理解し、喜びを与えていたのだろうかと。社会に尽くしたいとの一心ではあったが、強者の自己満足に過ぎなかったかも知れないとまで思った。皮肉なことに、身を省みない若者の純粋さが、体を酷使し、その結果結核を発病させ、生命の危機にさらされる時になって、人間の真情、愛というものを実感させられるとは思わなかった。
「弱き者は幸いなり」という聖書の言葉が自然と沸いてきた。
 プラットホームに立つ薄井と山口の目には涙が見えた。二人には、これが正男との永別という気持ちがあった。この時代の常識からすれば、結核すなわち死であった。そして、正男は性格がやさしかった。だから二人をこのホームに立たせている。そのことも涙と無関係ではない。列車に乗る正男からすれば、ただ悲痛の底にある自分を見送ってくれる二人の心だけが嬉しかった。
 高崎に向かう列車は、汽笛とともにゆっくりと走り出す。信一郎と看護婦が並んで座り、対座する席には正男と狩野ツヤが肩を寄せ合って座っているのが、山口の目にとまった。ツヤのベージュのショールが正男の肩に掛けられている。山口は、心の中で「ツヤ姉さん。正男さんの命を守ってあげてくださいね」と遠ざかる列車をただ見やるだけだった。薄井は小走りに列車を追ったが、山口は二,三歩前に出てやめた。「正男さんのことが好きなのかも知れない」と一瞬思ったが、それを打ち消すかのように、「正男さんは、世の中に必要な人だ。すばらしい仕事をやり遂げる人だ」という確信に似た想いが沸いた。
 昭和四年という年は、日本が朝鮮半島や中国東北部に、政治経済の足場を築き、大陸への進出を本格化していた時代であった。昭和二年に襲った金融恐慌から立ち直れず、共産主義思想弾圧され、なにやら重苦しい空気が世相を支配していた。
 昭和四年の十二月から昭和九年の春まで、三畳の広さの実家の離れに療養することになるのだが、敗残兵のようにして郷里に帰る正男とは対照的に日本は、軍国主義の社会と世界からの孤立化を進めていった。昭和五年には、浜口雄幸首相が暴漢にピストルで撃たれ、その傷がもとで翌年死亡。大学生の就職難も深刻化していた。昭和六年は、関東軍による満州鉄道爆破事件、いわゆる柳条湖事件が起きた。満州事変の勃発であり、太平洋戦争の終戦まで泥沼のような中国大陸での十五年戦争を戦うことになる。
昭和七年は、海軍青年将校を中心とした五・一五事件が起き、犬養毅首相が暗殺され、戦前の政党政治は終焉となった。昭和八年には、国際連盟を脱退し、世界の孤児となりつつあった。
 正男は、約五年に近い療養生活が、自分に益をもたらしたとすれば、人を殺す戦争にとられなかったこと、そして病とすら闘うべきではないという発見であった。正男は、生涯平和主義者であった。
上州の山河
 上野駅からの汽車の揺れは、熱の下がらぬ正男には応えた。狭い座席に寄り添って座る狩野ツヤの膝に頭というのに、ツヤは当然のように正男の大柄な体を支えている。自分が健康な身であれば、この場で求婚したいくらいの気持ちであった。
 結核が癒え、榛名荘や新生会の事業を仕上げた頃、祝いの席などで、正男は、「私達夫婦は、同志的結婚でした」と妻への愛をさらりとオブラートに包んで表現した。ツヤからすれば、いつ死ぬかわからぬ男性に、親の反対にあいながら愛を注いだのは、後藤静香の希望者運動のもとで目にした正男の情熱と誠実さ、そしてなによりも人に寛容な心の温かさがあったからである。
「人その友のために命をすつるこれ より大いなる愛はなし」
という聖句をこの人に素直に思える
魅力があった。
 正男は、熱がありながらツヤの膝のぬくもりを感じ、どうあっても自分は生きるのだと思った。
八月に倒れ、入院してから何度も喀血し生命の境を彷徨って来た。医師が危篤と判断する中で、どうしてかこうやって生きている。思えば生命力とは不思議なものである。この時には、病と共に生きるという考えはなかったが、自分は生かされているという実感があった。
 熊谷を過ぎ深谷にさしかかる頃、うつろな正男の目に懐かしい風景が開けてきた。遠く赤城の峰が視界に入る。頂には雪が残っている。裾野が長く、稜線も丸みがあり女性的な美しい山だと思った。これほどまじまじとこの山を見たのも初めてのような気がした。
 正男の郷里には榛名山がある。生家はその南麓にある。烏川の流れる里見村から少し登った標高300メートルくらいの山の中腹にあり、関東平野が遠望できるほどの高さがある。この日のうちには着く父母の待つふるさとの風景を高崎線の風景と重ねるように車窓の外を眺めていた。
 沿線の土地には、麦が植えられていて、緑のジュータンのようになっている。冬枯れの中にあって麦の緑はたくましく、正男を勇気づけてくれた。
生き返り死に変わりて打つ田かな
百姓は、何世代にもわたって土地を耕している。そして人の世は移り変わって行く。正男の家は、分家ながらも大地主であった。田よりも畑が多く、養蚕に使う桑を植えたり、麦を作ったりしている。畑でも米は作れるが、陸稲米といって田の米のようなねばりがない。このあたりの人は〝おかぼ〟とよんでいる。正男も冬の日、霜柱に浮いた麦を踏んだことがある。麦は、冬の寒い間踏まれて成長していく。何やら自分の今の境遇に重なるものがあると思った。
高崎に着いたのは、午後二時をかなり過ぎた頃であった。兄が手配してくれた車で家路を急ぐ。父と母は、駅に出迎えることなく家で待っている。どんなふうにして自分を迎えてくれるのだろうか。正男は、子供のときのように、ぬくもりと灯りのある家に一刻でも早く帰りたかった。
時雨るるや黒木積む家の窓灯り
人の世の住処として、あたたかな家庭の一隅が何よりも心を癒してくれる。
室田の町に通ずる車道は、ところどころに水溜りによってできた窪みがあり、石ころ混じりの悪路で、汽車の揺れより増して辛いものがあった。
里見村の神山宿に車はさしかかった。尋常小学校に通っていた頃、正月の休みに高崎にある母の実家まで父に連れられて歩いて行ったことがあった。途中、くじを引くのが楽しみで、その雑貨屋の店をひさしぶりに見た。春日神社を右に曲がり、烏川に架かる森下橋にさしかかると、兄の指示で車をとめた。指示というより弟への配慮であった。上流を見やると雪に覆われた浅間の山が見えた。この眺めを正男が気に入っていたのを信一郎は知っていた。ここから家までは、もう一里もない。
 思えば五年間も、大学で父母の辛苦の汁の結晶を消費し、そのうえ病気になり、骨肉をけずるような心配をかける不幸者を無条件に受け入れてくれる親にどのように再会のことばを言ったらよいのだろうか。親への孝より子への愛が優ると、良き両親に恵まれたことを正男は心底から感謝した。
 父母と兄嫁は、玄関前に立っていた。兄に抱きかかえられるようにして門からゆっくり歩き父母に近づき
「心配かけました。帰ってきました。ご迷惑をおかけします」
とだけ言った。声に張りはなかったが、父母への素直な気持ちであった。
 夕食は、鶏肉入りの粥が出た。

原正男(1906~1999)群馬県生まれ。後藤静香の社会教化運動に参加。結核発症。闘病生活後、結核撲滅のための運動を起こし、昭和13年に結核保養所榛名荘を創設、戦後老人福祉に事業を広げ、昭和32年に新生会を設立した。


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Posted by okina-ogi at 18:05│Comments(0)日常・雑感
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