☆☆☆荻原悦雄のフェイスブックはこちらをクリック。旅行記、書評を書き綴っています。☆☆☆

2013年08月10日

『秋の風』(拙著)盛岡の先人達

盛岡の先人達
 『秋の風』(拙著)盛岡の先人達
 盛岡市郊外に近年先人記念館ができた。三月初旬、数日前に降った雪が残る日、友人と訪ねることにした。友人とは、音楽プロデューサーの瀧澤隆さんである。瀧澤さんからは、盛岡行きを以前から誘われていた。ある人物の墓参に行こうというのが目的である。ある人物というのは、米内光政海軍大将のことである。
 『秋の風』(拙著)盛岡の先人達
 クラシック音楽のコンサートを中心とした企画を手掛けるのを業としている人が何故一軍人の墓地を訪ねるのか奇異に写るかもしれない。親しく接するうちに、瀧澤さんが極めて軍事史に詳しいことを知った。しかも、そこから引き出す内容が、仕事に生かされ、また拝聴する側にも良いヒントを与えてくれている。〝戦略〟という言葉をよく使うが、単なる戦争好きということではない。
 軍隊ほど組織化された集団はないとも言える。その目標と存在意義は、戦って勝利することかも知れないが、世の多くの集団がそうであるように、リーダーがいて、構成員との連携がある。リーダーの質とは何か、組織とは何かを考えさせるのが軍隊であり、とりわけ興味をそそられるのが海軍である。その点で、二人の見解は一致している。
 四方を海に囲まれている日本にとって、国防としての海軍の役割は大きい。今日にあっては大陸間弾道ミサイルなどや、攻撃的な航空母艦による戦闘機によって、艦船の戦闘能力と防衛力がどれほどのものであるかは分らないが、戦前までの日本海軍の戦力は、英米に続くほどのものがあった。
 日本海軍は、幕末では勝海舟、小栗忠順、榎本武揚といった人物により基礎が築かれたが、本格的には、明治政府の富国強兵策により近代化された。士官を育て、その中から優秀な将官を育成するために海軍兵学校が創設されることになる。現在も壮麗なレンガ造りの建物として残る江田島で、優秀な海軍軍人が生まれた。米内光政もその一人である。
 近代海軍の基礎は、日本と同様、海に囲まれ海外に雄飛したイギリスを念頭に置かなければならない。日本海軍はイギリスに学ぶことが多かった。日本海海戦を戦った東郷平八郎元帥も若き頃イギリスに留学している。余談ではあるが、海戦の中で、戦闘能力を失うほどに砲撃により傷ついた軍艦に向かい、一向に砲撃をやめない東郷長官に
「長官砲撃をお止めください。武士の情けです」
と側近が、嘆願するように言うと
 「敵の船は、エンジンを止めていない」
万国公法で、エンジン停止がなければ戦闘意欲があるとみなされることを東郷はイギリスで学んでいたのである。
 『海軍次室士官心得』という小冊子が残っている。次室士官とは、少尉、中尉のことをさすという。つまりは、現場指揮官のことであるが、この心得として書かれた、帝国海軍のマニュアルにイギリス精神がよく反映されている。その中で、紳士(ジェントルマン)と士官は同義であるとしている。〝平時は紳士たれ、有事は武人たれ〟という言葉もある。
 イギリスの士官の多くは、貴族階級、いわばエリートである。普段は、紳士として身嗜みよく、経済的にも裕福で、社会的な地位も保障されている。一端国難がせまり、戦いが始まると真っ先に戦闘に参加する。国王、あるときには女王陛下のために命を投げ出して戦うのである。中世の騎士のようである。新渡戸稲造は『武士道』を書いたときシバリーという英語を使った。騎士道という意味である。
 平時においては、目上を敬い、弱者を助け、謙虚に相手の立場に立てるのが紳士のありかたである。「AFTER YOU」というありかたである。有事においては、常に下士官や兵の先頭に立って勇敢に戦う人である。「FOLLOW ME」というありかたである。
〝率先垂範〟という言葉もこれに近い。リーダーの中には、平時にあっては、俺が俺がといって目立ちたがり、有事にあっては後方に下がって人任せにするものがいるがこうしたリーダーは紳士にはほど遠い。
 戦争末期に、海軍兵学校に入学した人の体験談を聞いたことがある。
「食事は、一流の西洋料理を食べさせてもらった。スプーンやホークを落とすことがあっても自分では決して拾わない。外出する時も、汽車は一等車。泊まる宿屋はその土地の最高クラスにと上官から言われた」
これだけ聞くと、うらやましいとか特別扱いだと非難したくなるが、いざ戦いとなれば国のために命を投げ出す覚悟を持てと一方で教育されていることを知れば納得がいくのである。
 エリートと今日言われる人は、国家公務員の上級試験に受かった外務官僚や財務官僚などがあてはまるのかも知れないが、イギリスのジェントルマン教育を注入された兵学校卒業生と比較してどうなのであろうか。国益の優先思考が今日のエリートには希薄だということが、数々の不祥事で露呈されている。
 階級制度の典型は、封建時代であるが、武士階級は、人口の一割程度であったから、エリートと言って良い。実力主義、能力主義で選ばれたのではなく、世襲など身分が固定されていたことは、前近代的遺物として切り捨てても良いのだが、新渡戸稲造が、武士道と表現した精神があったことは忘れるべきではないだろう。主権在民、民主主義、自由、平等、人権擁護といった言葉に代表される今日の社会に失われそうになっているのが、公への奉仕ということである。
 エリートに対するあこがれが二人の海軍に対する思い入れというわけではない。農耕社会にはない、合理主義と危機にあっての決断のあり方をそのリーダーの資質に学ぶことが多いからである。
 大海に乗り出す船というのは、自然界からすれば木の葉のような存在である。陸上のように安全ではない。船にあっては、気象の変化によっては沈むこともあり、乗員は運命を共にしなければならない。それぞれの役割を果さなければ個の存在も成り立たない。チームワークがあり、リーダー(艦長)の存在は大きい。
 艦長の判断で船は難破もするし、座礁もする。戦うことになればなおさらである。その緊張感に惹かれるのである。
 ここまでは、米内光政墓参の前奏曲のようなものである。米内を〝こめうちと〟と読む人はいないと思うが念のために〝よない〟と読む。没後、五十年以上経っているから名前を知らない人も多いに違いない。太平洋戦争の直前には首相になり、大戦中長く海軍大臣の要職にあった。しかし、戦犯にはならなかった。
 軍人でありながら、一貫して戦争、とりわけアメリカとの開戦には反対であった。陸軍が、政府の不拡大方針に反して、中国戦線を広げていったことも良しとはしなかった。この点、昭和天皇の意志を良く理解し、信任が厚かったことでも知られている。三国同盟というのは、昭和十五年に成立したドイツ、イタリア、日本の当時枢軸国と言われた国の軍事同盟のことであるが、米内は命がけで反対した。
 海軍の三羽トリオというのがある。三羽とは、米内光政、山本五十六、井上成美のことであるが、三人は、国力と国の行く末が良く見えていた。三国同盟の結果、日米との開戦に追い込まれること必須と考えたのである。海軍は、アメリカと戦える戦力を持っていないことを理解し、アメリカとの戦争は海軍の戦争であると考えていた。その考えは結果的にも正しかった。
 志賀直哉を師として、一時海軍に籍を置いたことのある作家阿川弘之は三人を良く描いている。壇ふみとの共著をものにしている阿川佐和子の父親である。三人の人物評は簡単には言えないが、米内は大人の風格があり、山本は武人、井上は参謀という感じである。米内のもとで海軍次官であった山本を連合艦隊司令長官に任命したのは、赤レンガ(海軍省)にいたのでは、山本は殺されると考えたからだと言われている。海軍軍人として最高の名誉は、連合艦隊の司令長官の役職だという。将棋の棋士が、王将や他のタイトルにも増して名人となることを目指すようなものである。
 開戦となり、短期の戦争終結を考えた山本は、真珠湾攻撃やミッドウエー海戦など、兵力を集中した大胆な戦いで臨んだが、前線で指揮する中戦死する。海軍精神の率先垂範を行動で示したことになるが、日本海軍にとっては余りに大きい損失であった。戦時中ではあったが、山本五十六は国葬となり、英雄化された。
 井上成美は、最後の海軍大将であるが、三人のうち最も知る人は少ないに違いない。米内光政は戦後間もなく死ぬが、井上成美は長命であった。隠遁生活のようにして余生を過ごし、戦後社会の表には出なかった。個人的には、井上成美の生き方に惹かれるところがある。井上の資質は、政治向きではなかった。阿川弘之が小説の中で書いているところからの引用だが、山本五十六が、連合艦隊司令長官として、近衛文麿総理から日米戦の勝算を問われると
「一年、二年はあばれて見せましょう」
と言ったとういう話を聞いて
「そんな格好の良いことを言うべきではない。戦ったら勝てないとハッキリ言うべきだ」
と怒ったというのである。
さらに、海軍兵学校の校長になったとき
「人間を神にしてはいけない」
と東郷元帥などの額を下ろさせたという話や、英語を兵学校教育からはずすことにも断固として反対した。敗戦後、国を立て直すには敵国語であるにしても、英語を学ぶことが必要だと思ったからである。
 終戦について、鈴木貫太郎内閣で進められることになるが、国体維持、つまり天皇制の継続が保証されるかが最大の条件だったが、井上は、それに固守する必要は無いとも言ったと言われている。情動的判断から程遠い思考の持ち主で、典型的なリベラリストであった。井上がクリスチャンであったことも知られていない。それは、晩年の不具な娘との暮らしから辿りついた心の終着駅だったかもしれないが。
 『秋の風』(拙著)盛岡の先人達
 米内光政の墓は、盛岡市内の円光寺という曹洞宗の寺の一画にあった。米内光政を説明する掲示が境内にあるが、墓はいたって質素なものである。海軍大将という肩書きもない。米内の墓地の近くに、平民宰相と言われた、やはり盛岡出身の政治家、原敬の墓にも立ち寄ったが、区画はそれよりも小さかった。長男も平成になって八〇代で亡くなっていることが、墓碑から知ることができた。
 『秋の風』(拙著)盛岡の先人達
 先人記念館は、一階に米内光政の他に新渡戸稲造と金田一京助のコーナーがある。原敬のコーナーがないのは、先人記念館から近い生地跡に、原敬記念館があるからである。盛岡の代表的な先人は、この四人ということになるが、先人記念館に旅の予定を忘れるほど長居をして気づいたことがある。
 盛岡の先人として選ばれた米内光政と金田一京助は盛岡中学の出身だということである。米内は、金田一の二年先輩で柔道をしたことがあるらしい。さぞ、骨格たくましい米内先輩とひょろ長いやせぎすの金田一先生では勝負にならないのだが、練習稽古のことであって、何度も投げ飛ばされる金田一の起き上がる姿を「うまい」と褒め、金田一が技をかけると、米内ははずみをつけて大げさに倒れたという金田一の回顧話が残っている。
後年、金田一はこのときのことを
「あの白皙長身の美丈夫が倒れていなさること、もったいなくて、すみませんとおわびとお礼がいっしょに胸をしめつけられるようだった」と回想し、米内の優しさをたたえている。
 金田一京助の同級には石川啄木がおり、啄木は若くして亡くなったが、彼の文才を認め、生活の援助もしながら、後世に啄木を紹介した功績は大きい。アイヌの研究や、国語辞典の編纂などで文化勲章を受けるが、学者としての名を求めるような生き方ではなく、国語学者としての道を探求する求道者のような態度で人生を送った人である。求道的といえば、文化勲章を受章した数学者の岡潔博士の生き方に似ている。ご子息の金田一春彦さんの人柄のような人だったであろうことが記念館にある資料から想像することができた。
 盛岡中学校からは、金田一京助以外にも多くの人材が世に出ていることがわかる。気づいたこととはそのことである。特に米内のような軍人が多いのも特徴である。将軍が五人も出た。その中には陸軍大将となり、A級戦犯となり刑死した板垣征四郎のような人物も含まれているが。銭形平次を書いた野村胡堂や衆議院議長となった田子一民も盛岡中学の出身である。彼らの恩師に富田小一郎先生がいて、数学の名物教師だったが卒業生からは慈父のように慕われた。晩年、富田先生のために謝恩会が開かれ、日本一の謝恩会として先生を喜ばせたという。
〝仰げば尊し、我が師の恩〟である。
 米内光政は、海軍兵学校の卒業時の成績は、百二十五中六十八番であり、おそらく平時であれば将官にはなれなかったであろう。しかし、人物は総合力であって、たぐいまれな米内光政という人物が太平洋戦争という未曾有の時代に存在したということを後世我々は幸運に思わなければならないだろう。御聖断によったが、終戦に導き戦後の復興を日本にもたらした恩人の一人に違いない。
 『秋の風』(拙著)盛岡の先人達
 旅先では少し奮発して、土地の美味しい料理を食べるのも楽しみの一つである。前沢牛が有名だと聞いて焼肉店を探す。探している途中で、盛岡城のお堀の近くで煉瓦造りの建物が目に入る。岩手銀行中ノ橋支店で盛岡市の観光スポットになっている。建物に近寄って見ると、明治四十四年に建てられたと書いてある。設計者は、東京駅の設計者でもある辰野金吾で、盛岡出身の葛西萬司工学士も加わっていると書かれてある。驚くことに、現在も使用されている。焼肉にたどりつくことができた。店の名前は〝米内〟である。米内大将とは関係はないらしい。


同じカテゴリー(旅行記)の記事画像
上野界隈散策(2017年10月)
九州北岸を行く(平戸、武雄温泉編・2017年8月)
九州北岸を行く(唐津編)
春めくや人様々の伊勢参り(2017年4月)
東京の桜(2017年3月)
三十年後の伊豆下田(2017年3月)
同じカテゴリー(旅行記)の記事
 上野界隈散策(2017年10月) (2017-10-20 11:16)
 この母にこの子あり(2017年9月) (2017-09-12 17:44)
 九州北岸を行く(平戸、武雄温泉編・2017年8月) (2017-08-26 09:04)
 九州北岸を行く(唐津編) (2017-08-25 17:19)
 春めくや人様々の伊勢参り(2017年4月) (2017-04-04 17:56)
 東京の桜(2017年3月) (2017-03-27 16:36)

Posted by okina-ogi at 12:08│Comments(0)旅行記
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
『秋の風』(拙著)盛岡の先人達
    コメント(0)