☆☆☆荻原悦雄のフェイスブックはこちらをクリック。旅行記、書評を書き綴っています。☆☆☆

2013年09月16日

『翁草』(拙著)ブルーノ・タウトの残照

ブルーノ・タウトの残照
 『翁草』(拙著)ブルーノ・タウトの残照
 高崎駅前に近い、財団法人高崎哲学堂で九十五歳に近い老人の講演を聴いた。老人の名前は、水原(みはら)徳言という。建築家であり、デザイナー、工芸家であり、随筆家でもある多才な人物で、群馬の文化人の長老的存在である。水原さんは、今日にあって、世界的建築家であったブルーノ・タウトの肉声を知る数少ない一人である。タウトのデザインをもとに工芸作品を作った人と考えれば、水原さんは生前のタウトを語れる唯一の人物といっても良い。
 高崎哲学堂の建物は、群馬交響楽団の創設や群馬県立美術館、群馬音楽センターの建設に尽力した井上房一郎の私邸であった。アメリカの建築家レーモンドの設計であり、木造ではあるが、築五十年を超え、文化財的な建物になっている。レーモンドは、帝国ホテルを設計した建築家ライトのもとで仕事をしたことがある。群馬音楽センターは、レーモンドの設計である。
 市街地の一等地にあるとは思えない哲学堂の庭は広く、緑も豊かである。講演の場所に選ばれた居間には三十人近い聴衆が椅子に腰掛けることができる。司会者が、マイクを水原さんに勧めると
「こういう道具は煩わしいから要りません」
と断る。肉声で充分聞こえるほどの広さである。高崎哲学堂を「市民の寺子屋」と創設者の井上房一郎が呼んだが、まさにそのとおりの空間なのである。群馬音楽センターの一階玄関の正面の展示室にレーモンドが設計した哲学堂の模型があるが、今の哲学堂の建物のほうがふさわしくも思える。哲学堂は学びの継続に意義があるので、別に堂の建築が究極の目標にあったわけではないだろう。天国の井上は、自分の家が哲学堂になろうとは思ってもみなかっただろうと思う。
 水原さんは、テーブルを前に終始腰掛けて、司会者から質問に応えるかたちで、七十年前の記憶を語ってくれた。講演というよりは、語りという感じになったが、その内容は実に貴重なものばかりであった。
 ブルーノ・タウトはもちろん、タウトが日本に滞在した折のゆかりの人々の思い出が次々と語られた。上野伊三郎、久米権九郎、吉田鉄郎といった当時の一流の建築家や、タウトを桂離宮に案内の労をとった京都の大丸の社長であった下村正太郎等々である。
鈴木久雄著『ブルーノ・タウトへの旅』新潮社に詳しく書かれているが、それは主に水原さんの証言によるもので、そのことを直に聞いたことになる。
 ブルーノ・タウトは、桂離宮や伊勢神宮を世界的奇跡と称えるなど、日本の美の再発見者として知られているが、少しここで紹介することにしたい。
 『翁草』(拙著)ブルーノ・タウトの残照
 ブルーノ・タウト(一八八〇~一九三八)はドイツの建築家である。出生の地は、哲学者カントの生まれたケーニヒスベルクである。現在では、ロシア領になっている。第一次大戦後の建築家としての業績は、よく知られるところとなり、日本でもドイツ表現派の巨匠と呼ばれていた。来日したのは、昭和八年の五月で、シベリア鉄道を経て、敦賀の港から日本の土を踏んだのである。「日本インターナショナル建築会」の招きによる来日ということであったが、当時台頭していたナチスから思想的に危険人物とされていたため亡命に近いものだったと言われている。タウトの目に日本の風景はよほど美しく映ったということが彼の日記に書かれている。昭和十一年の十月に日本を離れるが、約三年半の間に精力的に芸術活動を行い、その作品と著作を残した。生活の拠点にしたのが、高崎市の少林山達磨寺境内にある洗心亭という小さな建物であった。禅や芭蕉の俳句に関心をもっていたタウトはこの眺望の良い洗心亭を大変気に入っていたという。住まいを提供したのが、井上房一郎であった。彼は、工芸作品の製作にタウトの協力を求めたのである。若き水原徳言氏は、井上の下で働いていたのである。タウトはこの青年に親しみと信頼を感じていた。水原徳言氏が日本におけるタウトの弟子といわれる所以である。
 この日、水原さんには、タウトについて多くを語らなかったような印象が残っている。しかし、タウトは、自分の考えを曲げるようなことのない個性的な人物であったが、仕事には誠実であったということが伝わってきた。
「上野(伊三郎)さんも、井上(房一郎)さんもタウトも皆考えが違い譲らない。その間で苦労したのは私ですよ」
会場に笑いが生まれたが真実であろう。
 水原さんの言葉で耳に残った言葉がある。
「タウトはナチに狙われた人だが、ユダヤ人ではありません。当時特高というのがいまして、タウト周辺の人物を尾行していたんです。タウトはそんなこと気にかけていませんでしたが、当時は誠に嫌な時代でした。そういう背景をわからないで私の話を聞いても何もわかりませんよ」
戦前、治安維持法という国家主義的な思想統制の悪法があった。特に共産主義者は、国家転覆者と見なされていた。水原さんのような芸術家も、危険思想と見られたこともあったらしい。唐沢俊樹という人は戦後法務大臣になったが、当事特高の親玉のような内務省で警保局長の地位にあった。しかし、唐沢は井上房一郎の義兄であり、久米権九郎や東急の五島慶太とも親しい間柄であったというのは皮肉な関係である。久米権九郎の父親は群馬県沼田藩士で、皇居の二重橋を設計した建築家である。
『翁草』(拙著)ブルーノ・タウトの残照
 タウトが過ごした日本の時代背景は、タウトが嫌った母国ドイツ同様のファシズムが社会を覆っていたのは事実である。建築家であるタウトが日本で関わった唯一の作品といわれているのが熱海にある日向別邸である。といっても庭園を造るために造られたコンクリート構造の地下室を改造したものである。この壁は赤紫色に染められた絹地が貼られているが、タウトの指示で水原さんが職人と仕上げたものである。
「日向(利兵衛)さんという人は台湾の製糖業で財を成した人で本来が仕事に甘い人だったんですね」
水原さんのユーモアであるが、予算のことはタウトにまかせていたらしい。高齢であることも忘れさせる三時間近い語りに驚かされたが、タウトの残照を垣間見たような気がした。


同じカテゴリー(日常・雑感)の記事画像
俳句自選(金木犀)
俳句自選(秋明菊)
「近代の秀句」水原秋櫻子より(鮠)
俳句自選(百日紅)
俳句自薦(蜻蛉)
俳句自選(夏木立)
同じカテゴリー(日常・雑感)の記事
 俳句自選(金木犀) (2019-09-29 11:25)
 俳句自選(秋明菊) (2019-09-26 09:10)
 「近代の秀句」水原秋櫻子より(鮠) (2019-09-08 15:09)
 俳句自選(百日紅) (2019-09-02 14:32)
 俳句自薦(蜻蛉) (2019-09-01 18:06)
 年賀の俳句 (2019-08-19 08:24)

上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
『翁草』(拙著)ブルーノ・タウトの残照
    コメント(0)