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2013年08月28日

十年後のイーハートーブ(2013年8月)

十年後のイーハートーブ
 タイトルは、「十年後の宮沢賢治」、あるいは「十年後の花巻」としたかったのだが、今回の訪問地に遠野が加わっている。イーハートーブは、賢治が好んで使った造語で、岩手県という意味だが、花巻周辺の意味で使わせてもらう。平成十五年の花巻訪問は、もっぱら宮沢賢治を意識した旅になっている。親交のあった高村光太郎の山荘も訪ねているが、主役はあくまで賢治であった。
 
 今年の夏は、酷暑と言って良い。北に行けば、少しでも暑さを凌げるだろうという思惑もある。宇都宮を過ぎたあたりから天候が怪しくなった。仙台は、雨になった。新幹線「はやて号」は全席指定で大宮から仙台までは、ノンストップである。仙台からは、盛岡まで各駅停車のようになる。古市以北、沿線は夏の田園風景が広がり、緑が目に優しい。米の文化が北進していった古代を想像する。そのため、森林は伐採され、森の文化は衰退していった。目指す遠野はこのことと無関係ではない。
 遠野は、一度は訪ねてみたい土地であった。その思いが深くなったのは、見知らぬ人から『哀調の旋律』という柳田国男の世界を綴った著書を贈呈していただき読んだことがきっかけになっている。著者は、九州宮崎の人で亀澤克憲さんである。大学時代から民俗学を学び、詩人でもある。『遠野物語』を読んだだけの人間には、実に新鮮な内容であった。柳田国男は、東京帝国大学から農商務省の官僚になり、貴族院議員書記官長になった人だが、四〇代で官職を辞して日本の民俗学の基礎を作った人物である。その出発点になった『遠野物語』は、自費出版だった。新潮文庫の『遠野物語』を読んだのだが、奇怪な話が並んでいて、なぜこの本が代表作として知られているのか不思議に思った印象が強い。しかも、山本健吉が解説を書き、吉本隆明が評論を書き、その文章が半分近くを占めている。やはり、遠野の地を訪ねてみなくてはならない。
 新花巻で新幹線を下車するとJRの釜石線に乗り換えることができる。ワンマン列車であるが、本数は少ない。待ち時間は、ほとんどなく乗ることができた。各駅停車で遠野までは約一時間である。この鉄道は岩手軽便鉄道が元になっている。宮沢賢治の名作『銀河鉄道の夜』のモチーフになったとも言われている。めがね橋と呼ばれる橋梁は、今も使われている。今は夜ではないが、ジョバンニになったつもりで、山間の風景を楽しむことができた。しばらくすると乗客の話す言葉が耳に入ってくるが、この地の言葉である。方言などと言う失礼な表現はすまい。
 乗客には老人が多く、なおさらその感が強い。老人たちには、この鉄道が良い足の便になっているのだろう。席を譲る若者もおり、それが自然な親切心から出ていることも良い感じがした。下車する駅を間違えた老人がいたが、運転手の対応もまた親切である。一匹のアブが侵入し、追いまわす姿も微笑ましくもあった。時間がゆったりと流れている。遠野物語の前章にふさわしい車内風景になっている。
 遠野市は南部氏が治める城下町であった。北上山地の高峰である早池峰山や日本酒の銘柄で知られる高清水山があって盆地になっている。北上川流域の花巻や盛岡と漁業の町釜石の中間にあって商業の町でもあった。その運送に活躍したのが馬である。馬の市も盛んであった。『遠野物語』にも馬の話が出てくる。「オシラサマ」という話の概略はこうである。語り部の語調も少し入れてみたい。
「昔あったずもな。ある百姓家に、とどとかがと、可愛い娘と若駒が一頭住んでいたど。年が経つにつれ、娘は輝くばかりに美しくなり、若駒も立派な馬っこになっていたど。」
こんな調子で始まる。「ずもな」は「そうだ」という意味。「とど」は「父」、「かが」は「母」である。話の続きは、娘が馬と夫婦になりたいという。父親は驚いて、馬を桑の木に吊るし、皮をはぎ始める。娘が制しても止めず、不思議なことに馬の皮がすっぽりと娘をくるんで天に昇ってしまう。そしてある晩、娘が夢枕に立って次のように話す。
「おれの親不孝許してけろ。その代り○月○日庭の臼の中見てけろ。その虫を桑の葉で養ってまゆっこ作れば高く売れるから」
オシラサマは養蚕の神様になったという話である。最後に、語り部は、「どんどはれ」と言って話を閉じる。
 今晩の宿は「あえりあ遠野」である。遠野駅から城のあった鍋倉公園に向かって徒歩で八分程の距離にある。語り部の話が聴けるというのでここに宿泊することに決めた。三時のチェックインなので、旅館の真向かいにある遠野市立博物館を昼食を済ませて見学することにした。「佐々木喜善と宮沢賢治」の特別展が開催されている。常設コーナーは遠野の歴史民俗資料館のようになっている。
 今回は、宮沢賢治には脇役になってもらう。二人は晩年に親交があったと紹介されていたが、佐々木喜善こそ柳田国男に遠野の物語を語って聞かせた人物なのである。柳田は、それを書き留めて『遠野物語』にまとめたのである。『古事記』の稗田阿礼と太安万侶の関係を彷彿させる。佐々木喜善が、早稲田の学生だった頃、友人が柳田を紹介し、地方に伝承されている話に関心を持っていた柳田に興味を抱かせ、遠野の物語が世に出るきっかけを作ったのである。佐々木喜善の家は、この地独得の曲がり屋として今も残っており、観光名所にもなっている。遠野の長者の家柄だったのである。文人を目指していたが、遠野に帰り村長にもなったが、政治向きの人ではなかったらしい。遠野周辺の昔話を柳田のように収集した功績は大きかった。
 柳田国男にまつわる話として、若いころ伊良湖岬を旅行した時、浜辺に椰子の実が流れ落ちているのを見て、日本民族の祖先が南方から来たことを想像したという話が有名である。それを柳田から聴いた、島崎藤村が「椰子の実」という詩を書いた。大中寅二が作曲して名曲として今日まで歌い継がれている。柳田国男は若い頃のこの体験を持ち続け、晩年に『海上の道』という著書を書いた。彼の民俗学の集大成のような作品である。まだ読んでいないの、近く購入したいと思っている。柳田と同じように、日本民族の祖先を南方にあると想像した人物がいる。数学者の岡潔である。『春宵十話』というエッセイの中に書かれている一部を紹介する。
「一九二九年の洋行のさい、シンガポールで船を降りたところ、砂浜のような浜辺が長くのび、ごくわずかな本数の、先だけに葉のあるヤシの木があった。また日本の神社の原型のような民家が少し並んでおり、この景色を見ているうちにひどく懐かしい気がした。それはただの懐かしさではなく、異常な、程度の強い懐かしさであった。その時以来私は、日本民族が南方から来たものであることを疑わない。ある土地に固有な強い情操のあることが全く以外で、理屈なしに懐かしかった」
と書かれている。
 くりかえすが、釜石線の本数は少ない。朝食を早めに済ませ、遠野駅に向かう。駅の後方に、早池峰山が見えるはずだが、雲に隠れて見えない。八時少し前の列車に乗る。九時から、職場の野球のチームの試合が花巻である。一〇年前も観光ついでに応援に駆け付けた。予選を勝ち抜いて全国大会に出場することになり、会場が花巻になったのである。昨夜、職員から携帯電話にメールをもらい、試合会場の住所を知らせてもらっている。東和町安俵という地区。新花巻駅に行って地図で調べていこうと思ったが、列車の向かいの座席の老人に聴くと新花巻駅より二つ前の駅で降りればよいと教えてくれた。場所は、駅員に聴いてほしいという。駅名は土沢。萬鉄五郎美術館の案内板がある。東京芸大出身の画家で、彼の出身地だったのである。野球の応援が優先する。道草は食えない。
 この日は、甲子園で高校野球全国大会の準決勝二試合が行われることになっている。東北から二チームが勝ち残っている。その一つが花巻東高校である。新花巻駅には、応援の垂れ幕があった。結果的に、東北の二校は敗退し、群馬県の前橋育英高校が優勝した。関東地区から出場した、職場のチームは敗退したが、この試合で退部する監督の胴上げは、部員の気持ちが良くこもっていた。
 新花巻駅に戻り、新渡戸記念館に行くことにした。前回の花巻訪問の時はもっぱら宮沢賢治の足跡を追った。平成三年に開館となっている新渡戸記念館は意識の外にあった。この記念館は、正確に言えば「花巻新渡戸記念館」となる。既に、十和田市に新渡戸記念館が以前に開館されているからである。このあたりの事情を説明することも新渡戸稲造という人物の紹介に意味あることである。
 
 新渡戸稲造は、一八六二年(文久二年)に盛岡藩士の家に生まれた。出生地は盛岡市である。花巻は、父祖ゆかりの地であり、新渡戸氏は江戸時代のほとんどを花巻に暮らしていたのである。記念館で新渡戸氏の系譜が紹介されていて、祖先は桓武天皇にたどりつく。鎌倉時代の初めは、千葉にあって、千葉氏を称していた。古く、高貴な家系なのである。祖父の代に、十和田の三本木原の新田開発のために盛岡に移り、新渡戸稲造の兄まで三代にわたりこの事業関わったのである。十和田市の基礎を作った功労者として、新渡戸家を顕彰したのが、十和田の新渡戸記念館の設立主旨になっている。
盛岡市の先人記念館にも新渡戸稲造のコーナーがある。米内光正、金田一京助らと大きくとりあげられている。岩手の人々にとっては、代表的な郷土の偉人の一人である。新渡戸稲造については、以前紀行の中で何度か紹介してきている。札幌農学校で、内村鑑三、宮部金吾らと同期であった。早くからキリスト教徒となり、ドイツに留学し学問を深めた。台湾では後藤新平とともに製糖事業を成功させ、一高の校長となり、京都帝国大学や東京帝国大学の教授を歴任し、国際人としての度量を見込まれ、国際連盟の事務次長になった人で、その略歴は、あまりにも輝かしい。記念館に寄ると、書店にはないような書籍、小冊子を買う事にしている。『新渡戸稲造物語』柴崎由紀著を購入。値段も手頃でわかりやすい。半分ほど読み進んで気づいたのだが、裏を見ると小学校中学生以上と書いてある。図書館選定図書になっている。かえって、新渡戸稲造の知らない世界を知ることができた。久しぶりに、偉人伝を読んで感動した。還暦を過ぎても子供のような感性が残っているのかもしれない。以下は、そのあたりの話になる。
彼の妻は、アメリカ人である。しかも厳格なキリスト教信者といわれるクエーカーであり、両親は、結婚に反対であった。日本の親族にも反対者は多かった。それを乗り越えての結婚である。明治中期の国際結婚は、多くの障害があったことであろう。その二人の間に長男が生まれるが、一週間しか生きられなかった。名前を遠益(トーマス)という。妻は、健康を害し、静養のためにアメリカの実家に帰る。この最大の危機を乗り越えていく。妻に実家から多額の寄付があった。その資金を元に、札幌に夜学校を開校する。遠友夜学校という。授業料は無料。来る物拒まずで、希望者は誰でも入学できた。教師はボランティア、札幌農学校の生徒が協力した。この学校の教育精神は、「誰に対しても悪意を抱かず、すべての人に慈愛の心をもって」であった。貧しい生い立ちから、大統領になったリンカーンの言葉である。
その後にも危機があった。新渡戸自身が、健康を害し長期の静養を余儀なくされた。社会活動はできなかったが、静養先で『農業本論』を出版し、日本最初の農学博士となっている。伊香保も静養先になっている。なお静養は続き、アメリカで書かれたのが『武士道』であった。世界中に翻訳されベストセラーになった。原本は英語で書いたのである。ルーズベルト大統領は、この本を高く評価し親日家になったというのは有名な話である。そのために、日露戦争の調停役となったことは、大いなる国益となっている。
新渡戸稲造の偉大さは、静養中でも学問を離れず、健康な時は正しいと思う事を実行した。地位やお金、でなく自分自身の質の向上が人生の目標になっていた。さらに、知っていることを行わないのは知っていることにならないと考えていた。陽明学の「知行合一」の考えに近い。一高の校長時代、生徒に
「先生は沢山の書物を読まれていると思うが良く覚えておられますか」
という質問に
「君ね、覚えていないからいいんだ。その時は身に着いている。食べ物だっていつまでも腹にあったら、成長の役にたたんだろう」
という平易な答えを返している。生涯の読書量は、残された書籍が多かったことが物語っている。
 一高の校長時代特筆することが二つある。一つは、内村鑑三の聖書研究会に新渡戸が校長時代に学んだ優秀な学生が入門したことである。『武士道』を翻訳し、東大総長になった矢内原忠雄、官僚から文部大臣になった前田多門、最高裁判所長官になった田中耕太郎といった人々である。国の中枢にあって要職についた人物に熱心なキリスト教徒になった人々を輩出しているのである。
 二つ目は、幸徳秋水らの引き起こしたとされる大逆事件の後、一高の弁論部が企画した徳富蘆花の「謀反論」の講演会を許したことである。この講演の開催を中心になって準備に奔走したのは、後に文部大臣になった森戸辰男であった。思想の自由、学問の自由という新渡戸の根本的な考え方が反映している。
 「我、太平洋の橋にならん」という若い時からの新渡戸の大志は、国際連盟の事務次長の時にも発揮される。オーランド諸島の領土紛争を平和裏に裁定したことである。フィンランドとスウェーデンの領土問題であった。両国が納得できる案を出し、紛争を解決した。「新渡戸裁定」として、今日まで語り継がれている。そして、死後も、日本の敗戦処理の中で、天皇を戦犯とせず、国民の象徴として元首になることを提案した、フェラーズ准将も少なからず新渡戸の影響を受けていたとされる。
今回の花巻、遠野の旅の主役は、柳田国男と新渡戸稲造になった。農業に無関係ではない。柳田は、農商務省で働き、新渡戸は農学博士である。二人の接点はないかと思っていたら、「郷土会」という地方農政等を研究する会を共に作って会を重ねたという。新渡戸の自宅が研究会の会場になった。また、宮沢賢治は花巻農学校で学んでいる。


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