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2013年08月28日

『冬の渚』(拙著)三浦半島、鎌倉へ

三浦半島、鎌倉へ
 鎌倉は、前面を相模湾、背後を山に囲まれて天然の要害の地になっている。源氏の頭領、源頼朝によって今から八百数十年前にこの地に幕府が開かれ、政治の中心となった。源氏は、初代頼朝、二代頼家、三代実朝と続き、実権は執権職の北条氏に移った。十四代、北条高時が新田義貞に攻められ自害して果てるまで、約一五〇年間、鎌倉幕府は続いたのである。今日では、鶴岡八幡宮を中心に、鎌倉五山に代表される寺々があって、東国の貴重な古都になっている。由比ヶ浜、七里ヶ浜の海水浴場や緑も豊かで、夏場は人々が多く訪れる。
 入梅に近い五月の末、一泊二日で関西地区の春雨塾(故数学者岡潔先生を人生の師とする人々の集まり)の人々が三浦半島、鎌倉への旅を企画した。一行は六人。お誘いを受け仲間に加えてもらうことになった。本来なら、関東にお迎えするのだから、関東の人間が気遣いするのが筋だが、前々からの企画で幹事役まで決まっていて、すっかりお世話になってしまった。
 土曜の昼過ぎ、日露戦争の日本海海戦で東郷長官を乗せて戦った戦艦三笠が展示されている三笠公園で落ち合うことになっていた。JR横須賀駅で降りたために目的地までは徒歩では遠くなってしまった。タクシーに乗る程の距離ではないが、約束の一時には歩いては間に合いそうもない。左手は軍港になっていて、潜水艦も停泊している。
横須賀といえば、鎮守府のあったところでもあるが、幕末、ここに莫大な費用をかけて造船所を造った人物がいる。小栗忠順、旗本出身の幕府官僚で勝海舟と対比される人物である。薩長から恐れられ、敵視され、維新後には裁かれることもなく、倉田村、今日の倉渕村の川原で斬首された。その場所に、「偉人小栗上野介罪無くして斬らる」の碑が立っている。揮毫したのは、蜷川新である。小栗の甥にあたり岳南翁と呼ばれた同志社大学法学部教授だった人であるが、清水正三が翁を取材して書いた『日本国興亡史』(作品社)は、巌本善治『海舟座談』(岩波文庫)と同様刺激的な著書になっている。明治政府の流れとは違った角度からの小栗像が綴られている。
 横須賀市と倉渕村は小栗の縁で姉妹都市となっており、倉渕村の山間合いには保養施設「はまゆう山荘」があって交流の場になっている。小栗の菩提寺は、東善寺で、朋友で有能な幕府の外交官であった栗本鋤雲とともに胸像がある。近年は小栗をとりあげた書籍も増え、テレビドラマ化されたこともあり、墓を訪ねる人も多くなったという。
 小栗のことには深入りしないが、今の財務大臣にあたる勘定奉行を三度もしたということ。徳川慶喜が朝敵になるのを恐れ、恭順したのに対し主戦論であったこと。その時、小栗の意見をとりあげず、去ろうとした慶喜の袖をひっぱって懇願した行為は、臣下としては前代未聞のことであったらしい。勘定奉行を三度も務めたのは、能力を買われたことでもあるが、主張を変えない直言居士であったためだとされている。有能であったが、悲劇の人となったのは、性格とは無縁ではない。
 小栗が建設した造船所は解体されてなく、現在スーパーの「ダイエー」の建物があるあたりだとタクシーの運転手が説明してくれたが、記念公園に当時が語られているだけで痕跡は残っていない。このドッグを使用し、日清、日露の大戦の軍艦の修理ができ、東郷平八郎元帥が日露戦争後、小栗の遺族を訪ね感謝を述べている。明治という国家に「土蔵つきの売家」を残したと司馬遼太郎が小栗の功績を認めている。
 
 三笠公園に着くと、既に関西の人々は艦上の人となっていた。見張り兵(?)を一人置き、他の人達は見学を済ませていた。見張り兵は春雨塾でも長老格で、機転とユーモア抜群の河野さん。こうした細かい気遣いは嬉しい。今年は、日露戦争から一〇〇年目に当たる。全長約一三〇メートル余りの当時として最新艦がこうして残されていることに意義を感じるのは海軍関係者だけの想いにとどまらない。
 旅の初日の訪問地に観音崎を選んだのは、春雨塾の人達らしい。ここには、日本最初の洋式灯台があるが、現在のものは三代目である。初灯は明治二年と入場券に書いてある。灯台からの浦賀水道の眺めも素晴らしいが、近くに走水という古い地名があって、日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征の折、対岸の上総の国(千葉県)へ船を漕ぎ出したのが走水である。古事記と日本書紀に、表現は少し違っているが、荒れた海の中に、海神の怒りを鎮めるために夫人の弟橘媛(おとたちばなひめ)が身を投じたとされる話が載っている。遠い昔の出来事に想いを馳せるのも良い。
 一九九八年、皇后陛下が、インドのニューデリーで「子供の本を通しての平和―子供時代の読書の思い出―」と題して講演された。先年、出雲大社に参拝したとき、皇后陛下のご講演の内容が小冊子になって無料配布されていた。その中に弟橘媛の話が載っている。少し長いのだが、実に深い印象を、子供の頃の皇后陛下の心に落とした物語として語られている。

「父のくれた古代の物語の中で、一つ忘れられない話がありました。
 年代の確定できない、六世紀以前の一人の皇子の物語です。倭建御子(やまとたけるのみこ)と呼ばれるこの皇子は、父天皇の命を受け、遠隔の反乱の地に赴いては、これを平定して凱旋するのですが、あたかも皇子の力を恐れているかのように、天皇は新たな任務を命じ、皇子に平穏な休息を与えません。悲しい心を抱き、皇子は結局これが最後となる遠征に出かけます。途中、海が荒れ、皇子の船は航路を閉ざされます。この時、付き添っていた后、弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)は、自分が海に入り海神の怒りを鎮めるので、皇子はその使命を遂行して覆奏してほしい、と言い入水し、皇子の船を目的地に向かわせます。この時、弟橘は、美しい別れの歌を歌います。
 さねさし相武の小野に燃ゆる火の火中(ほなか)に立ちて問ひし君はも
 このしばらく前、建(たける)弟橘とは、広い枯れ野を通っていた時に、敵の謀にあって草に火を放たれ、燃える火に追われて逃げまどい、九死に一生を得たのでした。弟橘の歌は、『あの時、燃えさかる火の中で、私の安否を気遣ってくださった君よ』という、危急の折に皇子の示した、優しい庇護の気遣いに対する感謝の気持ちを歌ったものです。
 悲しい『いけにえ』の物語は、それまでも幾つかは知っていました。しかしこの物語の犠牲は、少し違っていました。弟橘の言動には、何と表現したらよいか、建と任務を分かち合うような、どこか意志的なものが感じられ、弟橘の歌はー私は今、それが子供向けに現代語に直されていたのか、原文のまま解説が付されていたのか思い出すことが出来ないのですがーあまりにも美しいものに思われました。
『いけにえ』という酷い運命を、進んで自らに受け入れながら、恐らくはこれまでの人生で、最も愛と感謝に満たされた瞬間の思い出を歌っていることに、感銘という以上に、強い衝撃を受けました。はっきりした言葉にならないまでも、愛と犠牲という二つのものが、私の中で最も近いものとして、むしろ一つのものとして感じられた、不思議な経験であったと思います。
 この物語は、その美しさ故に私を深くひきつけましたが、同時に、説明のつかない不安感で威圧するものでありました。
 古代ではない現代に、海を静めるためや、洪水を防ぐために、一人の人間の生命が求められるとは、まず考えられないことです。ですから、人身御供というそのことを、私が恐れるはずはありません。しかし、弟橘の物語には、何かもっと現代に通じる象徴性があるように感じられ、そのことが私を息苦しくさせていました。今思うと、それは愛というものが、時として過酷な形をとるものなのかもしれないという、やはり先に述べた愛と犠牲の不可分性への、恐れであり、畏怖であったように思います。
 まだ、子供であったため、その頃は、全てをぼんやりと感じただけなのですが、こうしたよく分からない息苦しさが、物語の中の水に沈むというイメージと共に押し寄せて、しばらくの間、私はこの物語にずい分悩まされたのを覚えています」

愛は犠牲である。けれども死をもって示す愛があるのかということが少女として理解の範囲を超え、息苦しさという表現で語られたのだと思う。
夫の日本武尊は、齢三十の生涯であったと伝えられている。国しのびの歌がある。
  倭は 国のまほろば
  たたなづく 青垣
  山籠れる 倭しうるわし
愛国心などというからよくないので、この歌のように国を思えればよい。
鎌倉といえば鶴岡八幡宮ということになるが、鎌倉宮という神社の存在は知らなかった。日本武尊と同様悲劇の皇子、大塔宮護良(おうとうのみやもりなが)親王が奉斎されている。後醍醐天皇の第一皇子としてお生まれになった方である。
後醍醐天皇は、天皇親政を望み、護良親王は、武者となって、楠正成らと北条軍と戦った。奈良に都が定まって以来、久しく皇族が剣を持って戦に臨むことはなかった。安徳天皇の場合は、ご自身が戦われたわけではない。
親王は、建武の中興という束の間の政権の中で、征夷大将軍になられるが、足利尊氏と対決することとなり、捕らえられて鎌倉に送られ、幽閉された。九カ月もの間、幽閉された土牢が鎌倉宮に残っている。尊氏の弟直義の命により護良親王は、渕辺義博の虐刃により二十八歳の生涯を閉じられたのである。
高貴の人の首をはねるというこの行為は、足利政権の印象を後世悪くしている。鎌倉時代、僧侶の死刑もなかったとされている。日蓮が滝の口で切られそこなったのも僧侶の首を切ることに躊躇したというのが真実のようである。鎌倉宮を創建されたのは明治天皇である。
緑陰に 洞なお暗し 鎌倉宮

鎌倉は、文化人、文人が好んだ町である。東慶寺は北鎌倉にある。「縁切寺」、「駆込寺」として知られているが、著名人の墓があることでも有名である。階段を上り、境内に入ると梅の木がたくさん植えられている。墓は奥まった沢のような場所にある。竹林の中に和辻哲郎の墓があった。少し行くと哲学者の西田幾多郎と岩波書店の創設者岩波茂雄の墓が並んである。東京オリンピックで東洋の魔女を育て、バレーボールで金メダルに導いた大松監督の墓もあった。他にも、鈴木大拙、小林秀雄、高見順などの墓がある。
首を切られたり、海に入水する話、お墓を訪ねたりと、少し紀行の内容が重苦しくなっている。しかし、鎌倉は落ち着いた良い町である。こうして親しい人達と親睦を深める旅はなかなかできるものではない。何よりも楽しかったのは、宿での語らいの時間であった。七里が浜に近い鎌倉プリンスホテルに泊まったのだが、高価な(?)ワインとフランス料理は、潮の寄せる海も眺めに加えて豪華な気分にさせてくれた。
二次会は、幹事さんの部屋に集まって、ビールで一杯ということになったが、歴史の話はもちろん、女性論、男性論にも飛躍し、さらには素粒子論まで発展し
「不安定な素粒子は男性、安定な素粒子の代表である電子が女性。不安定な素粒子は驚くほどの速さで生涯に一億個の電子を訪問する。しかもその寿命はきわめて短く、百億分の一秒しかない。(男心の何と不安定なことよ)」
という話の展開は、春雨塾生ならではのものである。六人は共通して、岡潔先生の「虎の巻」を持っているからわかる。
教育現場に長い赤司先生が
「最近の女の子はあっさりしてますわ」
と関西弁でコメント。大和乙女の恋心というものは、もはや失われてしまったのか。うつろいやすいのは男心ばかりということではないようだ。


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