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2013年09月19日

『翁草』(拙著)百年後の五浦

百年後の五浦
 
 五浦は、いづらと読むのであるが、福島県との県境に近い太平洋に面する海岸地帯である。現在、茨城県北茨城市になっている。明治三十九年頃、五浦に美術研究の拠点を置き、世界に日本の美術、さらには文化、東洋思想の深さを発信した人物がいる。岡倉天心(一八六二―一九一三)である。明治期に、日本人が英語によって日本あるいは、東洋の文化、思想を書物にしたものでは、内村鑑三の『代表的日本人』、新渡戸稲造の『武士道』が有名だが、岡倉天心の『茶の本』もひけをとるものではない。さらに彼には、『東洋の理想』や『日本の目覚め』などの英文の名著がある。
 平成十八年は、岡倉天心が、横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山ら、愛弟子とも言える人物達とこの地に居を構え、創作活動を開始した時から数えて、百年になる。表題は、その意味である。今日の五浦海岸には、横山大観邸のあった場所に、大きな観光ホテルが建ち、景観はかなり変わっているが、天心が思索し読書するために建てられた六角堂や、天心の住まいは保存されていて往時を偲ぶことができる。管理は、茨城大学にまかされ、「茨城大学五浦美術文化研究所」となっている。
 訪ねた日は、七月の雨が降っていた。海岸に下りていく道脇の苔がりっぱであった。途中、ウォーナー(一八八一―一九五六)の像があった。像は、堂の中にあり、雨を凌いでいる。手前に一本、山百合が見事に咲いて、その香りを周囲に漂わせていた。我々日本人は、彼に感謝しなければならない。史実は確かではないが、彼が太平洋戦争中に米政府に提出した日本の重要文化財のリストが、奈良、京都を空襲から救ったとされているからである。ウォーナーはハーヴァード大学卒業後来日して、五浦で岡倉天心に師事した人物である。
 
 さほど大きな建物ではないが、天心記念館がある。入ってすぐ目に付くのが、「岡倉天心先生像」で作者は平櫛田中(一八七二―一九七九)である。ブロンズに金箔が貼られている。顔は確かに岡倉天心であるが、仏像のイメージがある。平櫛は、岡倉天心を終生師と仰ぎ、この像の前で礼拝することを欠かさなかったという。本体は、東京美術学校にあり、上半身だけの像として昭和六年に寄贈されたものである。館内には、彼の作品として「五浦釣人」も置かれている。晩年の岡倉天心は、自ら龍王丸という小船を設計し作って釣りを楽しんだ。〝晴釣雨読〟の生活であり、浦島太郎を連想させるような独得の衣装に身を包んだ天心が右手に釣り竿を持ち、左手に魚を掬い上げる小網を下げている。釣り竿と網は彫刻ではない。一九六二年の作とあるので、作者九十歳の時のものである。平櫛田中(ひらぐしでんちゅう)は、一〇七歳まで現役で活躍した長寿の芸術家である。本名は、田中で、名字を雅号にした。
 岡倉天心は、比較的多くの写真を残している。彫刻家、平櫛田中が天心の像を創作するのにも参考にできたはずである。写真から受ける印象は、厳めしさがある。微笑んだり、にこやかな顔をしたものがない。さらに、洋服姿のものがない。何とも奇怪な人物に見える。二十七歳で東京美術学校の校長に就任したときの服装と乗馬姿は、説明がなければまさに異様というしかない。天心記念館のパンフレットには、奈良時代の官僚の服装を参考にして天心が創案したものだと書かれている。
 岡倉天心とはいったいどのような人物なのであろうか。その人生を足早に辿ってみることにする。天心の本名は覚三(幼名は覚蔵または角蔵)で、横浜に生れた。父親は福井藩士であったが、藩命により生糸貿易を営んでいた。そのためか、天心は七歳頃から英語を学んでいる。この頃、母親とは死別している。学問に目覚めたのは早かったが、母親からの愛情を受ける時間は短かった。十三歳の時に東京開成学校(のちの東京帝国大学)に入学し、十八歳で卒業し、文部省の官僚となった。十七歳のときに妻を娶っている。学生結婚である。
 東京帝国大学の外国人教師フェノロサとの運命的出会いは、天心にとって一生の方向を決めたと言ってよい。文部省入省後、奈良、京都の古社寺を調査し、とりわけ法隆寺の夢殿に秘仏とされた救世観音像の発見は今日よく知られるところである。この調査により、維新後の廃仏毀釈の中で失われそうになった文化財を保護することになったのである。帝国博物館の建設にもつながり、美術学校の創立にもつながり天心がその中で若くして枢要な立場を担うことになったきっかけになったのである。
 三十五歳の時、美術学校の校長職を辞任する。直接の引き金になったのは、天心の上司であった九鬼隆一の更迭であった。彼は後に哲学者になって『いきの構造』を著わした九鬼周造の父親である。天心は、帝国博物館の理事も辞め、翌年には日本美術院を創立し野に下った。
 そして、活動の場を茨城県の五浦に移し、日本画の復興、向上を横山大観ら才能豊な画家とともに計ったのである。横山大観の作品の中に「屈原」があるが、屈原の風貌は師の岡倉天心に似ている。楚の国の重臣であった屈原は、同僚の讒言によって追放され、後に楚の国が敵の手におちたのを聞いて悲憤のあまり泪羅(べきら)の河に身を投げたと伝えられている。文部行政の中枢から去った岡倉天心と屈原が、横山大観の目には重なって見えたのである。
 世界の美術作品、とりわけ東洋の美術への見識の深さが評価され、しかも、英語がよくできる天心はボストン美術館の中国・日本美術部を任され、四十八歳の時には部長になっている。四〇代からは、日本とアメリカを半年づつ過ごすような生活を送り、大正二年、五十一歳で亡くなっている。
 
岡倉天心は、海外に美術品や、文化、思想、宗教の史蹟を調査する長期にわたる旅を三回している。最初は、明治十九年二十四歳の時で旅先は、ヨーロッパである。同行したのがフェノロサである。二回目は、三十一歳の時中国大陸に渡っている。インフラの整備されていない時代、しかも日清戦争開戦の前の年である。体調を崩しながらの苦難の旅だったらしい。最後が、インドへの仏跡巡りである。この三回の海外見聞の中で、西洋と東洋を比較しつつ、東洋文化の素晴らしさを確信するに至り、その文化を蓄積発展させた日本文化の見直しを行なったのが『東洋の理想』であり『茶の本』だったのである。
 彼の人生を鳥瞰してみると、実によく学び実践し、個性的に生きているのを感じる。時に煽動者のようであり、奇抜な企画をするプロデューサーであり、官僚には所詮おさまらなかった体質の人のように思える。「アジアは、一つである」という『東洋の理想』の冒頭の言葉が一人歩きをし、太平洋戦争中には、軍国主義者や、国粋主義者に利用されたことがあったが、天心の心の故郷がインドにあったと指摘する人がいる。東洋の思想に惹かれた天心は、儒教よりは、老荘思想に、さらに増して仏教の思想に引きつけられた。その中でアドヴァイタ「不二一元」という言葉に魅せられている。
「存在するものはすべて、外見は多様であるけれども、本当のところは一つである」
 フェノロサが最初の運命的な出会いの人物であるとすれば、インドで出会ったヴィヴェカーナンダという人物は天心の思想の核心に住み続けることになった。天心に先立ち三十九歳で亡くなった宗教家である。
「世界最大の偉人は人に知られず過ぎ去って行った。われわれがよく知っている仏陀やキリストなどは、かの世間が何も知らない最大の偉人にくらべたなら、二流に過ぎない。(中略)最高の人間は物静かで、黙っており、人に知られない。彼らは思想の力を本当に知っている人間である」
 天心は語れる人間であり、思想も活字に表せるし、官僚となって現世の力で行動を形に残すことができる人だった。しかし、彼の母は、何ができたというのであろう。インドの多くの人々は貧しさや階級性の中に苦しみながら黙って生きてきた。けれども、釈迦のような慈悲の心を持つ人々が数多く生れる国である。自分の心の故郷は、母であり、インドであると。晩年の天心の心はインドに飛翔している。日本の高僧の多くが中国で仏教を学んだが、直接インドに行って学ぼうとした人はいなかった。実現はしなかったが、本気でインド行きを思い立った僧が鎌倉初期にいた。明恵上人である。生い立ちが岡倉天心に似ているところもある。京都の栂尾にある高山寺は、上人のゆかりの寺である。近い将来の京都に出かけた折には訪ねてみよう。天心ならず、仏様のお導きということにしておきたい。
 
 五浦の近くに勿来の関跡がある。歌心のある人は、一度は訪ねたい場所である。立派な松の木があって、石段の山道の傍らに多くの歌碑が並んでいる。それは、それで風情があるのだが、源義家の騎馬像は、よろしくない。 
吹く風をなこその関と思へども
       みちもせに散る山桜かな
があまりにも有名なために観光に一役かって欲しいということなのであろうが。源義家(一〇三九―一一〇六)は、八幡太郎義家として知られ、鎌倉幕府を開いた源頼朝や、足利幕府を開いた足利尊氏の始祖として歴史に名が残っている。勿来の関以北に勢力を持つ安部氏や清原氏と戦った武士であるが、この歌は、後三年の役の時に詠われたと伝えられている。
 勿来とは「来るなかれ」という意味である。人の心を分かつ歌枕として歌に詠まれている。奈良朝以来、坂上田村麻呂を征夷大将軍として東北支配を大和政府は進めてきた。平安時代の東北地方の歴史は、あまり陽があたっていないような気がする。当時、東北は蝦夷地であったとも言われている。蝦夷という言葉も民族的な差別用語に聞こえてくる。「来るなかれ」というのは、先住民族だった人々の願いであったに違いない。岡倉天心の『東洋の理想』の中に
 「旭日の帝国を建設せんがために先住のアイヌ人を蝦夷や千島に駆逐した大和民族」という表現がある。これでは、国粋主義者と言われかねない。ただ彼を弁護するとすれば、明治という時代の気分と、史実を語ったまでということである。


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