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2013年09月20日

『翁草』(拙著)近江湖東と最澄のこと

近江湖東と最澄のこと
 行く春を 近江の人と 惜しみけり
俳人、松尾芭蕉の句に誘われて、琵琶湖の東、東海道本線の沿線の土地を訪ねることにした。先年、彦根城を見ているので、通り過ぎ、安土駅で下車。織田信長が築いた、安土城の址を一度は見ておきたいと思ったからである。四月一日であったが、桜は蕾で開花までには至っていない。東京は既に花の見所になっているが、緯度からすれば、それほど変わりはない。西へ行くと、何か南に下っているような錯覚がある。
 
 安土城は、小高い山の上に築かれた。琵琶湖に突き出す半島のようになっていて、建築当時は、眼下に湖面が広がっていた。四〇〇年以上時を経て、周辺は干拓され、湖は後退してしまっている。昭和になって大規模な干拓が行われたのだが、関西の水瓶とされる琵琶湖の人工的縮小は、害あって益なしと言えるかもしれない。
 安土城は焼失してないが、安土駅に近い城郭記念館や、県立安土城考古博物館に隣接した「信長の館」で模型と原寸大に復原された上層階(五階・六階)部分を見ることができる。天上画や狩野永徳の壁画などが描かれ、柱は朱塗り、軒などに金箔が貼られている。居城の一部というよりは、仏像を安置するようなお御堂のようにも見える。建物全てが芸術作品であり、それも権威の象徴のように威高しい。天下人としてここに坐るのが信長であることを考えると、人としては傲慢に思える。
 古い体制を打破しようと、比叡山を焼き討ちしたり、本願寺信徒と戦った仏教嫌いの信長を象徴する痕跡を安土城の天主閣跡に登る石段に見ることができる。石段の一部に仏を刻んだ石仏を使用しているのである。仏教徒が信仰の対象とした石仏を足で踏みつけてもかまわないとした信長の思想が現われている。石段はかなりの急勾配であり、登り始めると左右に伝羽柴秀吉邸宅跡、伝前田利家邸宅跡があり、さらに登ったところには、息子達の館跡が残っている。天主閣跡の下にはかなり広い敷地があり、この場所は天皇を迎える御所のような広い屋敷があったというのである。
 
 信長以降、天主閣は天守閣であり、天の主(あるじ)と天を守るとでは響きが違う。自分自身を神としたかは別に、何か強烈な自我を感じる。ただ、天主は、キリスト教の神の意味もあり、信長はザビエルの布教以後、日本に播かれたキリスト教への理解者であった。信者になったわけではないが、教理に肌が合った。
フロイス神父やロレンソの布教活動を庇護し、京都に教会にあたる南蛮寺の建築を許し、安土城下にセミナリヨの造らせている。セミナリヨ跡には行けなかったが、安土城に次ぐ大きな建物であったらしい。長崎で受難し、二六聖人の一人となったパウロ三木もこのセミナリヨで学んだのである。このセミナリヨへ予告なしに信長が訪問したことがあるらしい。目的は、建物が清潔に使われているかを確かめることにあった。〝うつけ〟と言われる時代の荒ぶれた姿と対照的に、綺麗好きの人だったことに新鮮な印象を持った。

 このセミナリヨの建設を信長に懇願したのは、オルガンチノ神父であった。彼は、キリシタン大名であった、高山右近の協力もあって、武士階級の子弟を生徒とすることができた。高山右近は、信長配下の武将であり、信長のキリスト教への理解がなければ実現できなかったであろう。また、伊東マンショや中浦ジュリアンなどの天正少年使節を道案内したヴァリニャーの神父には安土城や安土城下の描かれた屏風を贈っている。今日当時の様子を残す貴重な資料になっている。
安土城が本能寺の変の後、焼失してしまったことを考えれば、この贈呈がなければ城と同じ運命になっていた。城や、城下が燃えたのは、明智光秀軍の行為ではない。信長の次男である信雄が放火させたのだという。父親のような天下取りの気概は持ち合わせていなかった。天下は、信長の子供達には行かず秀吉に移るのである。

尾張から勢力を拡大した信長が安土という琵琶湖湖畔に城を構えたのは、有名な楽市楽座と関係がある。農民が納める米よりも商業がもたらす富に目をつけた人物であり、農民を兼ねた武士ではなく、職業軍人としての武士を雇用した人物である。そのためにはお金が必要であり、その資金があればいつの時期でも軍事行動が起こせるのである。
近江湖東には、近江商人で知られる街が点在している。そのうちのひとつ、安土駅から京都方面に向って一駅行ったところが近江八幡市である。秀吉の甥で後に関白になったが、秀頼の誕生で非業の死を遂げた秀次が整備した城下町である。城が廃止されてからも商人の町として栄え今日に至っている。今回、近江を訪ねたのは、信長のことよりも、近江商人に関心があったからである。童門冬二の『近江商人魂』の影響が強い。
この小説の主人公は、信長を岳父に持った蒲生氏郷と西野仁右衛門であるが、蒲生氏郷の出身地が日野であり、日野商人と呼ばれる近江商人は、蒲生氏郷とともに松坂、会津と移り政商としての商売を展開するのである。蒲生氏郷は天下を取れるほどの器量があったが、長寿でなかったことと、大藩であったが、秀吉に警戒されて都から遠い会津の地に領地を与えられ、しかも伊達政宗の覇権の防ぎ手としての役割もまかされ、天下人にはなれなかった。彼の死後は、城下の日野商人の商いの勢いも衰えてしまう。
一方、西野仁右衛門は架空の人物であるが、近江八幡の人として描かれている。その商法は、天秤棒に商品を担いでの行商である。商品は、蚊帳と畳表であった。遠方の地まで出かけ信用を得て品物を売り、帰路はその地の物産を仕入れ、郷里で売る。儲けが二倍ということではないが、無駄がない。これをノコギリ商いとか、持下り商いと呼び、近江商人の原点になっている。最初はまめに足で稼いだのである。西野も子供が成長するにしたがい、近江商人の魂と経験を教え遠地に支店を持ち拠点を増やし、丁稚と言われる職員を雇用して商売を拡大するが、無理な拡大路線はとらなかった。
 
 近江商人の家訓として知られている言葉で「三方よし」というのがある。三方とは、売り手はもちろん、買い手に加えて「世間がよし」でなければならないというのである。遠方の地で商売するのであるから、信用が第一になるし、良いものを安く仕入れて、相手が欲しがっていれば、相場が近い将来高くなることを知っていても、売り惜しみをしなかった。売り手が少し損をした気持になる程度の商いが良い商売だというのである。このほうが、商売は長続きするという代々の経験からの家訓になっているのである。「世間がよし」を近江商人が実践したひとつに、地元に災害があった時の多額の寄付がある。飢饉の時の打ち壊しによる被害を受けた商人も江戸期には多かったが、普段の商売と、地元への儲けの還元が近江商人を敵視することにはならなかった。
近江地方は蓮如などによって、浄土真宗などが広まり、信仰に厚い人びとが多いことも近江商人の出現と無関係ではないようである。「金持ちの電灯は暗い」と言う言葉があるが、質素倹約も近江商人の特徴である。「お蔭様」という気持ちも近江の人には強く意識されている。最近、ライブドアの事件があったが、あまりにも対照的である。経済発展は確かに必要であるが、儲け方の哲学がなければいけない。急激な経済成長の裏に無理があったりすれば、衰退も早いということになる。
近江商人の町の一つである、五個荘の金堂地区の外村家、戦前海外に百貨店王として事業展開した中江家の商人屋敷を含めた町並みが保存地区になっていることが示しているように、商売の永続が近江商人の特徴である。湖東町の豪商小林吟右衛門の興した「丁 吟」に奉公し財を成した貧農の子薩摩治兵衛の三代目薩摩治郎八のように、フランスでパトロンとして生き、事業は倒産し無一文になって帰国した人物は例外である。日本の留学生の住まいとして提供されたパリ日本館も目薩摩治郎八が私財を投じたものである。日仏の文化交流に貢献し、惜しみもなく財を使い果たした社会貢献も国際的な「世間よし」ではあるが、閉店となった、薩摩商店の従業員には芸術家店主をリーダーに持ち、職場を失ったことに同情を禁じ得ない。
奈良にある岡潔先生の墓参の往路と帰路の寄り道のような、近江商人紀行となり、充分な見聞はできなかった。近江八幡の近江兄弟社で知られるヴォーリズ記念館も見たかったし、柳や菜の花で美しい水郷めぐりの時間もとれなかった。帰路の五個荘には、能登川駅から、バスで行ったのだが、停車駅も聞かず日吉五個荘という地名が目に入り、商人屋敷のある場所と勘違いし、重い荷物を肩にかけて二キロ以上も歩く羽目になってしまった。中仙道や朝鮮街道、北国街道を天秤棒を担いで行商した、西野仁右衛門のことを考えれば、足元にも及ばない。

最澄のことは、「近江湖東」風景画のキャンバスのようなつもりで書いている。近江の旅から帰り、二週間後の日曜日に、友人と東京国立博物館に「最澄と天台国宝」展を見に行った。最澄が、比叡山の延暦寺に天台宗を開宗してから、一二〇〇年になる。仏像、書画、書跡が延暦寺をはじめ、全国から収集され、展示されている。最澄自身の筆跡も見ることができる。国宝、重要文化財多数。
我が家の菩提寺は、光明寺と言って、天台宗の寺である。清和源氏の流れを汲む里見氏の埋葬された寺で、その末裔に千利休が出ている。伝教大師の像もあり、開基は古い。たまたま、同行した友人の家の菩提寺も天台宗であった。
最澄は、奈良時代から平安時代の始めに生きた人である。生誕地は、現在の滋賀県大津市で「近江の人」ではある。先祖は中国大陸から渡ってきた帰化人の末裔だと言われている。同時代の宗教家で空海がいるが、最澄よりは七歳若い。空海が天才なら、最澄は秀才と呼ぶにふさわしい。一九歳で奈良の東大寺で僧侶の資格を得る。今日では、国家公務員になったと同じだが、僧侶の数は少なく、政治からも重んじられていたので、超エリートとも言える。
しかし、何を思ったか比叡の山に籠ってしまう。腐敗した奈良の仏教に幻滅したのである。孝謙天皇は、女帝であるが、道鏡という僧侶を寵愛し、皇位を譲るというところまで行ったことがあった。これは、和気清麻呂という人物が阻み、道鏡の野心は遂げられなかったのである。最澄は「他人を楽にさせてあげたい」という利他の願いを持つのである。比叡山での修行は十二年間にわたった。
都を平安京に移したのは桓武天皇である。道鏡のような僧たちが政治に深く関与し、その弊害を除くための遷都でもあったが、最澄の考える仏教に深く関心を寄せるのである。後世に伝教大師として名を残す事になったのは、桓武天皇の庇護があったからである。三十八歳の時に、遣唐使船に乗って留学できたのも桓武天皇の後ろ盾があったからである。
最澄は、短期留学生の身分で海を渡った。そして持ち帰ったのが天台宗の教えであった。当時の中国は、唐の時代であったが、天台宗は古臭くなっていて、空海が持ち帰った密教が先端の仏教であった。しかし、最澄は、比叡山での十二年間の思索の中で、天台の思想の中心にある法華経に惹かれていた。聖徳太子も法華経に関心があった。法華経は釈迦が最後に説いたものとされる。平等思想というか、誰にも仏性があり、繰り返し繰り返し善行を重ねれば成仏できるという教えである。大乗仏教であり、小乗仏教よりも戒律に縛られない。
しかしながら、僧の資格を得るためには受戒しなければならない。鑑真が日本に来たのは受戒できる寺と僧を養成することであった。最澄が比叡山に建てた延暦寺が僧の資格を与える寺になることが晩年の悲願であったが、生存中に実現されなかったのである。しかし、最澄には、慈覚大師で知られる円仁などの優秀な弟子が教えを引き継ぎ、比叡山は、南都北嶺といわれるように一大宗教道場となっていくのである。そして、浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元、日蓮宗の日蓮など鎌倉時代に宗派を興した高僧を輩出するのである。
「一隅を照らす人は国の宝である」という最澄の有名な言葉があるが、それは『山家学生式』の中に書かれているのだが、最澄はまた、「よく言いて行うことあたわざるは国の師なり。よく行ないて言うことあたわざるは国の用なり。よく行ないよく言うは国の宝なり」とも加えている。最澄の人物評価がよく出ている。口の上手い人は、行いが伴なわないことがあるが、学者さんになれば良い。口下手ではあるが黙々と仕事のできる人は実務家であるから国の役に立つ。国の宝になるのは有言実行の人であるというのである。
最澄とは、どんな人かと言えば、名前のとおり「最も澄んでいる人」ということになるのだろう。比叡山を焼き討ちした信長でさえ、天台宗の開祖、最澄を敵(かたき)とは考えなかったと思いたい。


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