☆☆☆荻原悦雄のフェイスブックはこちらをクリック。旅行記、書評を書き綴っています。☆☆☆

2013年08月17日

『秋の風』(拙著)西本願寺展

西本願寺展
 五月三日、憲法記念日、上野にある国立博物館に「西本願寺展」を観に行く。西本願寺の御影堂が改修されるにあたり、そこに収められている数々の国宝や重要文化財となっている品々が展示されることになった。五月五日で展示会が終了することもあって、展示会場となった平成館には大勢の人達が入場していた。
 『秋の風』(拙著)西本願寺展
 西本願寺は、京都堀川七条にあり、広大な敷地を有する浄土真宗の寺である。豊臣秀吉が寄進した土地に建てられた。その寄進の書状も展示されていた。西本願寺は、火災にあい、現在の建物は江戸時代のものである。現在の御影堂は寛永十三年(一六三六年に建てられた。一方、東本願寺の敷地は、徳川家康が寄進したものである。烏丸七条にあり、京都駅の目の前に位置していることもあり、本願寺と言えば、東本願寺という印象が強かった。これほど近くに、東西に本願寺が建てられているのは不思議である。為政者からあなどれない勢力になっていたこの教団を、別ける事は権力者の知恵である。
 浄土真宗を起こしたのは親鸞である。鎌倉時代初期の人で、藤原氏の流れをくむ日野氏の出である。当時没落していたとはいえ貴族出身ということになる。九歳の時に出家する。東山にある青蓮寺(しょうれんじ)で慈円僧正により、得度の儀式が執り行われた。それは夜であった。
 伯父に連れられこの寺に着いたのが、夕方に近かったので、慈円僧正が得度の式は明日にしようというと
 幼き親鸞は
「明日ありと 思うこころの あだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」という古歌を示し、出家の決意の固いことを顕し、慈円は感動する。後に親鸞聖人となって、我が国で最も信者の多い仏教宗派の始祖となる片鱗を見るような話である。
 それから、二十年比叡山に籠って修行する。ひたすらに仏教の経典を学び、思索を深める。しかし、自力ではいわゆる悟りをひらくことができないことを知る。親鸞はきわめて頭脳の鋭い人であった以上に、自省の強い人だったようである。自分と言う中にある汚れ、罪深いものの自覚が消え去ることがなかった。それを克服するためには、他力にすがるしかないという結論になった。他力とは弥陀の本願である。弟子唯円が著わしたとされる『歎異抄』の冒頭に書かれている有名な言葉
「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて 往生をばとぐるなりと信じて 念佛まふさんとおもいたつこころのおこるとき 攝取不捨の利益にあづけたまふなり 弥陀の本願には 老少善悪(まく)のひとをえらばれず ただ信心を要(えう)とすとしるべし::」
の弥陀の本願である。 
 『秋の風』(拙著)西本願寺展
 親鸞の思想に決定的な確信を与えたのは法然(源空)である。法然は美作(みまさか)、今日の岡山県の人で、九歳の時父親を失っている。殺されたのである。親鸞と同時代の人で曹洞宗の祖となった道元も幼くして父母と死別している。華厳宗の中興の上人と仰がれた明恵上人もそうである。幼い時の肉親との離別は、無常感を起こさせるのであろうか。親鸞と法然の間には四十歳の歳の隔たりがあったが、終生の師とした。
 法然や、親鸞の思想は、保守的仏教勢力、つまり比叡山の最澄以来の天台の流れからすれば異端視されるものであった。ともに、流罪となり、法然は土佐に、親鸞は越後に流されて後二人は逢い見ることはなかった。京都市街地に六画堂がある。親鸞の布教の出発点となった場所である。ここを基点にして、親鸞は衆生を導くことになった。そして聖徳太子に導かれるところがあった。
 聖徳太子という存在は、天皇家の人でありながら、我が国の宗教界、とりわけ仏教界に強い影響力を与えている。哲学者、梅原猛は『隠された十字架』の中で鋭い歴史観を語っている。その指摘の中で、見逃せないのは、夢殿と救世観音の建築と創作の背景に対する見解である。夢殿は、太子がもっぱら世の人々の平安を祈って瞑想した建物ではなかったとしている。霊廟、つまりは墓として太子亡き後に建てられたと言うのである。
 救世観音は、聖徳太子をイメージして造られているのだが、太子を畏敬することより、太子の果たせなかった想いを封じ込める目的で作られていると言うのである。梅原がどうしてそのような結論に達したかというと、救世観音の光背は、像の頭部に打ち付かれているという事実からである。太子の霊を慰めようとするのであれば、このような像を作るわけはないと梅原は思った。
 今日、親鸞の教えが一千年近くの時を経て、日本人の多くの人々の心の支えになっている事実の背景に、親鸞と聖徳太子の邂逅があったことを忘れてはいけない。救世観音のあの微笑を見ると、慈悲とかキリストが行為で示した愛という窮極の人生の目標が見えてくるような気がするのである。
 これは蛇足だが、親鸞の家系は、天皇家のようである。永きに渡り血の繫がりが人々を纏めていくということは、良いことなのか悪いことなのか。
再び『歎異抄』には、東国からはるばる親鸞の教えを直に聞こうと訪ねてきた僧達にむかって
「親鸞におきては ただ 念佛して弥陀にたすけられまひらすべしと よきひとのおおせかふむりて信ずるほかに 別の子細なきなり 念佛は まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん また地獄におつべき業にてやはんべるらん 惣じてもて存知せざるなり たとひ法然聖人にすかされまひらせて 念佛して地獄におちたりとも さらに後悔すべからずさふらう」
と言っている。〝よきひと〟とは法然のことであり、法然の教えにだまされて地獄に堕ちても、それでよいというのである。
法然が唱えたのは「南無阿弥陀佛」という短いう念佛だが、それが浄土真宗の凝縮された教えの根本である。南無とは〝それでよい〟という意味である。阿弥陀様の慈悲を信じましょうということである。法然にしろ親鸞にしろ、仏教の教義を探究しての結論だから素晴らしいと言えるが、無学の人や、悪人でさえも救われるというのであるから、浄土真宗の教えは人々には寛容に響くのであろう。
 親鸞は僧としては、当時では革命的というより、常識的には考えられなかったが、妻帯して子どもをなしている。善鸞は、父親の教えに従わなかったということで破門状態にあった。倉田百三の『出家とその弟子』に描かれている親鸞臨終の場面であるが、善鸞に親鸞は
「お前は仏を信じるか」と問う。しばらく沈黙して子は父に向って苦悶しながらも
「わかりません。決められません」と正直に応える。
親鸞は、目をつむり最後の言葉として
「それでよいのじゃ。みな助かっているのじゃ。:::なむあみだぶつ」
といって死ぬ。
倉田百三にはキリスト教の素地があり、親鸞の教えをそのまま伝えてはいないが、浄土真宗は、キリスト教に近いと言われている。悪人正機説というのがある。
「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや」という親鸞の言葉がそれをさしている。
この「西本願寺展」でとりわけ見たかったものがある。〝鏡御影〟である。正式な名称は、紙本墨画親鸞聖人像であり、国宝である。残念ながらご尊顔を拝することはできなかった。
 『秋の風』(拙著)西本願寺展
 今日の浄土真宗の隆盛は、八代蓮如が築いたとされる。室町時代の人で、長命ではあったが、大器晩成の人で、活躍したのは五〇代以降である。次々に妻を失い、生涯二十七名の子どもをなした。驚くことに八〇代の子どももある。京都山科に本願寺を再興した。
蓮如の後、北陸加賀では、百年にわたり宗徒が政治を治めたこともあった。戦国時代といわれる時代に共和国が出現したようなものである。一時、現在大坂城のあるあたりに石山本願寺があり、織田信長から旧勢力として戦いの目標にされ、十年近くの戦争があったが、比叡山を焼き討ちし、多くの信徒を殺戮したが、石山本願寺とは妥協しなければならなかった。その勢力を無視できなかったということだが、信仰を捨てさせることが容易でないことを知ったからである。彼らは死を恐れることがないかのように、信長軍に立ち向かったと伝えられている。
 東京の五月の緑は美しかった。上野の森の巨木も若い緑を繁らせている。東京美術館では「ロマノフ王朝展」が開催されていたが、二時間余も「西本願寺展」を見たのでその気力もわかない。
朝、在来線の高崎線のアーバンという快速に乗ったのもしばらくぶりで、展示会場の前には、最近東京駅前に出現した新丸ビルの高層ビルで昼食し、小学校の修学旅行以来、皇居の二重橋を訪ねたのも良い思い出になった。日比谷公園は広く、晴れ渡り、薫風の中ただ爽やかな気分にしたれることができた。
 


同じカテゴリー(日常・雑感)の記事画像
俳人村上鬼城
『高浜虚子句集』より(浮葉)
俳句自選(金木犀)
俳句自選(秋明菊)
「近代の秀句」水原秋櫻子より(鮠)
俳句自選(百日紅)
同じカテゴリー(日常・雑感)の記事
 閑話休題⑥ (2023-10-07 19:10)
 閑話休題⑤ (2023-10-06 10:22)
 閑話休題④ (2023-10-05 11:46)
 閑話休題③ (2023-10-04 11:38)
 閑話休題② (2023-10-03 18:25)
 閑話休題① (2023-10-02 16:35)

Posted by okina-ogi at 13:19│Comments(0)日常・雑感
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
『秋の風』(拙著)西本願寺展
    コメント(0)