☆☆☆荻原悦雄のフェイスブックはこちらをクリック。旅行記、書評を書き綴っています。☆☆☆

2013年09月13日

『翁草』(拙著)ゴッホ鑑賞

ゴッホ鑑賞
 『翁草』(拙著)ゴッホ鑑賞
 ゴッホ展が、東京の北の丸公園にある国立近代美術館で開催された。四月最後の日曜日、大変な人出である。入場券を買ってから入場するまでに、一時間はかかった。日本人には、ゴッホの絵が好きな人が多いような気がする。東京の展示の後には、大阪でも開催される予定になっている。
「わだばゴッホになる」
という版画家棟方志功の言葉は有名である。志功は、ゴッホの絵のどこに心を惹かれたのであろうか。
 絵画を評論することは難しい。芸術とは何かを語るのは増して困難なことである。しかし、印象を書いてみる程度のことは、素人にも許されるだろう。ゴッホが、どのような人生を送ったかを我々は知っているが、強烈な印象を与えるのは、直に見る彼の絵そのものである。とりわけ、晩年の筆使いと、色使いが独得である
 天才画家、狂気の画家、孤高の画家などと呼ばれる、フィンセント・ファン・ゴッホは、一八五三年にオランダに生まれた。父親も、祖父も牧師であり、宗教色の強い家庭に育っている。事実、伝道者の道を目指し、貧しい人々の暮らす場所に伝道活動したこともあった。初期の絵には、労働者や農民を描いたものがある。「じゃがいもを食べる人達」は、今日良く知られた作品である。色調は暗く、晩年の色彩はない。しかし、この作品は、彼が三十二歳の頃の作品で、亡くなる五年前に描かれている。
 『翁草』(拙著)ゴッホ鑑賞

ゴッホが、本格的に絵を書き始めたのは、二十七歳の頃で、しかも独学に近かった。わずか、十年間に、というよりは、ゴッホの絵として評価が高い作品は、死の二、三年間前に集中して描かれている。
ゴッホの絵として断然好きな絵が三点ある。「沈む太陽と種をまく人」と「ラングロアのはね橋」そして、「収穫の景観」である。死の直前の「カラスのいる小麦畑」とは対象的に明るく健康な絵に見える。見えると言ったのは、ゴッホの精神の中には苦悩するものが常にあったと思うからである。
小学生の高学年だった頃に、教科書だったと思うがゴッホのこれらの絵に触れ、強烈な印象を受けたことを今も覚えている。私事になるが、幼稚園の頃から絵が好きで、船の絵などを描いては、先生に褒められ、親戚の人には父親が家に飾って、息子の絵を自慢していたこともあった。
 『翁草』(拙著)ゴッホ鑑賞
 塗り絵などは、色の選び方が良かったのか、いつも花丸印がついた。小学校低学年までは、金賞、銀賞の札を貼ってもらうことが多く、図工の時間は実に楽しい時間であった。それが、水彩で書くようになって、いっぺんに絵が駄目になった。それからというもの、絵は描くものではなく見るものとなった。
小学校低学年までは、クレヨンで書いていた。色を混ぜるということはほとんどなく、原色に近い組み合わせで描いていたのであろう。スケッチの力などより、色の使い方が人より優っていたから年齢的なこともあって評価されたというくらいに過ぎない。絵は残っていないが、南フランスのアルルで描いたゴッホの絵のように、色彩が明るかったと思う。
 『翁草』(拙著)ゴッホ鑑賞
 赤と緑、青とオレンジ、紫と黄色。この色の組み合わせがゴッホの色彩の秘密である。つまりは、補色の関係を生かし色彩を鮮やかにしている。とりわけ、ゴッホは、黄色が好きだったのか、黄色をふんだんに使っている。バブル経済が弾ける前に、日本の企業の社長が、五十億円ほどの大金で買った「ひまわり」は東郷青児美術館所蔵となっているが、黄色がおもいっきり使われている。ゴーギャンとひとときの共同生活をした家は「黄色い家」という画題の絵として残っている。今回のゴッホ展のチラシの絵に使われた絵は「夜のカフェテラス」だが、黄色の灯りの中に人が描かれ、意図的に樹木が加えられ、その緑が和やかさもたらしている。また、ひとつゴッホの好きな絵ができた。
『翁草』(拙著)ゴッホ鑑賞
 ゴッホの生まれたオランダは、日本が鎖国政策をとった江戸時代にあって、長崎の出島という狭い窓口ではあったが、通商を行った国でもあった。商業国家として独立し、富を築いた十七世紀はオランダの絵画が花開いたときでもある。「夜警」などの作品で知られるレンブラント、「ミルクを注ぐ女」を描いたフェルメールなどが代表的な画家である。それ以前、ネーデルランド地方に生まれたリュウベンスも加えるとオランダの絵画の伝統は深いものがある。
ゴッホは、日本の浮世絵に大きな影響を受けている。安藤広重の浮世絵が当日ゴッホ展に展示されていた。「花魁」の絵は、模写したのではなくトレースしたものである。
どんより曇った日の多いオランダとは、対象的に太陽が降り注ぐ南仏アルル行きを決めたのは、未知の国である日本への憧れがあったと言われている。ゴッホの書簡に日本観が次のように書かれている。
「日本の芸術を研究すると、紛れもなく達観していて、知性の優れた人物に出会う。(中略)かくも単純で、あたかも己自身が花であるかのごとく自然に生きる、これらの日本人が我々に教えてくれることこそ、もうほとんど宗教ではあるまいか」
これほどの洞察力がゴッホにはあったのである。ゴッホが尊敬してやまなかったミレーは、「落穂拾い」や「晩鐘」などの作品で日本の人々に愛されているが、ゴッホもミレーの絵の模写は多い。ミレーの絵からは、敬虔なクリスチャンの祈りのようなものを感じるが、近代西洋美術では、自然主義ないし写実主義の作家に分類されている。トロワイヨンという画家もそうした作家の一人であるが、今日あまり知られてはいない。牛の絵を多く画材にしている。
絵画に大変詳しい、春雨会(故数学者岡潔先生にご縁のあった人々の集い)で親しくしていただいている方から、このトロワイヨンの解説書(自書)を謹呈されたことがある。その本によると、この画家は、日本人より日本人らしい人だということである。それは、ゴッホが指摘した内容に似ている。
自分は自分という名の自分
他人は他人という名の自分
自然は自然という名の自分
数学者、岡潔は、日本人の本来の考え方、心のありかたをこのように定義している。
つまり、自然と人が対立しない。自然との共生というよりは、同化ということに近い。近代、欧米社会では、自然科学が発展した。その背景には、哲学者デカルトの思想のように、西洋的自我思想がある。自然と人とは対立し、自然は人間が支配するものだという考え方である。
ゴッホという人は、自我が強い人のように見えるが、自然と闘うことに疲れてしまった人のように思えるのである。別な言い方をすれば、近代の西洋社会には住みづらい心性の持ち主だったのかも知れない。
ゴッホの死は、ピストルで胸を打ったためであるが、即死ではなかった。苦しんでいるところを発見され、医師の治療を受け、パイプを燻らすこともできた。ゴーギャンとの関係の中で耳たぶを切ったこともあったが、本当に死のうとしたのかはわからない。どのような苦しみがあったかは想像もつかないが、ゴッホの心を理解する人を求めていたのかもしれない。自閉的な子供が、言葉では表現はできないが、親を驚かすような行為をすることがある。
 『翁草』(拙著)ゴッホ鑑賞
 糸杉や、星空が渦巻くように描かれている「星月夜」は、ゴッホの晩年、死に至る異常な心理状態が反映されていると見る人が多いが、糸杉はキリスト教会の天に高くのびた尖塔のように見えるし、夜空の印象は、大いなるもの、あるいは神への畏敬のような感じを持つ。色のついた夢を見ることがあるが、過去にこんな風景の夢を見たような気もする。もしかしたら、ゴッホの絵を見たことに起因しているかもしれないが。
ともあれ、自分の生を自分で絶つことはない。神取り去り給う。いつかは死が来るのだから。ドラクロアの宗教画を模写していたゴッホであるから、なおさらその死に切なさを感じさせる。


同じカテゴリー(日常・雑感)の記事画像
俳人村上鬼城
『高浜虚子句集』より(浮葉)
俳句自選(金木犀)
俳句自選(秋明菊)
「近代の秀句」水原秋櫻子より(鮠)
俳句自選(百日紅)
同じカテゴリー(日常・雑感)の記事
 閑話休題⑥ (2023-10-07 19:10)
 閑話休題⑤ (2023-10-06 10:22)
 閑話休題④ (2023-10-05 11:46)
 閑話休題③ (2023-10-04 11:38)
 閑話休題② (2023-10-03 18:25)
 閑話休題① (2023-10-02 16:35)

Posted by okina-ogi at 12:07│Comments(0)日常・雑感
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
『翁草』(拙著)ゴッホ鑑賞
    コメント(0)