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2013年10月06日

『浜茄子』(拙著)櫻賦

櫻賦
 賦とは漢詩の形式のひとつである。五言絶句、七言絶句は、李白や杜甫など、唐の時代の詩人たちに名高いものがある。賦は、韻文であり、散文のようにたやすくつくれるものではない。詩才もなければいけないだろうし、古典や歴史の知識、加えて漢字の語彙が豊富でなければ作れない。なにせ大作であり、漢詩の大家であっても、生涯に何作もできるものではない。
 
 櫻賦(桜の賦)は、幕末の思想家佐久間象山の作である。文字の総数は、七五九字にも及ぶ。その内容は、まさに桜の美しい風情を謳い上げているのだが、桜は日本であり、皇室でもあり、佐久間象山自身でもあった。桜に寄せて、幕末の動乱の時代を、九年間という長い間蟄居の身であった象山は、その悶々とした心境を賦に表わしたのである。思い浮べた人物がいた。楚の国の宰相であった屈原であった。屈原は賦に自らの想いをこめ、悲壮な覚悟で泪羅(べきら)の河に身を投じたのであるが、象山の櫻賦も屈原の賦をふまえているとされる。象山には、これよりも二十年前に望岳賦を作っている。師の佐藤一斎が絶賛したといわれ、櫻賦と合わせて二大傑作とされている。
 佐久間象山という江戸時代末期に生きた人物については、関心が薄かった。歴史上の人物として知らないではないが、深く立ちいって調べてみようという気持にはなれなかった。それは、偏見かもしれないが、自我自尊というか、相手を低く見下すかのような人物像を想い描いていたからだと思う。
 
 象山の写真が残っているが、その風貌からしても奇怪な印象がある。眼光が鋭い。正面からほとんど耳が見えない。面長で日本人離れした顔立ちをしている。歴史書に載っている佐久間象山の姿から親近感が生れてこなかったのかもしれない。日本に黒船でやってきて、恫喝的外交手段で開国をせまったペリーが象山とすれ違ったときに、頭をさげたという話が伝えられている。当時の日本人としては珍しいほどに大柄で、一メートル八十センチ近くの背丈があり、しかも恰幅もよく、色白だったと言われている。「気」で圧倒するような雰囲気が象山にはあったらしい。
 二カ月程前に、大正から昭和にかけて活躍した童謡の作曲家である草川信や海沼実が松代ゆかりの人であることを意識して初めてこの地を訪ねたのだが、松代は佐久間象山の生れた地でもあったのである。象山神社もあり、記念館に資料が展示され、象山が松代の代表的人物になっていることを知った。
職場に、山登り愛好会のような仲間達がいて、健康のためといって山歩きや、植物鑑賞、観光を楽しんでいる。年に二回位は、企画して決行している。七月一日の日曜日を選んで、松代行きの案内役を買って出たのであるが、メインは山である。
地元の人はピラミッドと呼んでいる山がある。皆神山というのであるが、松代郊外の平地に独立峰のようにして存在している。標高は七〇〇メートルにも満たないが、平地から円錐状に聳えているので、松代の町からは良く見える。頂上は尖ってはおらず、ピラッミッドの形ではないのだが、人工物のように思えなくもない。頂上近くは一寸した丘陵地になっていて、神社もある。驚くことに、神社を囲むようにしてショートホールのゴルフ場まであった。山登りを終えて、国民宿舎の温泉につかり帰路についたのだが、高速道路から皆神山が良く見えた。仲間の一人が
 「プリン山さようなら」
こちらの呼称のほうが皆神山にふさわしい。
順番が反対になってしまったが、群馬を七時に発ち、松代には九時前に着いたのであるが、観光サービスのつもりで、もうひとつの山を案内した。こちらはワゴン車に乗ったままの山登りである。川中島の戦いで上杉謙信が布陣したとされる妻女山である。今年放映されているNHKの大河ドラマは「風林火山」であるから、仲間には喜んでもらえたらしい。展望台があって、千曲川を遠望することができる。
鞭声粛々夜河を過(わた)る
一万人以上の上杉軍が静かに川中島に向って進軍した様を伝えた頼山陽の漢詩をうなってみようかとも思ったがその実力と勇気が出てこない。
 ハイキングの話から象山に戻る。戻るといっても象山も松代に存在する山である。位置は妻女山から松代市街地に向うと、その裏山のようにしてある。佐久間象山が号として使った象山は象山神社からほど近い場所にある。
 
佐久間象山は一八一一年に真田藩士佐久間一学の子として生れる。父親の年齢は、五六歳であった。正妻がいたが故あって離別し、五十歳の時に迎えた「まん」という女性の間に生れたのが象山であった。身分の差のあった婚姻には藩主の許可がなければ、正式な妻として認められなかったのである。象山は実母を幼少期にあって、「母上」と呼べなかった。利発な敬之助は(象山の幼名)は、藩主真田幸貫にその才を認められ、何か望むことはないかといわれた時、自分の母親に「母上」と呼べるようにしてほしいと願い出る。息子の希望が藩主によって叶えられ、「まん」は、一学の正妻になれたのである。
 象山の幼名啓之助の啓は、詩経の「東に啓明あり」、つまりは明けの明星からとった名前である。象山に幼い時から、特殊な天明を与えられて生れてきたという自覚があったか定かではないが、天才少年と言われる頭脳の持ち主であったことは確かである。童門冬二は佐久間象山を小説に書いているが、「幕末の明星」という副題をつけている。
 佐久間象山の生涯を概観すると、十五歳で元服してからは、青年期をもっぱら学問を習得することに専念している。佐藤一斎は、高名な儒学者であり、その門下には幕末の長岡藩家老河井継之助に師事された山田方谷もいた。二三歳~二六歳の頃であるが、象山は、佐藤一斎が陽明学も教えていることが不服で、もっぱら朱子学を学ぼうとした。つまり学理を追究する人、別な言い方をすれば〝理〟を重んじた人だった。だから、独学でオランダ語を学び書物から大砲を製造し、電信機、写真機などを作る科学者にもなれた。象山を「東洋のレオナルド・ダビィンチ」と呼ぶ人がいるが頷ける。
 両親は、別にして象山の人生の恩人は、藩主真田幸貫であろう。江戸への修学の道をつけてくれたのも真田幸貫であるが、外様大名として前例のない老中(海防掛)になった時、象山を顧問にする。このあたりから、学者佐久間象山が政治に関与することになるのである。
 海防八策を提言しているが、その内容は「外国船は打ち払え」というような無謀で勇ましいものではない。国防を充実するためには、軍事的な設備だけではなく人心を結束することが肝要だと言っている。ほとんどが受け入れられなかったが、やがて黒船来航により、象山の先見性に理解する者もあったが、象山は、常に時代の先が見えた。
 
 象山は、三十代で江戸に塾を開き、全国から多くの優秀な人材がその門を叩くのだが、四〇代になった時、象山に弟子入りした人物の中に吉田松陰がいた。吉田松陰は、松下村塾を開き、明治維新を成就させ、明治政府の中核になった人材を世に出した人として知られている。松蔭は、海外渡航に失敗し投獄されたことがあった。その計画を打ち明けたのが、象山である。松蔭に対して国禁を犯し、海外の事情に触れ、国難を救おうとした義挙に賛同したばかりか、激励の詩と餞別まで与えた。このことが、幕府に知られることになり、約九年近い蟄居の生活を松代で過ごすことになるのである。
 判決文が残っているが、象山の自説を紹介し、批難している風にもとれない内容で、「憂国の情」からの行為であったと認めているかのような文面になっている。象山は取り調べの中でも、鎖国政策がこの時期にあっては、意味のないものだと批判している。裁く側からすれば、象山が
「法を破ることは、何はともあれ悪い行いであった」
と詫びれば、譲情酌量の余地があったのである。生意気な奴だというのが、幕府官吏の悪印象になり、こうした裁きになった。死罪にすべきだという意見もあったという。
 一方、吉田松陰はどうかと言えば、申し開きはしなかった。しかも、佐久間象山にそそのかされて決行に至ったのかと詰問され、あくまで自分の意志であったと応えている。
実行犯で、当然死罪の判決を言い渡されても不思議ではなかったが、彼の純真さが官吏の好印象となり、国もとの野山獄に収監されるだけで済むのである。
 幕末に維新のエネルギーになった思想というかスローガンが「尊皇攘夷」で、松蔭はそれに近い。象山と言えば「尊皇開国」論者であったという指摘がある。この時代であるから、後世の人々が言う天皇制論者というものではない。司馬遼太郎風に言えば、尊皇=この国のかたち、とでも表現すれば良いのであろうか。漢詩、櫻賦はそのことを謳い上げている。不遇の時代をどのように過ごすかということは、その人の人間性に深く関わっている。象山は、日本という国が好きだった。そして、桜の花も。佐久間象山の桜の歌がある。
 折にあれば散るもめでたし山桜 賞(め)づるは花の盛りのみかは
 佐久間象山は、晴れて自由の身になって京都に出るが、五十四歳にして尊皇攘夷派の刺客に襲われ命を落すのである。京都市の三条木屋町の角には現在、遭難の石碑が立っている。
 
 童門冬二は、佐久間象山の人間的特質を「清い精神」の持ち主として見ている。精神的潔癖性は、「学問的潔癖性」になる。松代に蟄居していたときも、松下村塾門下の高杉晋作らの名士が訪ねている。現在、象山神社の敷地に移設されている高義亭が会談の場所になったのだが、象山は、自説は決して曲げる人物ではなかったが、相手が人物であると見れば、魂をゆすぶるような議論を展開したに違いない。高杉晋作は、攘夷の行動を実行した人物で、象山の考えに異論を挟んだと思うが、夜を徹しての会談となった。松蔭のゆかりのものだから、真剣に話したというのではない。高杉は、したたかな革命児だが「清い精神」の持ち主である。「清い精神」が出会ったのである。他界して三十年近くなるが、岡潔という数学者がいた。思想と時代は違っても、「清い精神」では繋がっているように思える。こうした人物は世にまれで、誤解され受け入れられないことが多い。しかし、何故か惹かれる。


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