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2013年08月14日

『秋の風』(拙著)大宰府、下関から徳山へ(1)

大宰府、下関から徳山へ
 早朝家を発つ。夜は明けておらず、車の前方東の空には三日月がかかり、その上に一等星が輝いている。明けの明星と月。明日、三月一日の夕、下関にある赤間神宮で岡潔(数学者、文化勲章受賞者。一九〇一―一九七八)先生の二十五年祭に参列するのだが、旅立ちの風景は我が心の師にふさわしいものと思えた。
 赤間神宮は、安徳天皇を御祀りする神社であるが、三十年近く神職を務める、青田國男さんが祭主として記念式を執り行った。青田さんは、岡先生の考え、人柄に強くうたれ神職の道を歩んできた。余談になるが、神宮と呼ばれる神社は、皇室とゆかりのある神社だという。
 青田さんとは、奈良の岡先生とゆかりのある人々が集う「春雨忌」で何度かお会いし、赤間神宮でお会いするのはこれが三度目ということになる。実に深く、岡先生の教えを学び、真情会という勉強会を主宰し、『真情』という冊子を発行している。
 岡先生の言葉に
「人は懐かしさと喜びの世界に生きている」
というのがある。
 神道を信仰する青田さんの言葉によれば
 「その世界が高天原です」
ということになる。幼子の穢れない心の世界だとも言い、成長するとともに膜がかかってわからなくなる。膜を作るのが自我というものだと説明する。この膜を取り除いて、幼子の世界を思い出せれば〝人は懐かしさと喜びの世界〟に生きることができるというのである。
 二十五年祭に出席予定だった、岡先生の次女松原さおりさんのかわりに、御子息、つまり岡先生の孫にあたる松原始さんが挨拶した。渡り鳥が、驚く程の距離を誤たずに飛来し、また元の場所に戻れるかという話をした。鳥の脳細胞は、人間に比べればはるかに小さいにもかかわらず。そして暗くなっても方向を間違えることがない。それは、太陽光線の残影を確認できるからだという。
「祖父なら、そんな科学者の言い回しを一刀両断して、懐かしいという心がそうさせる」と言うに違いないと言った。
鮭が、生まれた川の源流近くに産卵のために戻ってくるのは匂いのためかと、直会(なおらい)の席で、京都大学で生物学を学ぶ始さんに尋ねると
「鼻の先に磁石の働きをする場所があるんです」
と科学者の応えが返ってきた。岡先生なら
「ただ懐かしいから、生まれ故郷に戻れる」
と言うのだろうか。
「高天原に神住めり」
とも岡先生は言った。人が死んで神として祀られる場合、神に近いと人々が認めるのだが、言い方を変えると、自我の穢れを払い、私心を無くして公に尽した人ということになる。
「高天原に生まれ、またそこへ帰っていける人」
という日本人の神の定義は抽象的であろうか。
この旅で訪ねた、二人の人物は、死後いずれも神として祀られた。菅原道真と児玉源太郎である。
『秋の風』(拙著)大宰府、下関から徳山へ(1)
菅原道真は平安時代の人であるが、天神様として全国に祀られているが、とりわけ名高いのが、京都の北野天満宮と、福岡太宰府の天満宮である。
 福岡市から大宰府天満宮に行くには、天神から西鉄で行くとよい。この日は、都府楼という駅で下車し、大宰府政庁跡を訪ねることにした。桃の節句に近いこの日は、晴れ渡り、日差しも暖かく、すっかり春が到来したかのようであった。土手の枯れ草の下には、緑が多くなっている。犬ふぐりの青い色も目に入ってくる。政庁跡は、平城京跡ほどではないにしても広い。大極殿の跡には碑が建てられている。犬を連れている人、紙飛行機に興ずる老人、いたって長閑である。
 道脇に建てられている木の案内板に従い春の野道を行く。万葉の時代を思わせる自然が残っている。左手には大野山が迫っている。古代、この山の上に防衛のための山城を築いた。敵と想定したのは、朝鮮半島の国々である。
 『秋の風』(拙著)大宰府、下関から徳山へ(1)
 大野山霧立ちわたるわが嘆く
   おきその風に霧立ちわたる   山上憶良
 天智天皇の母君である斉明天皇ゆかりの寺、観世音寺に立ち寄る。日本最古の鐘楼がある。隣接して、開基が鑑真和上とされる戒壇院がある。こじんまりとして味のある寺である。
 大宰府天満宮を訪れるのはこれが二度目である。社前の通りは長く、土産物を売る店が軒を連ねている。「梅ヶ枝餅」が有名である。三月最初の日曜日には、「曲水の宴」が開かれる。宮の内にある小川を挟んで平安貴族の衣装を着た男女が、流れてくる盃が自分の前を通り過ぎないうちに和歌を詠む風流な伝統行事である。残念ながら、その日は二日後である。
 菅公、すなわち菅原道真(八四五―九〇三)は、後世かくも広く、そしてこの地に祀られたのであろうか。道真が政治に活躍したのは、藤原氏隆盛の時代であった。学識と人徳により右大臣までになった人である。宇多天皇、醍醐天皇二代に仕えた。政略を好まず、学問とその人柄によって、天皇からの信任が厚かっただけではなく、地方官時代の善政により民衆からも慕われた。
 なぜそのような人物が、遠く都を追われて、大宰府の長官に任命されたのか。これはまさしく降格人事であった。その原因は、人間の嫉妬という感情に端を発している。時の左大臣は藤原時平であるが、醍醐天皇が相談するのは道真であった。右大臣より、左大臣の方が地位が高いのにである。私心の強い人間にありがちな感情である。
 ありもしない噂、つまりは、次期天皇の擁立を道真が画策しているという噂を広め、若い醍醐天皇の心に猜疑心を起こさせた。讒言である。権力に近い人々の中に、地位が得たいがために、良く使う姑息な手段である。古代中国にあっては、宦官などに讒言が多くあった。我が国でも、〝茶坊主〟という言葉が良い意味で使われていないのは、讒言のためであろう。
 菅原道真の家系は、神話時代に遡るというし、相撲の祖である野見宿禰(すくね)を菅原家の始祖とするということが「新菅家御伝」に書かれている。道真は、京都に生まれる。兄二人がいたが、ともに早世し、世子として育てられた。小さい時からから総明で、父親と同様文章博士になって家の伝統を護る。漢学の素養があり、漢詩の才能は、唐の高名な詩人と比較しても遜色がないと評価された。
 和魂漢才という言葉は、道真から生まれた。明治になると、和魂洋才となる。日本古来からの魂を捨てることなく知恵は中国から借りる。ただ皮肉なことに遣唐使の廃止を提案したのは道真であった。道真は、遣唐使の団長である大使に選ばれたのであるが、今や、唐の文化は色褪せていて、危険を冒して有為な人材を失うことを危惧し、しかもこの事業にかかる経費も考慮に入れた結果の提言であった。唐は滅亡するに至り、この政策は正しかった。
 国家間の交流は途絶えたが、民間の交流は絶えることがなかった。「民際」という言葉を先年、京都大学教授で考古学者の上田正昭氏の講演で知った。氏の主張は、二十一世紀は、共生の時代でなければならず、民間人の交流、つまり民際が重要だというのである。共生という考えは、自然との共存を重視した東洋的な思想の流れの中にあり、自然を支配するものと考えた西洋と対照的である。和辻哲郎の『風土』を読んでもそんな感じがする。このことは、道真から脱線するので、深入りはしない。
 悲哀、悲運の生涯を送った人を日本人は好む。源義経などは代表的人物であろう。道真にも悲哀、悲運の人という気分が漂っている。左遷されたばかりではなく、大宰府への旅の途中で亡き者にしようとする陰謀もあったらしい。その時平らの陰湿さに、道真への同情は増した。救われたのは、死後約百年近くなって、正一位左大臣の称号が与えられ名誉を回復したばかりでなく、後世永く祀られ、大衆に愛されていることである。
 『秋の風』(拙著)大宰府、下関から徳山へ(1)
 とうりゃんせ、とうりゃんせ
 こここはどこの細道じゃ
 天神様の細道じゃ
 ちょっと通してくだしゃんせ
 御用のない者通しゃせぬ
 この子の七つのお祝いに
 お札を納めにまいります
行きはよいよい帰りは怖い
 怖いながらもとおりゃんせ、とりゃんせ
童謡「とおりゃんせ」のメロディーがどこからとなくテープで流されていた。
 天満宮に、牛の像があるので、その謂れをみると、道真は牛をとても大事にしていたということである。遺言の中に、遺体を牛に曳かせ、留まった処を墓地とするようにと書かれていた。その地が現在の天満宮であると言い伝えられている。牛と道真、その組み合わせに人柄を想像させられる。慈悲深い人であったのだろう。
 境内の一画には徳富蘇峰九十二歳の時の漢詩が碑文に刻まれている。その内容は別にして、蘇峰は、自分は菅原道真の末裔だと言っている。二人の共通点は、大変な読書家であり文才があったということであるが、事実はともかく、後世、道真を人生の手本にした人は多い。
 太宰府市の隣に二日市市がある。古くからの温泉地として知られている。街中の通りに面した〝博多湯〟に浸かる。入湯料はなんと一〇〇円。タオルを借りたので二〇〇円になったが、入口のおばあさんが石鹸を只で貸してくれた。更衣して中に入ってみると小さな浴槽が四つあるだけで、シャワーの設備もない。風呂道具を持って近所の人が利用する大衆浴場といった感じである。老人が多く、ひたすら湯に浸かり、出て身体を休め、洗っている。殆ど会話もない。この日は寒くはなかったが、ホテルで寝付くまで体の芯が温まっていた。


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Posted by okina-ogi at 13:49│Comments(0)旅行記
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