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2013年09月21日

『翁草』(拙著)鎌倉散策

鎌倉散策
鎌倉駅の一画に、アメリカ人ウォーナーを顕彰した碑がある。日本の文化財、文化都市を戦火から救った人物として知られている。京都、奈良はもちろん、鎌倉は古都であり、第二次世界大戦の中でアメリカ軍の空爆を受けず、そのために、寺社仏閣など貴重な歴史遺産が今日多く存在している。
鎌倉は、源頼朝を中心に、北条氏をはじめとする東国武士団の築いた政権の拠点となった地である。約百五十年間鎌倉幕府は続くが、朝廷は京都にあり、朝廷を監視するために幕府は、京都に六波羅探題を置いた。警察と軍隊を兼ねたような組織である。鎌倉幕府をもって、武家政権の始まりとしているが、幕府創設の頃は、征夷大将軍となった源頼朝に権力はあったが、後白河法皇から後鳥羽上皇に院政が移る中、朝廷の権威は完全に失われていたわけではなかった。
 
 頼朝の死後、頼家は修善寺に幽閉され、刺客によって殺され、弟の実朝は、頼家の子公暁に暗殺される。東国武士団の政権抗争の結果とみることもできるが、源氏による将軍の継承は断絶し、京都の公家から将軍職を迎えることによって幕府は維持され、実権を握ったのが北条氏である。将軍を神輿として担ぎ執権となったのである。朝廷にあっては、天皇と上皇の二重権威があり、幕府にあっては将軍と執権の二重権力という極めて複雑な政治体制になった。
鎌倉幕府が名実共に確立されたのは、三代執権の北条泰時の時代だと見る史家が多い。後鳥羽上皇は、幕府内の内紛に乗じて、二代執権北条義時の追討の院宣を発したが、幕府崩壊には至らず、悲願は成就せず、上皇は隠岐に配流される。承久の乱である。この時、鎌倉幕府の武士団を結束させたのが頼朝の妻、北条政子であった。政子の演説は、涙ながらに〝頼朝公の恩〟を訴えたとされているが、兄弟である執権の義時すら戦いを躊躇したのは、朝廷への反抗、つまり権威に対する畏れともいって良い。政子は時代の流れが見えていたのか、それとも女性の気というべきものか、彼女の行為が鎌倉政権の礎になったと言える。小泉政権を生むのに一役かった田中真紀子の覇気のようなと言ったら比較が適切ではないかもしれない。
承久の乱の後、政子、義時、という実力者は相次いで亡くなるが、執権となった北条泰時という人物は、識見もあり信仰心もあって鎌倉時代にあって徳政を行なった政治家として歴史に位置づけられている。泰時については、あらためて触れることにしたい。今回の鎌倉散策の訪ね先は、北条政子の子実朝である。そして、〝頼朝公の恩〟の先にあるものを考えてみたかったからである。
鶴岡八幡宮から西へ、JR横須賀線の踏み切りを渡ると寿福寺がある。鎌倉五山の一つの寺に数えられているが、創建は最も古い。寺の後方には、源氏山と呼ばれる小高い山があって緑が深い。この寺の開祖は、我が国に臨済宗を広めた栄西である。政子と実朝の墓がある寺としても知られている。
風さわぐ 源氏の森の 蝉時雨
寿福寺の建てられる前は、源頼朝の父親である源義朝の館があった。義朝は平治の乱で平清盛に破れ、鎌倉に敗走する中、愛知の知多半島で命を落とす。湯船に浸かっている時に騙し撃ちにあったと伝えられている。頼朝が鎌倉に幕府を開いた動機の一つに、この地が父親が居を構えていた場所であったことも無関係ではあるまい。それ以上に鎌倉は前面が海、背後を山に囲まれるという外的の侵入を防ぐのにふさわしい地ではある。
門をくぐると参道が続き、両側から木々が日差しを塞ぐほどに繁っている。突き当たりに本堂らしき建物があるが、入場することはできなかった。屋根のあたりに源氏の家紋が見えた。それも、親切な説明者の老人がいなかったら気づかなかった。
 
 道標があるわけではないが、道が自然と墓地に案内してくれる。この場所で、先ほどの源氏の家紋を教えてくれた老人に墓案内をしてもらったのである。鎌倉の墓地の形として「やぐら」というのがあるが、歴史教科書に出てくる「腹切りやぐら」のやぐらである。新田義貞の鎌倉攻めのために最後の執権となった北条高時が一族六〇〇人とともに死んだと言われる場所である。その場所は写真で見ただけで、寿福寺からは、東に若宮往路を越えた山の麓にある。
政子と実朝のやぐらはそれほど大きいものではないが、大人がそのまま充分に入れる高さがあり、広さも二畳くらいはある。二人のやぐらは隣合わせではないが、極めて近い。薄暗く、石塔もあり、湿気もありそうで陰湿な感じがしたが、老人に催促されて実朝のやぐらの中に入って驚いたのは、天井と側面に唐草模様に彫られ彩色を施された跡があることであった。高貴な人物の墓に違いないと確信したが老人の解説は意外な内容であった。
「このやぐらが本当に実朝のものかはわからない。あくまでそう伝えられているだけで、しかも墓ではなく、供養塔といったほうが正しい。それに政子のものは他にもあって確証はないんです」
 実朝の近くに母親である政子の供養塔があるのは、後世の人の母子への配慮だったのであろうか。北条政子は、尼将軍とも言われ鎌倉幕府にとって存在は大きい。ただ、政治のためとはいえ、頼家、実朝という我が子の非業の死を見なければならなかった母親としての心情はどのようなものであったであろうか。
 
 実朝は歌人としても知られている。藤原定家や『方丈記』の著者である鴨長明との親交もあった。京の文化に親しみを持ち、妻は公家からもらい、武家の棟梁でありながら、その生き様は平安時代の大宮人のようである。作家太宰治の短編小説に『右大臣実朝』があるが、太宰らしい屈折した、しかも諧謔味も加えた知的な読み物になっている。勿論、小説だから太宰の創作なのだが、『吾妻鏡』や『金塊和歌集』を題材としているので、歴史小説のようにも感じられる。ある語り部の回想による物語に仕立てあげているところなどは、井上靖の『本覚坊遺文』を想起させるが、書かれたのは太宰の『右大臣実朝』が前である。ただ、この手法は、太宰が最初に用いたというわけではない。
 太宰の描いた実朝は、まるで彼の分身のように思える。聖徳太子を尊敬する実朝は、政治家としての理想も持ち、英知ある若者ではあるが、蘇我馬子のような第二代執権北条義時という影の権力者の存在があるために道化師のようにふるまっている。仮面をいつもかぶっていて、不思議な微笑みを浮べながら、意味深い、そして風刺するような一言を放つ。酒好きで、いつも宴会などを催し談笑している。太宰と違うのは、女性に対する節度があることであろうか。
 文芸評論家である小林秀雄も、実朝を孤独と悲しみを背負った人物として書いている。
実朝が真に生甲斐を感じていたのは、歌を詠むことであったに違いない。正岡子規などは、『歌よみに与える書』の中で、実朝を賞讃している。子規の人物評は辛辣なことで知られているが
「人の上に立つ人にて文芸技芸に達したらん者は、人間としては下等の地にをるが通例なれども、実朝は例外の人」
であると言い、もう十年も生きていればたくさんの名歌を残してくれただろうと嘆いている。子規も短い自分の人生を予感し、実朝に重ね合わせていたのかもしれない。
 大海の磯もとどろによする波われてくだけてさけて散るかも
 箱根路をわれ越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄るみゆ
などの代表的な実朝の歌は、写生を提唱した子規好みの歌ではある。
 子規の友人であった高浜虚子の墓が、実朝の供養塔に近い場所にある。こちらもやぐらの中にある。虚子は俳人であるが長命であった。子孫も親の跡を継ぎ、俳句の普及に努めた。息子の高浜年尾や星野立子も別の区画に埋葬されている。こちらはやぐらの中ではない。
 寿福寺には鎌倉を愛した文人の墓があって、『銭形平次』の作者野村胡堂や大仏次郎もこの寺に眠っている。親切な墓案内人の老人は、大仏次郎のファンらしく墓石の前で時間をかけて説明をしてくれた。
「墓石を良く見て御覧なさい。欠けたところがあるでしょう。元は崖下近くにあったけれど、崖が崩れたために、位置を変え、今のこの場所に移されたんです。敷石も前の場所に向って並べられているでしょう。そして横にある墓石の名前を見てください。ここに眠っているのがお父さんです。この人もりっぱな人で英文学者です。大仏次郎の本名は野尻と言います」
お礼に墓に並んでいただいて写真をとったが、名前と住所も聞かず自分のアルバムの記念写真になってしまった。

 「一生懸命に働く」というふうに使われる〝一生懸命〟の語源は、「一所懸命」であり、鎌倉時代と強い関わりのある言葉だと何かの本で読んだ記憶がある。農民が耕した土地、それを守る武士等に土地の所有権を保障してくれる政権が鎌倉幕府だというのである。だから人々は、一所で懸命に働くことができたというのである。
 朝廷に刃を向けることになった時、北条政子が頼朝を支えてきた御家人に「頼朝公の恩」と言ったのも父祖伝来の領地の保障のことである。我が国は、稲作が開始されたとする弥生時代より米によって国を支えてきた。奈良時代から平安時代にかけて、土地は国から一部の特権階級の所有する荘園に移り、平安後期には、武士が土地管理に力を持つようになった。農民からすれば、支配者が変わっただけのように見えたが、安心して働けるような環境の中で労働意欲も生まれてきたかもしれない。依然として下層階級のままではあるけれども。
 平安貴族より武士の方が農民の身近に住み、役割分担は異なっても、ともに一つの土地に生きるという意識で繋がったのだろう。支配者であるが、農民の労働条件を配慮した、武士もいただろうと思う。その結果お互いに豊かに過ごすことができたかも知れない。しかし、いかほどにその土地から富が生み出され、また開拓によって新しい土地が生まれたとしても、その所有権が確保されていなければ意味がない。
 荘園領主が寺社や貴族であったりする時、農民にとっては見たことも聞いたこともない存在に感じていたことは容易に想像できる。領主からすれば、農民の労働の汗など想像もしないであろう。こういう人々を〝大宮人〟というのである。農民がいなければ食することができないという最も基本的なことを意識下にして、蹴鞠や歌の雅の世界に興じている。あるいは、政略により地位の保身を図っていたりする。領主が武士になった時、農民に心を配ったかは別にして空間を近くにしたことは大きい。これが、鎌倉時代の表面である。
 
 では裏面は何かと言えば、これも土地の問題とは無関係ではない。禅を世界に広めた鈴木大拙の鋭い考察がある。『日本的霊性』という著書の中に述べられている。少し長いが、本意が伝わると思うのでそのまま抜粋する。
 「一人は米を食べる人、いま一人は米を作る人、食べる人は抽象的になり易く、作る人はいつも具体の事実に即して生きる。霊性は具体の事実にその糧を求めるのである。浄白衣では鍬はもてぬ、衣冠束帯では大地に寝起きするに適せぬ。鍬を持たず大地に寝起きせぬ人たちは、どうしても大地を知るものではない。大地を具体的に認得することができぬ。知っていると口でも言い、心でもそう思っているであろうが、それは抽象的で観念しかない。大地をそれが与えてくれる恵みの果実の上でのみ知っている人々は、まだ大地に親しまぬ人々である。大地に親しむとは大地の苦しみを嘗めることである。ただ鍬の上げ下げでは、大地はその秘密を打ち明けてくれぬ。大地は言挙げせぬが、それに働きかける人が、その誠を尽くし、私心を離れて、みずからも大地になることができると、大地はその人を己がふところに抱き上げてくれる。大地はごまかしを嫌う。農夫の敦厚純朴は実に大地の気を受けているからである。古典の解釈にのみに没頭している人は、大地の恵みと米の味わいとを観念的に知っているだけである。絶対愛の霊性的直覚はかくの如き観念性の下地からは芽生えはせぬ」
 この文章を読んだときすぐに浮かんだ人物が宮沢賢治である。彼は教育者であり、詩人であり、童話作家であり、きわめて多才な人物であったが、農民になって大地に生きた。趣味道楽で癒しを得るために農業をした人と違うのは、農民が本当に豊かになってほしいと願い、苦しみながらも大地を耕すことの喜びを知っていた。
 鈴木大拙は、鎌倉時代に日本的霊性(宗教心)が自覚形成されたと考えている。確かに鎌倉時代になって高名な宗教家が現われている。法然、親鸞、道元、栄西、日蓮等。禅宗に深い洞察を持つ鈴木大拙なら、栄西や道元といった禅宗を日本に広めた流れに視点を置くかと思ったが、意外にも親鸞の布教の中に日本的霊性の自覚を見るのである。それは、親鸞の浄土思想も抜きにはできないが、新潟に流されて以来、二十数年間を東国で暮らし、武士や農民の中で生きた事実を重視したのである。仏教は、農民にも信仰できる宗教になったのである。浄土真宗では、信仰の厚い人を〝妙好人〝と呼ぶ。鈴木大拙は、浄土真宗の盛んな北陸金沢の人であり、哲学者西田幾多郎とは同郷の古くから友人でもある。お互いの思想に影響を与えている。
 現代、食の安全はともかく餓えに苦しむ人はほとんどいない。しかし、いかに生くべきかという精神的な支柱を失い人々は苦しんでいるように見える。働くことの原点、食べるための原点である農について関心を向ければ良いと思うのである。また、政治家、経営者、学者は生産活動の現場を知ることである。地位や肩書きでは人は本来生きられないのだから。実朝の歌人としての資質は素晴らしいが、右大臣などという高貴な肩書きは余分であった。


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