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2013年09月11日

『翁草』(拙著)芭蕉生誕の地伊賀上野へ

芭蕉生誕の地伊賀上野へ
 『翁草』(拙著)芭蕉生誕の地伊賀上野へ
 俳聖といわれる松尾芭蕉は、徳川家康の江戸開府から四十年後の正保元年(一六四四年)に藤堂高虎を藩祖とする藤堂藩の城下町に生まれた。生誕の地は、現在、伊賀市上野赤坂町という場所にあり、伊賀上野城のある上野公園からそれほど遠くはない。約三百五十年後の今日に伝えられている建物の外観は、現在の建物と比較しても遜色がない。家は一方を大通りに面し、細長く部屋数も多く、宅地面積は、八十六坪余とあった。釣月庵という数畳ほどの別棟があって、ここで、処女句集『貝おほひ』は執筆された。帰郷の折の住まいでもあった。
 歩道に、観光名所としての標識があって、『笈の小文』の抜粋が記されてある。
 「代々の賢き人々も故郷はわすれがたきものにおもへ侍るよし、我今ははじめの老も四とせ過ぎて、何事につけても昔のなつかしきままに(下略)
 古里や臍の緒に泣く年の暮れ」
 「はじめの老」とは、初老つまり四十歳のことで、当時にあっては、四十歳は早や老人の齢であった。「老いの名もありとも知らで四十雀」という「年寄りの冷や水」の意味に近い句も芭蕉の作である。
 芭蕉にとって故郷は、懐かしく、心安らげる場所であった。江戸に出て、一流の俳諧の宗匠となって、漂泊の旅に時を過ごした芭蕉であったが帰郷することも多くあった。
 現在の伊賀市は、平成の市町村合併によってできた市名である。元々は上野市で、全国的に所在をはっきりさせるため伊賀上野という名で知られていた。観光マップにも伊賀上野という文字は残っている。
 東海道から名古屋を基点にして行くには、以外と時間がかかる。私鉄の近鉄を利用しても二時間近くはかかるし、JRとなれば二時間は超える。しかも本数が少なく、乗り継ぎも意外と不便である。しかも、上野駅は市街地から離れていて、バスか近鉄線を乗り継ぐことになる。ホテルにチェックインする前に地酒を買いに酒屋さんに寄ったら、親切に御婦人が
「バスを利用されたら良かったのに。名古屋からでしたら一時間ちょっとしかかかりませんわ。そこのバスターミナルに着きますのに」
関西特有のやわらかな言葉の言い回しで教えてくれた。高速道路を走るバスが意外と便利でしかも費用も安くてすむ場合がある。関西特有と言ったが、伊賀市は、三重県で、東海地方に入り、近畿圏に所属していない。ただ、街中を歩き、道を尋ねたりすると、気持ちよく丁寧に教えてくれる。ホテルも元々は古い旅館の経営で、もてなしの心が感じられた。観光地のサービス精神か、気質かは分からない。
 『翁草』(拙著)芭蕉生誕の地伊賀上野へ
 伊賀市の観光の中心は、伊賀上野城のある上野公園で、芭蕉翁記念館や俳聖殿、伊賀流忍者博物館などがある。観光客は、芭蕉派と伊賀忍者派に別れるほどの観光のシンボルになっている。ちなみに甲賀忍者の地は、滋賀県にあり、焼き物で有名な信楽(しがらき)に近い。
 『翁草』(拙著)芭蕉生誕の地伊賀上野へ
 伊賀上野城は、国宝ではないが、木造建築である。藤堂高虎が築城中に台風により建築を断念したが、石積みだけはしっかり残されていた。昭和になって、川崎克という政治家が、私費も多く投じ、有志の人々にも資金提供を呼びかけながら、昭和十年に天守閣を再建した。外観も美しいが、最上階の天井が見物である。落成当時の各界の大家の大色紙に書や絵が書かれている。その数四十六点にのぼる。主だった人を上げると政治家では、憲政の神様と言われた尾崎行雄。揮毫の内容は「至正」である。この上もなく正しいという意味である。川崎克が師事した政治家で、長老的存在になりつつあった。当時、現職の総理大臣であった岡田啓介海軍大将の書もあった。岡田は、翌年、首相官邸を青年将校に襲われ、運良く救出されることになる。近衛文麿の書は、五摂家の筆頭という名門の貴公子らしい筆のやわらかさが感じられる文字で「名績重新」と書かれている。
 画家では、横山大観が満月を描いている。川合玉堂の「棕櫚」。小室翠雲の旭日鶴は旭日を背に優美な姿で舞う丹頂鶴を描いたもので祝いの印としてふさわしい内容である。小室が群馬県の出身の画家であることを始めて知り、郷土の人という親近感も沸いて印象に残った。堂本印象は鷹を描いている。伊賀上野城は別名「白鳳城」ともいう。堂本美術館は、京都市北区にある。
 伊賀上野城の天井絵巻は一見する価値がある。芭蕉を訪ねる旅にあって、これ以上の脱線はできないが、俳句の高浜虚子、ジャーナリストの徳富蘇峰などの名前も見られる。主役の川崎克は松の枝に止まった鷹の絵を描いている。趣味の域を超えた水墨画に見えた。俳句にも理解があり、芭蕉翁への尊敬の念が強く俳聖殿も彼の主導による建築である。こうした篤志家としての行いが財産となったのか、孫も大臣を務めた自民党の有力政治家である。
 伊賀上野城の堀のある側の石垣は高い。加藤清正の築いた名城熊本城に匹敵する高さがある。長い月日に十分な修復が加えられなかったためか、石垣の間に雑木が生えたりしている。川端康成の書で、横光利一を記念する石碑があった。
 「若き横光利一君ここに憩ひここに歌ひき」
と印されている。伊賀上野は作家横光利一の少年時代の五年ほど過ごした故郷でもある。上野高校は、古風な建物で城の近くにあったが、前身は旧制の三重県立第三中学校で、彼の母校である。
『翁草』(拙著)芭蕉生誕の地伊賀上野へ
 伊賀上野の観光案内はほどほどにして、芭蕉に戻る。生地の近くに松尾家の菩提寺がある。真言宗の寺だが愛染院の名で知られている。ここに、芭蕉の遺髪を納めたとされる故郷塚がある。芭蕉の遺体が埋葬されたのは、近江の膳所にある義仲寺である。芭蕉の遺言でそうなったのだが、芭蕉の兄や、郷里の門人達は、せめて遺髪だけでも菩提寺に納めたかったのである。火葬であれば、分骨することもできたのであろうが。寺を訪ねた時は、夕刻で、曇った日でもあり塚のあたりは薄暗くなっていた。
 故郷塚 小ぶりの梅の 花の色
塚の周囲の花木は、良く手入れされ、塚の前に植えられている梅の木も、庭師の鋏が入っている。丹精に剪定された小枝に梅の花が慎ましく、薄桃色の花をつけていた。
 芭蕉は、故郷を捨てたわけでもない。
 古里や 臍の緒に泣く 年の暮れ
 と父母の慈愛に感謝し、帰郷のたびに墓参もしていたであろう。父母の近くに埋葬されていてもおかしくはない。
 芭蕉の最初の紀行文集は『野ざらし紀行』である。野ざらしとは、無縁仏になるということである。そこまで覚悟して、旅に俳句の道を求めた芭蕉からすれば、生まれ故郷に骨を埋めることは、それほど重要な問題ではなかったのであろう。
 野ざらしを 心に風のしむ身かな
江戸の深川の草庵から東海道に沿って、一年前になくなった母親の墓参を兼ねた旅だったが、名句が旅の途上に生まれている。この時、芭蕉は四十二歳で、現代では六十歳を超えた初老の人の心境であったかもしれない。ただ、「野ざらし」という題名は、すこし仰々しく悲壮感が漂い過ぎているとも言える。
 『奥の細道』では、門人の曾良が同行しているし、『野ざらし紀行』では、門人の千里を伴っているのである。そして、旅の途中では、門人やゆかりのある人に会っているのである。いわゆる、種田山頭火のような放浪的な旅ではない。孤独な旅というのは、芭蕉が俳句の道を開拓する意味で孤高ということはあっても、心を通わすことのできる人々が旅の途上にいたことになる。芭蕉は、独身であったが、旅に付き添う門人は妻のような役割をしているとも言える。『奥の細道』などは、旅の計画と準備は、実に入念である。
 この道や 行く人もなく秋の暮れ
この句も、真理を求めてやまない求道者の心境として捉えたい。
ふらっと、気分にまかせて旅立つような旅行ではなく、なにかテーマを持って出かける旅をするようにしよう。旅の目的に賛同する同行者がいればそれも良い。一人であっても複数であってもかまわない。ただ、一人旅であれば旅先に、ゆかりの人や、ご無沙汰している人に会うことができることが望ましい。人生を旅に見立てて実践した芭蕉翁に教えられたことである。この先どんな旅を思い立つか知らないが、まだ見ぬ縁ある人との出会いも楽しみである。


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