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2013年08月22日

『冬の渚』(拙著)羽前、米沢へ

羽前、米沢へ
 羽前は、江戸時代の山形県の国名で、庄内、新庄、山形、米沢の四藩に分れていた。米沢は盆地で四藩の中では一番南に位置しているが、夏の暑さはあっても冬が厳しく、積雪も日本海側と変わりがない。市街地を最上川の支流、松川が流れ、遠く蔵王や朝日岳、飯豊(いいで)山の高峰、さらには、出羽三山の一つ月山を望むことができる。
 正月元旦、三年続けての東北への旅となった。今回は、一人旅だが、日帰りだから旅とは言えないかもしれない。朝、晴れていて初日の出を拝むことができた。高崎駅に車を走らせたが、真正面に太陽があり、全くの逆光となった。国旗に象徴され、万物の恵の源である太陽ではあるが、直接対峙したのでは何とも都合が悪い。視界もきかず、運転は慎重にならざるを得ない。
群馬県で元日に開催され、恒例になった「ニューイヤー駅伝」のコースには、係員が準備している姿があり、高崎市役所の前は、襷リレーの場所になっていることもあり、テレビの中継器材が置かれていた。炬燵で御節料理を食べながらテレビを見ることもここ数年なくなった。元旦は行動開始の日になってしまっている。
 行き先を山形県米沢市に決めたのは、上杉鷹山のことが頭にあったからである。上杉鷹山の人物の偉さを知ったのは、内村鑑三の『代表的日本人』による。彼が代表的日本人として紹介しているのは、五人である。西郷隆盛、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮、そしてもう一人が上杉鷹山である。
宗教家としての日蓮を別にすると、四人に共通するのは、仁者、つまり徳のある人物であるということである。内村鑑三は武士から、キリスト教徒になった明治の偉大な思想家であるが、明治以前にあった日本人の資質を忘れることはなかった。『代表的日本人』は訳されて外国の人々に広く紹介されている。
 封建時代から明治へと移る時代に、経済、文化、思想、教育、政治などの近代化を進めたのだが、近代化という言葉は、進んだ様式、つまり西洋文化が良いという意識そのものだった。資源のない日本が工業立国として歩んできたのも間違ってはいないと思う。そして、封建国家(家族的国家)から法治国家、とりわけ戦後の民主主義国家への移行も「天は人の下に人を作らず」という人権の平等思想であり、階級社会のくびきから人々を解放したことになる。
 ただ、大事なものを軽視して来たのではないだろうか。それは、道徳教育である。封建時代に教育の基本となったのが、まさに道徳である。その教本になったのが、儒教であった。明の時代に体系化された、朱子学のように封建時代の為政者に都合の良い保守的な儒教もあったが、陽明学のように進歩的なものもあった。その内容はともかく、新渡戸稲造が『武士道』の中で、古来より最高の徳としているのは儒教では、仁と惻隠の心だと言っているし、仏教では慈悲であり、西洋にあってはキリスト教の愛とか寛容という行いだということである。徳というのは語るものというより、行為というべきであり、敢えて言葉にするなら、その人の人格の響きのようなものである。
 梅原猛が『梅原猛の授業 道徳』の中で鋭い指摘をしている。日本国憲法の中に理想は書かれているが、それを行う者への道徳が抜けている。戦前の明治憲法の中にもない。教育勅語があるではないかという人がいるが、その中にもない。ということは、皮肉なことに封建時代の江戸時代まではあったということになる。彼はまた言う。道徳とは何か。簡単に言えば戒律であり、人がやってはいけないことである。なんだそんなことかということになるが、彼が言うのは、人を殺してはいけない。盗んではいけない。嘘を言ってはいけない。最低この三つでよいというのである。
 そんなことかというのは、頭や言葉でわかるからである。肝心なのは身に沁みて行為としてできるかということである。自分に都合の良い嘘をいう人はどれほどいるか。組織でも上司に気に入って欲しいと心にもないことを平気で言う人もいる。あるいは、仲間を陥れるような告げ口すら言う事だってある。経営が傾いていることを知っていても諫言できない役員だっているだろうし、不正を隠すことも多々ある。これは嘘を言ってはいけないということに反する。大人だから、社会では嘘も方便だという別な便法を知っていて、正直すぎるのも良くないというのだろうが、保身の術以外の何者でもない。
諫言には勇気がいる。部下から反対の意見を言われて、上司なら気分が良いものではない。信念があって、自分の考えがはっきりしている上司ならなおさらである。ワンマンとか、専制的リーダー、独裁者であったら諫言が原因で〝首〟になる場合もあるし、〝飛ばされる〟こともある。
武士社会であれば、切腹、つまり〝首〟すなわち死に至ることさえあった。部下の諫言に、耳を傾けられることが徳のひとつである。諫言には勇気がいると言ったが、義がなければ勇気に値しないとも儒教は教えている。
「義を見てなさざるは勇なきなり」と『論語』は、孔子の言葉を伝えている。
讒言は、はっきり言って徳にほど遠い。人を殺してはいけないというのは、道徳の上で最大の戒律である。讒言というのは、間接的に人を殺すことに繋がっているからである。また、今日イラクやイスラエルで問題になっているテロというのは、力の強い者に、意見では通じないから、殺してしまうというのだが、これは論外である。さらに、民族、宗教が違うということや、長い歴史的国家間の争いの憎しみがあって民間人を殺すなどというのは、新たに憎しみを増長させるだけである。パレスチナがそれである。米沢紀行の前書きが長くなってしまった。上杉鷹山のことに触れるまでに前書きが必要だと思ったからである。
 『冬の渚』(拙著)羽前、米沢へ
上杉鷹山(一七五一~一八二二)は、九州の高鍋藩という小藩に生まれた。十七歳で米沢藩の上杉家の養子になった。上杉家を辿ると公家に繋がるが、大名家としては、武田信玄と川中島の戦いで有名な上杉謙信が戦国時代に興した家である。生涯独身で実子のなかった謙信が養子に迎えた上杉景勝は、豊臣家の五大老の一人であった。石高百二十万石というから大藩である。景勝は、関が原の戦いで西軍に組したということで、徳川家康によって、会津に移された。石高は三〇万石に減らされた。さらに米沢に移され、さらに石高は十五万石になった。
 上杉鷹山が養子となって江戸屋敷に来た時、藩の財政は危機に瀕していた。藩民に年貢を重くしたりしたので、土地を棄て他藩に逃亡する農民も多かった。農民が土地を棄てるということはよほどのことである。
 なぜ、米沢藩がこれほどの赤字財政になったかについては、理由がある。上杉景勝の百二十万石時代の武士が、今日で言えばリストラされずそのまま藩変えに従ってきたのである。サラリーは当然減額されたであろうが、武士は今日では公務員のようなものである。生産に従事する人間ではない。さらに言えば税金を納める人間ではないということである。今日の企業とは、比較し難いが、人件費率が異常に高い体制になっていたということである。
 次には、上杉家が名門だという意識があったことである。格式を重んじ、儀礼などに出費が多かったことも大きな理由である。忠臣蔵の吉良上野介の実子が上杉家の養子になった時代もあり火に油を注いだ時代もあった。消費が悪いわけではないが、財政が苦しい中での消費は、食べていけないということになる。吉良家は親子二代にわたり二つの藩に災いをもたらしたことになる。赤穂藩と上杉藩である。赤穂藩はお家断絶になった。江戸期には、参勤交代の制度があった。江戸と国元に大名は住むことになっていた。この出費も馬鹿にならなかった。米沢から江戸までの距離は長い。お付の者も多いし、衣装もそれなりの者を纏わなければならなかったし、宿泊費もかかったであろう。
 どうしてこんな状態にあった上杉藩の養子に鷹山はなったのであろうか。既に鷹山が九歳の時、養子になることが決まっていたらしい。鷹山の母は、上杉家第五代藩主綱憲の孫娘であった。この時代にあって武士階級の婚姻に個人の意思はほとんどはたらく余地はなかった。藩という大きな家の家長となるべき藩主はなおさらであった。鷹山は、貧乏くじを引いたことになる。
 米沢藩の改革に鷹山が乗り出した時、幕府の政治に力を持っていたのは、田沼意次であった。経済官僚として、農本時代の江戸幕府にあっては、国際感覚を持ち合わせた異能の人物だったが、賄賂政治の権化として後世名が残ってしまった。
「役人の子はにぎにぎを良く覚え」
などというありがたくない川柳まで庶民からもらった。
田沼の後、老中になった白河楽翁の名で知られる松平定信の寛政の改革も成功したとはいえない。
「白河の清き流れに棲みかねて元の田沼の濁り恋しき」
という狂歌からは、質素倹約だけの改革は庶民には息苦しかったことが容易に想像できる。
 上杉鷹山は家督を譲ってからの名前である。第九代藩主であった時の名は冶憲(はるのり)であった。なぜ、彼の改革が成功したのか。童門冬二『小説上杉鷹山』に良く描かれている。文庫で七〇〇頁に近い力作であるが、この作家の快心作ではないかと思っている。
 二〇〇三年、徳川幕府開府四〇〇年であったこともあり、全国老人福祉施設大会の基調講演が東京で開催され、その講師となった。変革期の経営者のあり方をテーマにしていたが、印象的に覚えているのは次ぎのエピソードに触れたことである。
 上杉鷹山の妻は、知的障害者であった。子供の能力しかなかったともいう。鷹山は、妻はこの世の人ではない、そして天女だと思って大事にした。勿論夫婦生活などできない。しかし、必ず気持が通じると信じていた。ある日、自分で縫った人形を妻に渡す。顔には何も書いていない。ところがその渡された人形の顔に、墨と口紅を使って眉や眼、鼻、口を自分で書いたのである。夫の手をとって奥の間に連れて行って見せた妻の顔は嬉さに溢れていた。
「ヨシ::ヨシ::」と意味のわからない言葉を発したが、鷹山は、妻が鏡に映る自分の顔を必死になって書いたことがわかった。
 妻の名前は、幸(よし)といった。先代藩主の長女で、不憫だと思った父親は、高価なものを苦しい財政から与えていたのである。そういうものに幸姫は気を寄せなかった。
手作りの夫の贈物に応えたのである。そして、この話をこれから始める行政改革を自分が選んだスタッフに話し、人や制度を変える前に改革する人間が変わらなければいけないことを伝えたのである。
 この話を聞いただけで、鷹山のリーダーとしての資質がわかる。徳というものであろうし、十七歳の青年だからなおさら驚く。弱い者とされた、障害のある人、老人、子供、女性にはことのほか優しい人だったらしい。
 十歳年上の側室が国に一人いたが、妻の位置を与えていない。子供には藩主の地位を与えなかった。しかも、貧しい人々への思いやりを説いたのである。
 今日でも、福島市から米沢市に入るには板谷峠を越えて行かなければならない。山形新幹線も奥羽本線もここを通る。福島から山岳地帯に入るとこれが新幹線かと思われるほど速度が落ちる。この峠を鷹山達も越えて入ったのである。旧暦の十月というから今日では一二月である。雪もあった。藩主が国入りするときは大勢の家臣を連れながら雅な絹地の着物を着ながらというのが常識であったが、鷹山一行は、人数も少なく、しかも木綿の着物であった。鷹山が命じたのである。
 板谷峠で宿をとり、翌日米沢城に入ることになっており、その役目の武士が迎えにでていたのであるが、宿はなかった。それは、貧しさに耐えかねてこのあたりの住民が殆ど逃亡していなかったからである。
野宿のようなかたちになったが、鷹山もさすが荒涼とした灰の国に来たと思った。しかし、駕籠の中にあった煙草盆に火種が残っているのを発見して、この火を違う炭に移して改革の火にしようと考える。鷹山の心の火を燃やしてくれる人材が米沢という灰のように見える国の中にいることを信じたのである。
 そのような、鷹山の国入りの箇所を読みながら、新幹線という快適な駕籠で米沢市に入った。昼に近く食事をしたいが、元旦で駅前の名物米沢牛の店も閉まっているようだ。旅の目的は、ただ米沢城のあった上杉神社にお参りするだけだから、タクシーに乗ることにした。帰路福島駅で福島電鉄に乗り継ぎ、飯坂温泉の公衆浴場でゆっくり湯につかりたいとも考えていたので米沢滞在の時間もあるようでない。
 東北山形でも米沢あたりは、当然雪が積もっていると思っていたら道にないので、そのことを運転手さんに尋ねると
「こんな年は珍しい」
アクセントと口を大きくあけてしゃべらないようなこの地方の言葉を直接聞いた。
「除雪する業者は仕事がなくて困っている」
とも言った。
少しお腹が空いてきている。
「松岬(まつがさき)公園で米沢牛は食べられないでしょうか」
と半分諦め気分で尋ねると
「市営のレストラン(民間委託かもしれない)がやっているでしょう」
こいつは正月から縁起がいいと思った。
松坂牛、前沢牛、そして当地の米沢牛のようなブランドに拘っているわけではないが、その地に行ったら素直に土地の人が美味しいというものをいただくことにしている。
 ステーキにしようかと思ったが、ボリュームがありそうで「米沢御膳」にした。値段も手ごろで二〇〇〇円。酒の摘みにもなりそうである。そのかわり牛の刺身を一品加えることにした。昼の酒は眠くなるので三〇〇ミリにした。正月だということで純米大吟醸酒。占めて四〇〇〇円也。もちろん消費税は別である。
 『冬の渚』(拙著)羽前、米沢へ
 松岬神社の脇と上杉神社の参道には、上杉鷹山の坐像と立像がある。どこかで見た顔だなあと思っていたら、内村鑑三『代表的日本人』岩波文庫のカバーにあった上杉鷹山の顔である。
上杉神社には謙信も祀られていて、参道の脇には出店が並び、参道には大勢の人が数列に並んでいた。この地の人々の気持を見るようであった。
「成せばなる成さねばならぬ何事も」の有名な鷹山の言葉が碑に刻まれていた。お堀には大きな錦鯉が、参拝客の投げ与える餌をあてにして橋の所に寄り集まってきていた。
そう言えば、米沢の錦鯉を特産にしたのも鷹山であった。
老人達が池で飼った錦鯉は、江戸で買われ、あの賄賂好きの田沼意次に商人から賄賂代りに送られ、田沼の屋敷の池は錦鯉でいっぱいになったという。その話を家臣から聞いたとき鷹山は嫌な顔をしたが、老人達の小遣いになっていると聞いて微笑んだと童門冬二の小説に書いてあった。
幟も立っていて、白地に一字「毘」と書いている。毘沙門天を信仰した上杉謙信の旗印であることがすぐ解った。堀の端の上杉伯爵邸は記念館になっているが、さすが元旦には開門とならない。正月飾りを見るだけである。
上杉鷹山の改革の詳細は、童門の小説を読めばよくわかる。
 赤字財政からの脱皮のために何をやったかというと、
一、 自ら率先してやったこと。一汁一菜を通し、質素倹約を実践したこと。
二、 倹約するばかりでなく殖産して新しい産業を興したこと。
三、 細井平州という自分の師を招き、興譲館という学校を作り、身分の差なく藩民に教育を普及したこと。
四、 反対者の意見も聞き、忍耐強く自分の意見を納得してもらい、藩士の自主性を尊重したこと。
五、 各地に出向き、現場主義を貫いたこと。
というようなことになるのだが、アメリカ大統領ケネディが、日本の民主主義者として認めたのは、次ぎの藩主から代々伝えた「伝国の辞」に見られる彼の思想である。
一、 国家は、先祖から子孫に伝えられるもので、決して私すべきものではないこと
二、 民は国家に属するもので、決して私してはならないこと
三、 国家人民のために立たる君であって、君のために人民があるのではないこと
 天明五年巳年二月七日 治憲
この時、三八歳の若さである。国家の規模が小さいことも幸いしている。鷹山の心(徳)が伝わるには、米沢藩の規模が適当だったのであろう。改革の旗を振る人間だけでは改革ができないからである。人民の気持が変わらなければ決して改革にはならない。
 飯坂温泉に浸かって帰るわけだったが、昨夜の夜更かしと、昼の酒が効いたのか寝過ごして福島駅を新幹線が通過し、計画の一部は達成できなかった。車中きっと良い夢を見ていたのだろう。


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