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2013年09月30日

『浜茄子』(拙著)西行と桜

西行と桜
 桜と言えば、西行の名が浮かぶ。吉野の桜は、いまだに観る機会が無い。二〇〇七年の春の訪れは、暖冬のためか早いと予測されていた。開花宣言も例年より一週間早いという予報も出たが、寒さが戻り平年並みの開花となった。
 
 数学者岡潔先生の墓参を兼ねたゆかりの人々の集い「春雨忌」の案内が届き、四月一日とあった。桜の開花が早いのならば、念願の吉野の桜を観てみようという気持になった。先生のお嬢様の家に二泊させていただけるので、帰郷する日、朝早く発てば可能かも知れないと計画を立ててみたが、気候の変動で、旅行者の花の莟も萎んでしまった。それに、奈良市から、吉野の山までは意外と時間がかかることも知った。さらに、吉野の桜は近代、里に多く咲くソメイヨシノではなく山桜の種類だという。花の時期は、多くの人手で山道が埋め尽くされるとも教えられた。桜も愛でたいし、閑静な中で、西行法師も想いうかべたいという吉野行は、難しい。
 四月になっても寒さが続き、奈良から群馬に帰ったら、二十日を過ぎても枝に花を残している桜があった。ぱっと咲き、さっと散る桜のイメージが今年はない。しかも、花のつきかたが少ない。こういう年は、記憶に無い。珍しい春になった。若葉の芽吹きも気のせいか遅い。
 願わくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月の頃
自分の死ですら、桜の花の時期を願った西行は、桜に寄せる思いが人一倍強い。平安末期に生きた西行の生涯は分りにくいが、数多い歌が残されている。自選の歌集『山家集』が良く知られている。藤原定家らが選者になって編纂した『新古今和歌集』にも西行の歌は九四首と最も多い。当時から一流の歌人だった。
 
 西行に関する著作は多いが、歌から推測する西行伝を書くのは至難の業なのであろう。辻邦生の『西行花伝』は大作で、氏独得の美意識のもとに描かれている。白州正子も『西行』を書いているが、こちらは、紀行的エッセイの感がある。井上靖も西行には惹かれるものがあったが小説は書いていない。小林秀雄にも西行に関する著述があるが、それほど長いものではない。嵐山光三郎の『西行と清盛』は大衆小説としては、おもしろいかもしれない。これほどの情報しかない、自分にとって西行の世界を覗き、不確かではあるがその足跡、ゆかりの地を訪ねてみたい気にさせるのは、芭蕉を始めとする後世の歌詠みが西行を意識することが大であるからだ。
 西行の名は、出家後の号であって、僧名は円位という。父親は、紀州の荘園領主であり、遡れば藤原鎌足にたどり着く貴種の血筋であり、平将門の乱を平定した藤原秀郷が祖先にあり、秀郷の子供の子孫には奥州藤原氏がいる。西行は裕福な家に生れている。しかも、美男で運動能力も優れ、歌も若い時から人並み以上に詠むことができた。鳥羽上皇の北面の武士になっているから、文武両道に優れた人物像が浮かびあがってくるのである。将来の身分も考えても何一つ不安のない佐藤義清(のりきよ)がなぜ、出家したのかは、後世諸説あっても俗人からすれば奇異なことではある。しかも、妻子もいた。
縁側から幼い娘を蹴落としてまで出家することになったのは、何が原因だったのか。
 辻邦生の『西行花伝』では、母親の死や、崇徳上皇の母親である待賢門院へのかなうことない恋慕があったことを匂わす記述があったような気がする。白州正子は、数寄者の血が流れているからだと見ている。別な言い方をすれば、歌を詠みながら自分の心を深めていく生き方が、自分にとって不自由がないと思ったからなのであろう。国家公務員を早くからやめて歌人になるようなもので、大蔵省をやめて小説家になった三島由紀夫と重ねてみたくもあるが、西行の場合は歌を詠むこと、三島の場合は文章書くこと即生きることに繋がっていたということに留めておこう。
 結果として考えれば、西行のこの選択は後世不出の歌人を生むことになったから正解ということになる。西行が佐藤義清として北面の武士のままであったならば、政争の渦中にあって天寿をまっとうできたかの保証はなかった。七十三歳で河内国弘川寺で亡くなるまでの時代背景をみると、平安時代から鎌倉時代に移り変わる変動期であり、保元の乱、平治の乱、平家一門の栄華、源平の戦いによる平家の滅亡、源頼朝による鎌倉政権の誕生、源義経の死から奥州藤原氏の滅亡を西行は見てきたことになる。
 西行の若い時の利発さは誰もが認めるのだが、白州正子は気性の激しさを持った人物だったと捉えている。好き嫌いもはっきりしていて、癇癪持ちだと推測させる記述も残っているという。そうであるならば、武人として生きていれば必ず争い、あるいは戦闘の場に身を置くことになっていたであろう。無意識にか、そうした状況に自分がまきこまれていくことを回避したのが出家の一番の動機になったのではないだろうか。平清盛は西行と同年の人で交流もあったらしい。出家していなければ、清盛と西行(佐藤義清)が覇権を争うということが起きえたかもしれない。
 西行という人は、遁世した人物と思われがちだが、歌人として出家前以上に上流階級との親交をもった。政治からは、距離をおいていたが無関心ではなかった。晩年、東大寺復興のための勧進を奥州の藤原秀衡に依頼すべき旅の途中、鎌倉で源頼朝と会見したという記述が『吾妻鏡』にある。そのときの模様は、作者の創作かもしれないが、エピソードとしては面白い。
 頼朝が鶴ヶ岡八幡宮を参拝しているのを知った西行は、鳥居のあたりを徘徊していたらしい。家臣であったと思われるが、名を尋ねられると、昔の名前も加えて
「佐藤兵衛尉憲清法師、今は西行と号す」
と答えた。頼朝に謁見し、頼朝は武術や歌のことを興味深く訪ねた。西行は世捨て人として、秀郷以来の九代相伝の兵法は焼いてしまいすっかり忘却してしまったなどとはぐらかしたが、流石に要点だけは言葉の端々に匂わせ、聴き入る鎌倉の要人にも伝わった。頼朝は長く引き止めたいと思った。しかし、西行は、先を急ぐとも言ったかは知らないが、立ち去ってしまう。頼朝がその折、御礼にと与えた銀製の猫は、惜しげもなく街中に遊ぶ子供たちに与えてしまったというのである。藤原秀衡から寄進された、砂金が無事東大寺に届けられたところを考えると、頼朝に協力依頼をしておいたのかも知れない。
 西行は、人生に二度奥州に旅をしている。一回目は出家してから間もない二十代後半の頃だった言われている。歌人としての修行のような旅で、歌枕の詩情に惹かれたといっても良い。東北地方は歌枕が多く、平安貴族にとっては、謎めいた辺境の地への好奇とあこがれがあった。西行も例外ではなかったが、彼が旅を実行したところに、後世、芭蕉に『奥の細道』を書かせるだけの影響力をもてたのであろう。
 約四〇年を経た二度目の旅の途中に詠んだ次ぎの歌は、人生を旅と意識する人間にとって、胸に迫るものを感じる。五十も過ぎると、過去を振り返ることも多くなる。
 年たけて又越ゆべしと思いきや
        命なりけり小夜の中山
小夜の中山も歌枕である。現在、静岡県掛川市と島田市の境あたりに位置している。

 京都の長岡京の近くに小塩山があり、その下の丘陵地を大原野と呼んでいるが、西行が出家し、近くに庵を結んだと言われる寺がある。勝持寺という天台宗の古刹である。西行に因んだのであろう「花の寺」とも呼ばれている。境内には、何代目かは知らないが、西行桜がある。枝垂桜で満開ではないが花をつけていた。春雨忌の帰路、吉野の山に花見をするかわりに、西行ゆかりの地を訪ねてみようと思案していたら、「花の寺」を思いついた。しかし、地図で調べてみるとだいぶ交通の不便な場所にある。
 助け舟が出た。というよりは、お願いしてしまったに近い。大阪の枚方市在住で、春雨忌の幹事を毎年してくださっている松尾さんが車で参加しており、案内してくださるというのである。四条畷、宇治、そして一昨年は芭蕉が晩年近くなって住んだ幻住庵のある大津まで案内してもらった。松尾さんも「花の寺」は初めてなので、カーナビを駆使しての運転となった。
 後部席で地図を見ながら目的地を探していると、これから訪ねる「花の寺」が大学を卒業して一年間、嘱託として勤務した自閉症児の療養施設のあった場所の近くだということを思い出した。名前は「ポニーの学校」というのだが、車の中から見る風景に見覚えのありそうなものがない。当時、阪急電車の向日市で下車し、そこから歩いて通っていたので記憶が重なってこないのだろう。三十年以上の月日が経過している。
 この日は、山々がかすみ、空も日は差しているもののどんよりと曇っている。春霞とは言えないと思っていたら、自宅に帰ってニュースを見ると黄砂のためだった。「花の寺」に向う道中、竹林があって近くで見ると良く手入れがされていることがわかった。これからは、筍のシーズンである。京都の朝掘りのものは、有名で高価である。我が家にも竹林があるが、地面に顔を出す前に朝早く掘るのは至難の技である。
 勝持寺の入場料と引き換えのパンフレットを見たら
花見にと群れつつ人の来るのみぞ
     あたら桜の科(とが)には有りける
という西行の歌が書かれてあった。出家し、ひとり静かに思索しようと思っていたら、花見の客が大勢押し寄せてきてうるさい。これは、桜の花の責任だと苦情を言っている。
吉野の桜を独り占めにしたいという気持に似ている。
 「西行桜」という能を見たことはないが、この歌を主題として創作されたものだという。在原業平の
世の中に絶えて桜のなかりせば
     春の心はのどけからまし
桜がなければ、春をのどかに暮らせるのにと言っているのも桜が好きでなければ言えない。日本人が桜好きだと言う自然な情緒を歌に多く表現して見せたのが西行であって、後世の日本人を桜狂いにした元凶も西行ではないかと思えてくる。桜の季節ではなくとも良いから、いつかは吉野山には足を踏み入れてみたい。ここにも、西行の庵があった。


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『浜茄子』(拙著)西行と桜
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