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2013年09月29日

『浜茄子』(拙著)御堂筋界隈

御堂筋界隈
 京都御所に近いブライトンホテルで恩師の大学教授退官を慰労する集いに出席する。この日は、二月十日というのに四月上旬の暖かさであった。恩師とは、同志社大学教授橋本宰先生で専攻は心理学である。今年で七十歳になられ、私学の教授の定年ということである。厚生年金のサラリーマンからみれば、七十歳まで現役であることは、羨ましい。企画したのは、〝橋本ゼミ〟の有志である。
 このゼミから大学院に進み、教授になった人もいるのだが、第一期のゼミ生ということで祝辞を述べることになった。
人はただ情けあれ 朝顔の花の上なる 露の世に   「閑吟集」
この歌は、室町時代のものであるが、先生が還暦を迎えたときに、心にとめた歌であるが、先生の歩まれた半生の生き方そのものだと感じた。橋本先生は、寡黙だが実に誠実な御人柄で、知的な面は前に出さず静寂な優しさを与える方である。新島襄の人格と重ね合わせ、その精神を受け継がれていること、京都を訪問する折、何度も泊めていただいたことへの感謝など祝辞に述べた。他に、同期の友人が出席していて、しばらくぶりの再会に話が咲いた。
 
 翌日は、日曜日なので久しぶりの大阪を散策することにした。芭蕉の終焉の地が御堂筋にある。地図を頼りに探してみるがその場所がわからない、石碑が建っているというのだが、歩道沿いにはない。南御堂の近くというだけで詳しい予備知識もなくうろうろしていると、老婦人が「何してはるの」と言はんばかりに立ち止まってくれたのでその場所を知ることができた。広い御堂筋通りの分離帯にあった。
 旅に病んで夢は枯野をかけめぐる
の句碑が南御堂の境内にあるというので中に入ると、鎌倉様式とはいえ、近代建築の本堂の脇にその碑があった。芭蕉の木もあって石碑は古びている。解説書を見ると、天保十四年(一八四三年)の建立とある。三匹の猫が碑の前を歩いている。黒、白、三毛猫という順に。芭蕉が臨終を迎えたのは、一六九四年の十月、五十一歳であった。大阪にも芭蕉門下はおり、有力者の二人がなかたがえしているというので、その仲裁に訪問したというのだが、旅の途中から体調を崩し、花屋仁左衛門の屋敷で病に伏し亡くなったのである。南御堂では毎年芭蕉忌の法要と句会が開かれるという。
 南御堂は、真宗大谷派の難波別院という別名があるが、今日、親鸞上人に始まる浄土真宗の本山になっている西本願寺や、東本願寺よりも布教の拠点としては古い。南御堂から近い場所に北御堂があるが、浄土真宗本願寺派(西本願寺)の津村別院となっている。ここには、明治時代に第二十二代門主になった大谷光瑞の資料館がある。大谷探検隊を西域に派遣して調査した人物である。受付に申し出ると、一人の僧が二階に案内してくれた。資料室といっても、小さな部屋で資料も少ない。約十分ほどの時間だったが、若い僧からの説明はない。徳富蘇峰との交流があった記事を見て
「徳富蘇峰と門主様が親しくなったというのはどのような経緯からなんでしょうね」
と質問してみると
「良くは知りません」
という返事であった。彼との会話はこれだけである。
こちらの思い込みかも知れないが、大谷光瑞は、西本願寺の財政を揺るがすほどに探検隊に資金をつぎ込み、神戸に二楽荘という豪華な西洋建築の別荘と文化施設を兼ねたような建物を建築し、疑獄事件もあって、三十九歳で門主の座を去っている。貴人には珍しい文化人であったのか、浪費家であったのかはわからない。ただ、今日の西本願寺の信徒からはどのように思われているのかと考えた時、何となく過去の人という印象があった。大谷光瑞については、詳しく知りたいと思った。
南御堂と北御堂が通りに沿ってあるために御堂筋という名前が生れたことを改めて納得した。そして、京都駅前にある東本願寺と西本願寺の関係を整理してみたくなった。当地を訪ねる前までは、西本願寺が信徒の数も多く正統くらいの理解でしかなかった。
 大阪城の敷地内に、石山本願寺があって、織田信長と長い熾烈な戦いをしていたが、十一代門主顕如は、和睦するのだが、長男は強硬派で十二代教如となり東本願寺を本山とする門主となる。和平派の三男准如は西本願寺を本山とする門主となり今日に至っている。といっても、徳川家康によって、東本願寺の敷地が提供されてからからであって、それまでは、大阪を拠点にしていたのである。龍谷大学は、西本願寺、大谷大学は東本願寺に所属する。いづれにしても、浄土真宗である両本願寺は、親鸞上人を始祖とする日本最大の仏教集団である。
 
 室町時代に蓮如という人物が出て、今日の浄土真宗の隆盛の基盤を築いた。親鸞から数えて八代になるが、母親は奉公人であったらしい。父親が、正式に妻を迎えたとき、母親は蓮如のもとを去った。六歳のときである。四十三歳の時に、七代存如が没し、跡目を継ぐことになる。庶子であったため本来ならばなれぬ地位であったが、叔父の助力があったためという。
蓮如の布教活動は、五十一歳の時から始まる。比叡山の延暦寺衆徒に寺を破却され、親鸞の御影を奉じて近江に移ったのである。布教の対象にしたのは、町民、農民、職人といった庶民であった。親鸞の教えを、庶民にでも理解出来るように伝えることは、困難であったに違いないのだが、信者は急速に増えていった。蓮如の母が、いやしき階層の人であったことが、布教のエネルギーになったと作家の五木寛之は書いている。
再び、比叡山の僧に目をつけられ、蓮如は、北陸に去るのである。このままでは、蓮如の教えを受けた信徒と、旧宗教勢力の間に、争いが起こり血が流されると感じたからである。布教していながら、立ち去るというのは卑怯のようであるが、非戦、非暴力の思想が仏教の中にあるのだから、一つの見識である。〝逃げるが勝ち〟ということばもある。次に布教の拠点としたのが、吉崎という、石川県境に近い福井県の金津町にある場所であった。
吉崎は、一大宗教都市のようになった。親鸞の同朋、同行主義、つまり仏の前には何人も平等であるという思想を分りやすい方法で人々に説いたのである。方法とは「お文」、「御文章」という文章で、今日ではパンフレットのようなものであろう。五十七歳から、六十一歳まで、四年間の布教活動であったが、またもや、信徒のエネルギーは充満して蓮如が押さえきれないほどになる。蓮如は、吉崎を去るのである。その後、北陸では、一向一揆が起こり、守護大名であった富樫氏を滅ぼし、約百年間、共和国のような体制が続くのである。〝百姓の持ちたる国〟と言われ、日本史の中の奇跡と言われている。
蓮如のその後は、山科の本願寺、大阪の石山本願寺と続くのだが、特記すべきことがある。蓮如は、生涯に五人の妻を娶り、二十七人の子供をもうけたことである。驚くことに、六十三歳からの子供が、十人おり、八十五歳で亡くなる一年前の子供すらいるのである。よく言えば、生命力の強さということになるが、聖職者(生殖者ではない)であるから奇怪でもあるという見方は短絡的なのであろうか。再婚は、全て死別によった。そして、それぞれの妻を愛し、大事にし、信仰の中でも女性を蔑視しなかった。それは、幼くして母親と離別したことと無関係ではないというのが、五木寛之の蓮如の女性観になっている。ただ、少子化対策に頭を悩ませている現代社会からすれば、想像し難い離れ業に思える。
東京築地にも西洋風建築の西本願寺を本山とする別院の建物があるが、実にりっぱな建物である。高名な建築家の設計なのであろう。大阪御堂筋にある、南御堂、北御堂も  ひけをとらない。京都の両本願寺もしかりである。西本願寺の周囲を歩いたことがあるが、高い塀と一部には石垣に囲まれていて城のように思えたことがある。親鸞上人の出自は、貴族であるということだが、その子孫が教えを守り、一つの宗教組織を維持していることはなんと表現すれば良いのであろうか。信徒の多くは庶民である。茶道や、華道の家元として、家系を繋いでいることにも似ている。その是非は問うまい。〝猊下〟という尊称がある。大谷光瑞は猊下あるいは、お上(おかみ)と呼ばれていた。猊下は、宗教における高僧に対する尊称であるが、皇室を連想させる響きがある。親鸞の末裔は、貴人の品格があるということであろう。

 北御堂の石段を下り、中之島に歩を進める。大阪日銀や中之島図書館、中之島中央公会堂などのレトロな建物があるが、目的地は別な所にあった。〝適塾〟の建物である。こちらは、江戸時代の木造建築である。建物の内部も見学できると旅行ガイドブックに書いてある。ビルの谷間のような場所にあって、すぐにはたどり着けなかった。
適塾は江戸時代末期に、蘭学医の緒方洪庵が開いた。この塾から多くの幕末、明治の俊才が輩出した。代表的人物は福沢諭吉である。他に日本陸軍の生みの親、大村益次郎。入門当時の名前は、村田蔵六といった。司馬遼太郎の『花神』に一人の主役として登場する人物である。福沢諭吉も大村益次郎も塾頭になっている。安政の大獄で刑死した橋本左内も学んでいる。適塾の二階に広間があって、その中央近くにある柱が歪んでいるように見えたが、近くによると削りとられた跡がある。塾生の刀による傷らしい。
適塾には、蘭日辞書が一つしかなかった。当時のものは現存していないが、長崎出島のオランダ商館長によるものでヅーフ辞書といった。この辞書を塾生は交代で写したりして学んだという。今日のように学ぶ手段がふんだんにあるような時代とは違って、当時の向学心ある人々は命がけだったのである。現在、適塾の建物は大阪大学が管理している。
適塾の見学が、恩師退官を慰労する集いの翌日でもあり、学生時代殆ど学問を学んだという実感が残っておらず、何かバツの悪い思いがした。生涯学習ということもあるから、気長に亀のようなペースでやれば良いと慰めても見た。緒方洪庵という人は、儒学の素養もあり、誠実、温厚、孝養の人で、塾生に対しては厳格さと寛容両面をもって接したという。明治時代の私学の雄である、慶応義塾の創始者、福沢諭吉の大分県中津にいつかは訪問してみなければとも思った。


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