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2013年05月17日

『夏の海』(拙著)安曇野余話

安曇野余話
 臼井吉見の長編小説『安曇野』を読み終える。時には机に向かい、旅のバスの車内であったり、就寝前、起床のベッドの中で。それでも一カ月の時間を要した。相馬愛蔵、良(黒光)夫妻、荻原守衛、木下尚江といった安曇野ゆかりの人物を通して、明治中期から第二次世界大戦後の時代までの世相窺い知ることができた。
 この小説の中で登場する人物で、井口喜源冶という人物の存在は決して小さくはない。井口は、相馬愛蔵と同級で、松本中学校(現在の深志高校)から明治法律学校(現在の明治大学)に学び、長野に戻り小学校の教師となった人である。キリスト教との出会いもあり、愛蔵らと「穂高禁酒会」を結成し、芸姑置屋の設置に反対運動を起こし、公職追放となり、私塾「研成義塾」を創立し、穂高の農村の子女の教育に生涯を捧げた人である。
 『夏の海』(拙著)安曇野余話
 JR大糸線の穂高駅の近くに記念館があるが、見過ごしてしまうほど小さな建物である。相馬良が嫁入り道具として持ってきたというオルガンが入口近くにある。塾で使用された教科書や井口の書籍、書簡とともに写真が展示されている。その中の一枚の写真に目が留まってしまった。明治一〇年代のキリスト教関係者の記念写真であったが、その中には、新島襄(四十歳)、内村鑑三(二十二歳)とが並んで写っている。画像は当時の写真としては極めて鮮明で、セピア色にもなっていない。前列には、湯浅治郎(安中出身の政治家、廃娼運動で知られている)や海老名弾正(熊本出身、同志社大学総長など務める)の顔もあった。
 とりわけ、井口喜源冶が尊敬していた人物が内村鑑三である。内村は、まだ鉄道もひかれていなかった穂高村まで上田から馬に乗って三度も講演のために来ている。その講演の中の言葉の断片として塾生が語り草にした言葉が小説の中に出てくる。生徒が野原から積んできた竜胆をさした瓶を教卓から両手で持ち上げ
「この静かな、深い花のいろを見たまえ、また、常念岳に沈む落日を見なさい、安曇野は、これほど神秘で、偉大な自然に恵まれている」
 これは秋の安曇野の自然を語っているのだが、田の一面にれんげが咲き誇り、遠方に雪が消えず残っている五月の常念岳の姿も安曇野の象徴的な風景であるが、今日では、れんげの咲く風景には出会いにくくなっている。
 作者臼井吉見の故郷安曇野の、きしくも内村鑑三が指摘した田園と常念岳などの山々をセットにした風景がこの物語の主な登場人物の原風景となっている。
 『夏の海』(拙著)安曇野余話
 この小説では、解説を書いた久保田正文が言うように天皇の問題をテーマにしているのかも知れない。臼井の立場は少なくとも国家主義ではない。足尾鉱毒事件で天皇に直訴した田中正造については木下尚江を通じて多くを紹介している。木下自信も社会主義運動家であった。キリスト教社会主義者安部磯雄、無政府主義者として大逆事件で刑死した幸徳秋水や大杉栄などの記述も多い。
 武者小路実篤らの白樺派といわれた人々の運動が長野県の教育界の大きな影響を与えたことも初めて知った。当時の国家からすれば、抑圧される立場にあったというのは以外であった。理想的な人格教育を目指していた白樺派の運動が国家からすれば都合が悪かったようである。それは、日清戦争から十年おきに戦争が行なわれた、日本という国と当時の世界情勢とを考えなければわからない。
 新宿中村屋に亡命したかたちになった、インドの革命家ラス・ビハリ・ボースを通じて、戦前の日本とアジアの関係にも関心をもたされた。アジアは、一九世紀からイギリスを始めとする西洋諸国の帝国主義に翻弄され、その解放を悲願としていた。日露戦争でロシヤを破った日本に畏敬の念を持っていたアジアの人々も多くいたことも事実である。中国にあっては、孫文など晩年は日本に失望したが、日本に多くの友人を持ちよき理解者であった。それが、朝鮮併合、満州国建国、満州事変、太平洋戦争と泥沼の戦いの中で、アジアの人々の信頼を失っていった。朝鮮半島や中国大陸では、少なからず多大な犠牲を国民に強いたことは事実である。大東亜共栄圏、八紘一宇などという死語になりつつあるスローガンもあったが、所詮日本中心のものだったのであろうか。アジアの当時の諸国が、後進的国家、現代用語で言うと発展途上国ということもあったが、他の国に足を踏みこんで、共に西洋帝国主義に立ち向かうというのには無理があった。アジアの国々から見れば、日本が自分たちを盾に使っていると感じたし、西洋人がしたように植民地化の意図さえ感じたのだろう。
 東京裁判という戦勝国が日本の戦争犯罪を裁いたことにも触れている。結果的に天皇は裁かれなかったが、戦争そのものを戦勝国が裁く根拠があるのかという、指摘には関心を持ったし、最後までそのことを貫いたインドのパール判事という人には興味を持った。戦争をもって国際紛争の手段とするのは間違いである、その結果はあまりにも悲惨であるといった元戦争体験者の言葉を知っているが、きわめて重い言葉である。
日本の天皇の問題は、良くも悪くも古来からのこの国のかたちであって、戦争の象徴になるか、平和の象徴になるかは時の国民の姿勢にあるように思う。
 『夏の海』(拙著)安曇野余話
 穂高町の隣に豊科町がある。国道一四七号線に面して飯沼飛行士記念館がある。今日飯沼正明飛行士の名を知る人は少ないと思う。東京とロンドン間を九十四時間一七分五十六秒という飛行時間で当時の世界記録作った人物である。使用した飛行機は、陸軍の開発した純国産機で「神風」号と名づけられた。
企画したのは朝日新聞社で、昭和十二年四月六日午前二時に立川飛行場を出発。途中各地で給油しながらの飛行であったが、ヴィヤンチャン、カラチ、アテネに宿泊しロンドンに到達するのであるが、各地で熱狂的な歓迎を受けた。
 『夏の海』(拙著)安曇野余話
 二・二六事件などあって暗い世相を吹き払うかのような平和的快挙であった。一緒に登場した機関士が塚越賢璽といって群馬県倉渕村の出身である。イギリスは母の国であったので、ロンドンに着いた時は感慨無量であったろう。イギリスでは、当時大使であった吉田茂らに歓迎され、日本に帰ってからは、全国各地で英雄として迎えられた。航空機開発に熱心であった海軍の山本五十六らとの記念写真も記念館に展示されていた。
飯沼飛行士は、民間人であったが、昭和十六年に南方作戦に従軍にて死ぬ。華やかな日から三年しか経っていない。二十九歳の若さであった。塚越機関士もドイツの潜水艦で日本に帰る途中消息を絶った。いずれも戦争の犠牲者となり、英雄的人物の死はあまりにも残念なことであった。
記念館を守っているのは飯沼正昭飛行士の甥にあたる方で、少年時代飛行機に乗せてもらった思い出などを聞かせてもらった。生家は、農業を営んでいたらしいが、土間や広い畳の部屋などがあり、りっぱな建物である。敷地も広く国道の反対の裏手が観光バスも停まれる駐車場になっている。土蔵が主な展示室になっている。建物は道路拡張などにより、移動したとも話してくれた。飯沼飛行士記念館は、思わぬ安曇野紀行の嬉しい寄り道となった。


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Posted by okina-ogi at 17:39│Comments(0)旅行記
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