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2013年06月28日

上州歴史散策(2013年6月)

上州歴史散策
 
 空梅雨の上州を一日かけて歴史散策しようと思い立った。自家梅園の梅の収穫も終わって休暇が取れた三連休の初日の土曜日、自家用車で友人を誘って家を九時前に立つ。夕食を外食にして帰宅する日帰りの計画。夕食前には、温泉県群馬の名湯に浸かって、「農休み」を兼ねている。この時期は、農繁期で昔は小麦の収穫の後、田植えがあり、それが終わると農民は湯治場に行き、体を休めた。「農休み」という言葉には、一時代前の言葉の響きがある。専業農家は激減して、働き手は高齢化した。勤めをしながらの兼業農家が細々と農地を維持している。私自身も例外ではない。親から少しばかりの農地を相続して、梅の栽培に従事して久しい。米は、他人にお願いして作ってもらっている。水田の管理まではできない。それでも梅の収穫には、休日も利用して一週間もかかった。
 高崎市群馬町には、群馬県立土屋文明記念文学館がある。古代、国分寺が置かれた地で、古墳も多い。「襄と八重の上州」の企画展が開かれ、六月十五日(土)の今日が最終日である。NHK大河ドラマ「八重の桜」の関係で、新島襄と新島八重夫妻の企画展や講演会の開催が県内で企画されている。開館は、九時十五分。一時間ほど展示品を見て回る。
 「真理似寒梅敢侵風雪開」新島先生之言葉 同志社総長 住谷悦治書
の掛け軸が目にとまる。この有名な寒梅の詩は、新島襄が、群馬県高崎の出身で、日銀総裁になった深井英五に贈った漢詩だと言われている。同志社大学の構内にもこの詩が碑に刻まれている。住谷悦治は、私が同志社に入学した時の総長だった。群馬県人会の席だったか記憶は薄れたが、新入生を歓迎してくださったことがあった。総長が直々に歓迎するところが同志社たるところで、新島襄の教育理念が継承されている。当時、新島襄は、生徒をさんづけで呼んでいた。
 新島襄と新島八重の企画展で関心を持ったのは、新島八重の兄である山本覚馬と、安中の湯浅治郎のことである。誰も同志社が、新島襄の志から生まれたことは否定しないが、それを支えた人物の存在がある。時に経営ということは地味だが、事業は高邁な理想だけでできるものではない。企画展の入り口に書籍コーナーがあって、『湯浅治郎と妻初』という本が置かれていた。受付の人に尋ねると、展示してあるこの一冊しかないという。最終日にこの書籍に出会えたのは幸運であった。著者は、安中の人で半田喜一氏。著者の略歴は書いていないが、郷土史家か安中教会員かと想像した。
 高崎市倉賀野町の出身で、松本勘十郎を紹介していた。新島襄と親交があり、経済人であったことからも、同志社に資金援助もしていたようだ。教育にも熱心で共愛学園の創立にも関わっている。松本勘十郎の養子の松本亦太郎は、同志社に学び、東大で哲学を専攻し、ドイツに留学して日本に実験心理学を導入した人である。夏目漱石と同期であり首席で卒業した秀才である。漱石の小説のモデルにもなっている。元良勇次郎とともに、同志社の心理学史に登場する人物である。
 いつもながら記念館の周囲は良く手入れされて気持ちが良い。文明の常設展示コーナーは別にしても文学関係の資料も多く、家からも近いので、特別企画がなくとも利用させてもらっている。今回は、招待券を利用したので入場料は無料となった。次の訪問先は、太田市である。前橋インターチェンジから高速道路を利用することにした。時代は、新島襄の活躍から百年前の江戸中期に遡ることになる。
 
 寛政の三奇人の一人高山彦九郎は、新田郡細谷村に一七四七年に生まれている。現在は、太田市の細谷町となっており、近くには富士重工の工場があり、東武東上線の細谷駅もあって、住宅地になっているが高山彦九郎の家は大地主であった。先祖は、新田義貞に仕える武士であったが帰農したらしい。祖父、父親も学問に励むところがあった。しかも尊王の思想を代々受け継いできた。兄がいて土地を相続したが、時の権力者の幕府には従順だった。そのため、高山彦九郎や父親、祖父、親せき筋とも仲が悪く、高山家では異質な存在であった。というよりは、幕藩体制にあって郷士ながら高山家が異質な存在というべきかもしれない。
 最初に高山彦九郎に出会ったのは大学時代の京都である。といっても銅像である。三条大橋の近くに土下座するようにして前方を見つめていたのが高山彦九郎であった。御所に向かって拝礼しようとする様を彫刻としている一風変わった銅像に振り向く人は多かった。明治維新のように大政奉還目指す政治行動までには至らなかったが、政権を朝廷が持つことを理想だと考えていた人である。最後は、朝廷の権威を高めようと、雄藩であった薩摩藩に働きかけようと画策したが実現できず、幕府にも疑われ、失意のうちに自刃した。しかし、捕縛されたわけではなかった。四六歳であった。
 作家の吉村昭が『彦九郎山河』という小説を書いている。記念館にも自筆原稿と本が寄贈されていた。小説を読むと高山彦九郎は、全国各地を歩き、友人や師を訪ね、学問を深めていることがわかる。その時代の一流の学者であり、彦九郎自身も高名な学者として世間に知られていた。中でも細井平州は、上杉鷹山が藩の改革に登用した儒学者であるが、高山彦九郎の師でもあった。彦九郎の父親は、旅先で暗殺されている。その親の仇打ちのことを平州に相談すると
「親不幸になることはやめよ。天下国家のことを考えろ」
と反対される。後年祖母の死に、三年もの間喪に服した孝行者には納得できなかったが、師の教えの深さを理解し、学問を深め国事に奔走するようになる。
 旅先で語り合い、江戸や京都で交流した中には、前野良沢、藤田幽谷、林子平や公家、大名まで及ぶ。そして、多くの紀行と日記を残している。和歌も詠んだ。林子平は、『海国兵談』を著した人で、彦九郎も影響を受け蝦夷地に渡ろうとするが果たせなかった、しかし、『北方日記』を残し、飢饉で苦しんだ東北地方の惨状を記録に残している。蛾死者が村の三分の一にも及んだところもあり、為政者の無策に怒りを示している。
 高山彦九郎が、農事に関わらず学問をし、旅ができたのは、祖父の残した財産であった。千両というから相当なお金である。妻子は国に残し、最後は異郷の地で死んだ。これに対して兄は冷淡であり、故郷に埋葬されることはなかったが、後に維新の勤王の志士に多大な影響を与えることになる。吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞、真木和泉、西郷隆盛といった人物である。
 記念館の近くに、蓮沼家の墓所があり、遺髪塚があり、記念館の人が案内してくれた。徳富蘇峰が書いた「高山彦九郎像の碑」もあった。昭和二〇年に建立されたものである。戦前は、修身の教科書にも載った人物は、戦後ほぼ忘れ去られているが、太田市が平成八年に記念館を生地の近くに建設した。庭も京風で良く整備されていた。記念館の門の近くには、彼の歌が刻まれている。
 赤城山真白に積もる雪なれば
      わが故郷ぞ寒からめやも
駐車場の横には、立ち葵が咲いている。徳川家の家紋は葵である。この花の葉ではないが、葵家紋を連想させる花が咲いているのも何か皮肉な巡り合わせと思った。
その後、太田市内で昼食を済ませ、桐生方面に向かう。昼食は、吉野家の牛丼で、株式優待券を使用。二人で九〇〇円。優待券三枚を使い、気分の良い合法的な無銭飲食となった。高山彦九郎は、旅先で歓待を受けた。いつもお酒付。運転があるので我々は酒を飲むわけにはいかない。
 
 次の訪ね人は、群馬が生んだ明治唱歌の父といわれる石原和三郎である。今は合併してみどり市になっているが、勢多郡東村の花輪という地区である。渡良瀬渓谷鉄道が走っているが閑村である。近年、童謡ふるさと館が建てられ、石原和三郎の功績を紹介している。障害により、口先で絵を描き詩を書いて有名になった星野富弘もこの村の出身で、草木湖ダムに近い。展示されているものは多くはないが、大槻三好著『石原和三郎読本』を購入し、人なりを知ることにした。同行した友人は、長く音楽関係の仕事をしていた人で、彼のために配慮した訪問地でもあった。
石原和三郎は、一八六五年(慶応元年)にこの地に生まれた。成績優秀で尋常小学校を卒業すると一三歳で助手教員になっている。明治の初めとはいえ、一三歳の少年が小学生を教えるというのは驚きである。その後、群馬県尋常師範学校に入学し、教師の資格を得ている。当時の師範学校は公費で賄われ、手当も出たという。卒業と同時に花輪尋常高等小学校の教師となり、しかも校長を兼ねたというから彼が優秀であったことは認めつつも近代教育制度の中の教師不足の時代を物語っている。
五年勤務した後に、招かれて上京し、東京高等師範学校付属小学校の教諭になった。正式には訓導である。日清戦争が終わった明治二九年のことである。明治三三年には、教師を辞めて、冨山房という出版社に入社する。ここから、明治唱歌の父と言われる和三郎の詞才が花開くのである。教師をしながら、童謡唱歌を作ったと思っていたのは間違いであった。
今日、多くの人が知っている代表役な作品を上げると、「金太郎」、「花咲爺」、「舌切雀」、「大黒様」、これらの詞に曲をつけたのは、鳥取県出身の田村虎蔵である。「故郷」を作詞した長野県出身の高野辰之と岡野貞一のコンビを連想させる。岡野は、鳥取県の出身である。『石原和三郎読本』の著者の大槻氏は群馬県大間々出身の教師で、石原和三郎を長く研究し、「白地に赤く日の丸染めて」の「日の丸の歌」は、高野辰之の作詞とされているが、石原和三郎の詞ではないかという疑問を持ち続けた。しかし、その確証は見いだせなかったと書いている。大和田建樹作詞の「鉄道唱歌」は大いに歌われたが、石原和三郎の「上野唱歌」は、群馬県の風土を良く詞に盛り込んでいる。その一番は
「晴れたる空に舞う鶴の 姿に似たる上野は 下野 武蔵 岩代や 越後 信濃に境して」とある。岩代という県があったのである。
彼は、五八歳で亡くなっているが、原因は、友人の祝賀会を開き、宴たけなわという時に階段から落ち頭を強打したからだったという。不運な終焉であったが、子供達三人は、一高に進み、亡くなった一人を除き、東京帝大に進んだ秀才揃いだった。妻は賢夫人であった。
帰路に着く前に、渡良瀬渓谷鉄道の水沼駅は、駅に併設して天然温泉浴場があることを調べてあった。友人もそのつもりであったが、足利の親戚の弔問をすることになり、この駅で別れる。時間があればお湯に浸かりたかったであろうが、優先すべきことがあるのでいたしかたない。こちらは、予定通り、渡良瀬川を眼下にし、緑が濃くなった山並みを見ながら、ゆったりと温泉を楽しんだ。そう言えば、友人で高瀬正仁という九州大学で数学を研究している人がいて、東村の出身であることを思い出した。父親は、この村の教育長をした人で、高瀬さんは、東大数学科を卒業した秀才である。数学者岡潔に魅せられて、その足跡を調べ、没後三〇年の頃に評伝を出版した。三部作からなる大作である。いずれ再会した時に東村訪問のことを話してみようと思う。
今日は、移動距離はそれほど長くなかったが、充実した県内日帰り旅行ができた。最後は、温泉に入ることができ「農休み」とも「脳休み」となった。


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