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2013年08月25日

『冬の渚』(拙著)春の近江路

春の近江路
 比叡山の麓、大津の市街地に近い三井寺の桜が満開である。ライトアップされている。元職場の上司だった人が、最近大津市に引っ越したので、毎年奈良で開催される、数学者岡潔先生の春雨忌に出席する前日の宿泊を、電話してお願いした。快く了解してもらえたので、訪ねることになった。宿を提供してもらい、近江牛までごちそうになったが、逆に奥さんに感謝された。桜が満開の時期の訪問で、亭主殿を花見に誘い出してくれたからなのだろう。
「これで、引越しは(結婚してから)十回以上になります」
と、今回の引越しは、奥さんにとって嬉しいようでもあり、郷里(群馬県)から離れた地で、しかも周りには知り合いも少ないことから寂しいような気持もしているので複雑そうである。
大津市は、京都にも近く、近江神宮があることでわかるように大化の改新に近い、はるか古代に一時都が置かれたこともあるほど歴史のある街である。
近江の海 夕波千鳥汝が鳴けば 心もしのに古(いにしえ)想ほゆ
と柿本人麿が詠んだ風景は無論ないが、雄大な琵琶湖は健在である。
 学生時代、京都に暮らしていたわりには、滋賀県に足をのばすことは少なかった。近江舞子の近くで、クラブ(将棋研究会)の夏季合宿をしたことがあった。宿に缶詰で、将棋三昧、観光地を訪ねたという記憶はない。頭の疲れを癒すために、生れて初めて同僚の誘いで釣りをしたのは良く覚えている。鮒らしい魚を釣った感触が新鮮だったからであろう。
 この近江舞子のさらに先に安曇川という町がある。あどがわと読むのであるが、位置関係は少し説明が必要である。京都駅から湖西線で約五〇分程かかる。湖西というのは、琵琶湖の西沿岸を列車が走っているという意味である。対岸の路線は、湖東線とは言わない。東海道本線で、京都の山科で分岐している。近江舞子は、安曇川まで行く途中にある。
 旧友夫妻宅を訪ねるのは夕方なので、群馬の安中榛名駅から発ったその日の午後、新幹線を京都で乗り換えて、安曇川に行くことにした。訪ねるのは、近江聖人生誕の地である。近江聖人は、おうみしょうにんとは読まない。おうみせいじんである。
 
 近江聖人という呼称で知られているのは、中江藤樹である。江戸時代初期の儒学者で、我が国の陽明学の開祖とされている。現在の歴史の教科書に名前は出てくるが、さてどんな人物かまで知る人は少なくなっている。
 戦前の教科書には、その親孝行な人物像が描かれ、二宮尊徳などと同じくらいの歴史的有名人であった。内村鑑三の『代表的日本人』の中に書かれている人物でなかったら、こうした旅にはならなかったに違いない。
戦後の教育は、道徳教育を置き去りにした感がある。儒教は、江戸時代にあっては、支配者階級であった武士の規範になっていたが、為政者にだけ都合が良い学問というのは言いすぎであろう。藤原惺窩(せいか)、林羅山などと続く朱子学派の系譜からは、知的で形式的な側面が強い。人生の深い目的を人々の心に納得させるには物足りないものがある。
孔子や、孟子などは今日でも偉大な思想家である。戦後民主主義が、公の束縛から解放された個人の権利の尊重を謳歌させたために、一方で、他者への思いやりや公共への奉仕の観念を薄めた。自己欲とか自我を抑制するのが、道徳であり、儒学がそのいちやくを担っていたとも言える。
中江藤樹は、一六〇八年に、近江国高島郡小川村に生れた。祖父が、米子藩の家臣であったことから、武士にならず近江で農民となって暮らす父親の代わりに、九歳の時、祖父吉長の養子となり、その後元服して家督を継いだ人である。
若い時から利発であったばかりでなく、学問を良くした。祖父の理解もあり、京の都にも学識のある親戚もあったことから、二十代半ばには相当な見識を持った武士になり、祖父の死後、伊予大洲藩の加藤氏に仕えたが、大いに前途に期待されるところがあった。
武士としての名は、与右衛門、字は惟命。藤樹は号でなく、居宅に生えていた藤の老樹から、門人たちが「藤樹先生」とよんだ尊称に由来している。
 
 二七歳の時、脱藩して国に帰る。幾度の辞職願が通らなかったからである。藤樹の才、識見を高く評価し藩になくてはならない人材と見ていた家老は、殿様への取次ぎをなかなかしてくれなかった。脱藩は死罪である。にもかかわらず行動に表わしたのは、夫に先立たれ、娘を嫁がせ一人暮らす母親が心配であったからである。今日流に言えば、地方公務員を辞めて、親の世話をするためにUターンした息子ということになる。マザコンというのは当たらない。
殿様に仕える人材は自分以外にもいるが、母親の面倒を見られるのは自分をおいて他にはかいない。このあたりは、親への考を説く儒教を学んだ人間だからというより、藤樹の体質であろう。
十代の時、儒学の大家とされ、幕府の御用学者であった、林羅山が、僧の称号をもって、顕彰されると、猛烈な批判分を書き、名誉を求める俗人と決めつけ、儒教の徒にはほど遠い人物だと批難したことがあった。
また、城に出仕し、暗黙の了解で、仕事もなくただ語り合っている武士が、藤樹が顔を見せると仕事をするしぶりをするとか、冗談も言わず謹厳実直な藤樹の傍にはなかなか寄り付こうとしなかったという話があり、正義感の強い、俗っぽさのない堅物という若い日の藤樹の人物像が伝えられている。
国に帰った藤樹は、自ら学問を深めながら、地域に住む人々に優しくわかりやすいように講義した。その教えを求めて多くの門人が生れている。その一番の弟子と言われるのが、熊沢蕃山(一六一九~一六九一)である。岡山藩主池田光政に仕え、鴻儒(経世思想家)として幕政に影響を与えた。近江聖人として後世に中江藤樹を伝えたのは彼の実績である。大金を落とした飛脚の宿に、その落し物を送り届け、それが当然の行いだと言って帰った「正直馬子」の話を内村鑑三も著書の中で紹介しているが、その精神を教えたのが、藤樹であり、熊沢蕃山が藤樹の門を叩くきっかけになったと言われている。
中江藤樹は、母親に先立ち四一歳で亡くなくなっている。持病の喘息が原因だったとされている。藤樹神社の敷地にある、中江藤樹記念館から歩いて数分のところに墓地があり、母親と並ぶように墓標が立っている。そこから日吉神社を左に折れると、生前塾として門人を教えた藤樹書院跡があり、今では明治に火災のため焼けた後に建てられた家があり、座敷の奥の中央に夫人と並んで神主(位牌)が置かれている。
中江藤樹が晩年辿りついた境地は
「致良知」
という言葉に示されている。意味は、
「良知すなわち善なり。良知に致れば、善は常に心のあるじなり」
ということで、人の本心は善であり悪ではないという「性善説」であり、明代の思想家王陽明の「致良知説」の影響も少なくない。
法律は、人の本心が悪であるという「性悪説」から生れてきているのかもしれないが、法律を動かす人々には、その根本に磨けば光る善の玉を誰もが持って生れてきているという考え方に立ってもらいたいとは思う。
善と悪というのは、時代や社会体制が変わっても、自然の理として存在している。東洋思想研究では碩学と言われた安岡正徳は書の中で
「善というものは生命の発展に従うものだから、従順な感じで、刺激がない、そして素直である。およそ人々は善に対してはあまり感じないが、悪に対しては非常に強く感じる。人間も概して悪人は強い。善人は弱い。だから善人と悪人を比べてみると、善人はたいてい引っ込み思案、消極的で、傍観的で、団結しない。悪人は猛々しく深刻で、攻撃的、積極的で必要に応じてよく団結する。悪党という語があっても善党という言葉は使わない。だから悪党と善人では一応、善人が負けるものである」
藤樹先生の『翁問答』の中にも
「国をおさめ天下を平らかにする要領、謙の一字にきわまれり」
というのがある。王道政治の基本でもある。覇権主義では天下は長く治まらない。ただ歴史上、あるいは組織でも王道政治のような形が実現されることは少ない。
「知行合一」という言葉もある。中江藤樹の人生はまさにそれである。西郷隆盛や吉田松陰なども陽明学に影響を受けたとされる。大塩平八郎もそうであった。色合いは違っていても、世渡り上手な人間にない精神がある。
社会教育家であった後藤静香(一八八四~一九六九)の著書『権威』の一節に「波紋」というのがある。
波紋
 静かな池に小石を投げよ
 丸い波紋が
 大きく大きくひろがって
 どこまでも延びてゆく
 人間の考えも行いも
 善悪ともに
 ひとたび動いた心の波は
 永遠にのびてゆく
 時間をこえ、空間をこえて
無限にひろがってゆく
正しい波、悦びの波の源をつくれ
天台宗の開祖伝教大師、最澄は、「世の一隅を照らせ」と言ったのに通ずる。中江藤樹という人は、琵琶湖に善という小石を投げ、安曇川の一隅を照らした。鄙にあって、これだけの精神の向上と、学問を深めたことに畏敬の念を持った。しかも、人生五十年の時代と言え、四一歳の齢を重ねたに過ぎないのだからなおさらである。
藤樹書院跡に近い民家が古そうに見えたが、家の壁や、塀に使われている板が焼き込んである。焼き杉といって防虫の効果があり、家はかえって長持ちをするらしい。安曇川あたりは、冬、雪も多いらしい。藤樹の過ごした地の自然は決して人に優しくはない。

大津に戻り、義仲寺に立ち寄る。木曾義仲を巴御前が弔った寺とされるが、芭蕉の遺骸が眠っている寺としても有名である。芭蕉は、弟子に遺言して、自分の亡骸は木曾義仲の墓の傍らに埋葬するように望んだ。終焉の地は、大坂であったから、淀川を船に乗せられて運ばれたのである。義仲の墓を挟んで、巴御前の塚があった。
去来ほどの小さき塚や春の寺
芭蕉が木曾義仲を慕った理由はよくは知らないが、悲運な人と映っていたからなのだろうか。異母兄弟であった義経らの軍勢に破れ、琵琶湖に近いぬかるんだ田の中で、馬上で射られて落命したのだと伝えられている。
木曾の情雪や生えぬく春の草
むざんやな甲の下のきりぎりす
の句に義仲への芭蕉の想いが込められているという。
死後、芭蕉と巴御前という男女に慕われた木曾殿の天上での心境は如何なものであろうか。
京阪電鉄膳所駅に近い街中にある寺だが、こじんまりとした風情のある寺である。有名な芭蕉の句がある。
行春を近江の人とおしみけり
柳が既に若葉を出してその緑を風に揺らしていた。
今回の旅は、中江藤樹に惹かれるところがあったからであるが、芭蕉の墓に詣でて、いつかは芭蕉の足跡を辿ってみたくなった。義仲寺を訪ねた翌日、岡潔先生と生前何かしらのご縁があり、今もって人生の師と考えている人達の集い「春雨忌」では連句が行われるようになっている。焦門の連句は有名であるが、その意味が少しずつではあるが分りかけてきたような気がする。
五七五の発句があり、次の人が七七と続け、四季と場面を変えながら、前の人々の情緒に配慮しながら、三六回で終る。それを一巻とするのが連句であるが、途中に花や月の坐などがあって、約束事もある。風流と言うより、他者の心を慮るための訓練になる。
「自分を後にして他人を先にせよ」
と繰り返し語っておられた岡先生の教えの実践のようなものである。
「人は懐かしさと喜びの世界に生きている」
ということも連句によって実感できるような気もする。
岡先生の友人であった物理学者の中谷宇吉郎との連句がある。一部であるが
秋晴れに並んで乾く鯵と烏賊   虚雷
 蓼も色づく溝のせせらぎ    海牛
夜毎引く間取りをかしく秋ふけて 海牛
 さて目覚むれば烟草値上がる  虚雷
虚雷が中谷先生。去来にかけているのか、物理学者らしい号である。海牛が岡先生の号であるがユーモラスな名前である。名づけたのは中谷先生だったらしい。


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