☆☆☆荻原悦雄のフェイスブックはこちらをクリック。旅行記、書評を書き綴っています。☆☆☆

2013年10月07日

『浜茄子』(拙著)美作そして伯耆の国へ

美作そして伯耆の国へ
 岡山県津山市に院庄という場所がある。学生時代の友人が津山市に住んでいる。およそ十五年ぶりの再会となった。

「作楽(さくら)神社に案内してもらえないだろうか。その後は、三朝温泉の湯に浸かってゆっくり将棋でも指しながら話しましょうや」
昼前に津山駅に着き、改札口近くに待つ彼の顔を忘れていなかった。お互い少し体重が増えたが、髪の毛は健在である。五十も半ばを過ぎると体躯が気になってくる。
 駅前に駐車してあった彼の車で作楽神社に向う。JRで院庄は津山から一駅である。作楽神社は意外にも平地にあった。こんもりした山の森の中にあるかと思っていたのである。
「近くに住むわしですらよう来ん所に案内させる。一〇〇人に一人も知らん神社やろ」
この神社については説明がいる。祀られているのは、後醍醐天皇と児島高徳である。そして、児島高徳という人物が今日では無名に近い。大正時代に、尋常小学校唱歌に「児島高徳」の題名の曲があった。戦前の小学生ならば歌ったことがあるから思い出せるかもしれない。そんな希薄さが児島高徳にはある。境内に碑があったがその歌詞で説明することにする。
 一 船坂山や杉坂と御あと慕いて院の庄、
   微衷(びちゅう)をいかで聞こえんと、桜の幹に十字の詩
   「天勾践を空しゅうする莫れ。時范蠡無きにしも非ず」

 二 御心ならぬいでましの御袖露けき朝戸出に、
   誦(ずん)じて笑ますかしこさよ、桜の幹に十字の詩
   「天勾践を空しゅうする莫れ。時范蠡無きにしも非ず」
後醍醐天皇は、鎌倉幕府の弱体化した状況をみて、天皇親政の政体を企図したが、幕府に発覚し隠岐の島に流される。その途中天皇を奪還しようとしたのが児島高徳である。今日の、兵庫県と岡山県の県境にある杉坂峠などで待ちうけたが、天皇はすでに院庄の行在所(あんざいしょ)に移った後で、警備も厚く奪還は不可能になった。高徳は、所内にあった桜の木を削り、「天莫空勾践 時非無范蠡」の十字の文字を書き残した。その意味は警備の者達には解らなかったが、天皇には通じた。臥薪嘗胆の故事に知られる、呉の国の勾践と忠臣范蠡に譬えたのである。
 児島高徳が果たして実在の人物であったかを疑問視する史家もいるが、作り話であったとしても忠臣の情の美しさは伝わってくる。戦前の皇国史観を始めとするイデオロギー的な批判を横に置いて、この歌を味わってみたかったのである。
 この唱歌は文部省唱歌ということもあり、作詞者は不明であるが、作曲者はわかっている。「故郷」「紅葉」「朧月夜」などの作曲で知られる岡野貞一がその人である。岡野貞一の生まれたのが鳥取県なのである。旅の最初に児島高徳ゆかりの神社を訪ねたのは、岡野貞一のことが頭にあったからである。
 歌というのは、詞である言葉が最初にあるように多くの人は感じるが、作曲者のメロディーに影響されていることが多い。音楽そのものは抽象的というが、心の底に響くものがある。「故郷」の詞は、長野県出身の高野辰之によるもので、故郷の情景を誰にも浮べさせる名文とは思うが、曲そのものが情感を呼び起こすものになっている。岡野貞一は「出師営の会見」や「橘中佐」といった日露戦争を題材にした唱歌も作曲しているのだが、岡野貞一は教会でオルガンを弾く敬虔なクリスチャンなのである。
 岡野貞一はいかなる人物なのであろうか。その関心があって、長野県に高野辰之の生地を訪ねて以来、岡野の生地である鳥取を訪ねてみたいと考えていたのである。ところが、岡野貞一には記念館があるわけでない。鳥取市に歌碑があるくらいなのである。このことは、彼の人柄と無関係ではないようだ。加えて、鳥取県の県民性が地味で勤勉であるという評価があって、岡野貞一に重なるものがある。そして自己顕示することがなく、控え目で誠実、さらにはストイックなクリスチャンであっため自分の足跡を自ら文章にして残すこともなかった。そのために岡野貞一像は容易に浮かんでこない。
 岡野貞一は明治十一年に鳥取県古市に生れる。現在の鳥取市になるが、八歳年上の姉がいて、キリスト教に熱心であった。後に姉の寿美は牧師と結婚するが、岡野は、十四歳で受洗する。姉の影響もあったが、郷土出身の東京音楽学校の校長であった村岡範為馳が帰郷しその講演を聴いたこともあり、音楽への関心を強く持っていた。教会に通えば、賛美歌や英語を覚えることができると考えたからである。
 明治の中期に、初等教育に西洋音楽を文部省にあって導入したのは、長野県高遠出身の伊沢修二の働きが大きいのだが、日本人として西洋に学び実際作曲した人物を鳥取県は何人も輩出していることを知った。岡野よりも少し年上に、田村虎蔵がいる。
 「だいこくさま」、「うらしまたろう」、「はなさかじじい」などは今日でも良く知られている。ちなみに、これらの曲全ての作詞者は石原和三郎で群馬県の人である。石原も教職にあったが、田村虎蔵も教職を長く務めている。作曲、作詞だけで生活できない時代であった。永井幸次も同郷の先輩で、大阪音楽大学を創立した人物として知られている。田村と永井は同時に東京音楽学校に入学している。
 岡野貞一は彼らから少し遅れて東京音楽学校に入学するが、瀧廉太郎はほぼ同期の人なのである。瀧廉太郎は全学科最優秀の成績の秀才でドイツに留学するが、二十五歳の若さで無くなる。瀧の作品で「荒城の月」、「花」があまりにも有名だが、辞世の曲とも言うべき曲の題名は「憾み」である。もう十年も生が与えられていたらと考えるが、歴史に「もしも」の話の類である。
 東京帝国大学の近くに、明治二十四年に建築された本郷中央教会があり、岡野は長くオルガニストを務めていた。この音色は、文豪夏目漱石も耳にしたらしく、小説『三四郎』に記述があるらしい。一方、母校の教職にあり、文部省の唱歌編纂委員として多くの唱歌を世に出していったのである。普通、文部省唱歌は委員の合議制であったために作詞者や作曲者は名前が出てこないとされているが、岡野貞一は委員のリーダー格、実力者だったということが作曲者の名を今日明らかにしているのかも知れない。
 岡野の実力を示す話がある。それは、全国の学校校歌を九十四曲も作曲しているのである。二位は「海ゆかば」の作曲で知られる信時潔であるが、こちらは五十九曲である。学校側の推薦が多かったというから、岡野はその実力を評価されていたことになる。加えて、気軽に引き受けて断らない岡野の人柄によるとみる人もいる。
 岡野貞一は、太平洋戦争の開戦直後の、昭和十六年の十二月二十九日に急性肺炎のために亡くなった。一カ月前の十一月に体調が悪い中、姉の夫である小野田元の葬儀委員長を務めている。この無理がたたった事は否めない。また、友人でもありオルガン伴奏の師である島崎赤太郎の葬儀委員長も務めている。何となく岡野の人柄が伝わってくる。二人の息子が戦死したというが、岡野の死後のことであった。次男は東京音楽学校在学中の応召よる戦死だった。長男は残り、父親の実像を伝えることができた。

 院庄を後にして、友人の車で三朝温泉に向う。途中、日本では珍しいウラン鉱石の発掘される人形峠を越えて、美作の国から因幡の国に入る。後醍醐天皇の一行は、どのような山道を越えて行ったのであろう。現在国道179号線になっているが、道幅も広くよく整備されている。山道であるためもあり信号も殆ど無い。三朝温泉には、約束の二時には余裕で着きそうである。時間がありそうなので、倉吉の古い町並みを見学することにした。道路地図ももたず、せっかく取り付けてあるカーナビも故障していて、倉吉駅に行き着いてしまう。駅前の交番で行き先を聞く。怖いお巡りさんがいるのかと思ったら年配の男性が、地図に赤ペンを走らせて丁寧に案内してくれた。
「島根の人の良さ、親切は本当に気持がいい」
と友人が、話す。やはり岡野貞一を生んだ国なのである。
宿には、予定の二時を三十分も越えて着くことになった。今宵の宿は、野口雨情も泊まったという明治初年から営業している「木屋旅館」である。宮沢賢治のイーハトーブ会員の上島さんと旅館の女将である御船道子さんが玄関先で待っていてくれた。御船さんの父親は、河本緑石といって宮沢賢治の盛岡農学校の同級生なのである。上島さんを通じ、御船さんのことを知り、岡山の友人をまき添いにして今回の旅になったのである。友人は、俳句もやるが、学生時代は童話も書き、今は小説も書く器用な男なのである。きっと喜んでくれるだろう勝手に思い込んで、上島さんと同宿することになった。
上島さんは、現在76歳、戦後食糧難の時代に、岡山県蒜山高原の開拓村に入村して、直に大地を開拓した人なのである。宮沢賢治を長く尊敬して止まない方なのである。上島さんとは、昭和の社会教育家、後藤静香を尊敬する上島さんの父君とのご縁による。人とのご縁は不思議なつながりを持つものだ。
女将さんが是非案内したいところがあるというので、二時の待ち合わせになっていたのであるが、旅館に荷物を降ろし、そのまま友人の車でその場所に向う。当日は、台風十一号が、朝鮮半島に向っていたのであるが、その影響で鳥取の天候は不安定であった。ときおり激しい雨が降るの中、三徳山を目指す。「投入堂」という不思議な名の付く建物を見せてくれるというのである。三朝町は世界遺産として登録したいらしい。その建物は恐ろしく高い山の洞窟の入口のようなところにあって、どうして人間が建てたのか首をひねりたくなる建物なのである。望遠鏡で見たが、建築家も結論が出せないらしい。「投入堂」の名の由来もこのあたりにある。驚くことに平安時代の建物だという。
夜は、貴賓室(?)での女将さんを交えての会食となった。御船さんはよく語って、かつ接待し、野口雨情の歌、岡野貞一の唱歌も歌った。強烈に記憶に焼きついたのは、父親の水死の話である。
「私が四歳の時、昭和八年の夏、父は三十八歳でした。海岸で学校の水泳訓練をしていた時に、配属将校であった友人が潮に流され溺れかかったのを父は助けようとして逆に溺れて亡くなったのです。その時、助けられた軍人さんは、自分は自力で泳ぎ、助けられたのではないと主張したらしいんです。軍人だったから体面が悪いとおもったのでしょうね。そのため父は、しばらくは殉職扱いにならなかったんです。でも、目撃者がいましたからね。結果的には殉職者となったんです」
人間性と言えばそれまでのことだが、配属将校と御船さんの父親では、天と地の差があると思った。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の登場人物、カンパネルラも水死するのであるが、賢治が御船さんの父親の死より二カ月後に亡くなっていることから、そのモデルにしたという指摘もあるが、その真偽よりも、人を助けるために亡くなった父親の死は厳粛なものがある。

 木屋旅館の前、道を挟んでカンパネルラ館がある。アザリア会という宮沢賢治、河本緑石ら四人の詩のグループの大きな写真が飾ってあり、賢治の関係書籍や河本緑石の関係の遺品が置かれている。女将さんの藍染の作品も置かれている。美味しいコーヒーも飲む事が出来る。
夜の宴は、なごやかに続いたが、木屋旅館のラドン湯は格別であった。そして、宗教学者で、宮沢賢治と同じ花巻出身の山折哲雄の常宿になっていることも教えてもらった。山折哲雄は、宮沢賢治の研究者でもある。御船さんの父親は、学校の教師であったばかりではなく、絵や詩も書き、自由律の俳句を作った荻原井泉水との交流のあった文人であり、島根の名士であったのであろう。会食の中の話題に登場する人物は、鳥取県の政治家などもいて、身近な知人のような関係に聞こえてくる。古井喜実などという戦前の内務官僚から、政治家に転身し、田中内閣の日中国交正常化に一役かった人物が鳥取県の出身とあらためて知ることになった。
御船さんはイーハトーブの会から表彰を受けることになり、明後日には鳥取空港から花巻に飛び立つという。絶妙なタイミングでお会いできたと思う。部屋に帰り、友人との将棋は一勝一敗のさしわけとなった。決勝の一局をもう一度木屋旅館で対局するという手もあると思った。その時に、岡野貞一の生れた鳥取市に行っても良い。近年童話館ができたらしい。鳥取砂丘、白兎海岸にも足を伸ばせるかもしれない。


同じカテゴリー(旅行記)の記事画像
九州北岸を行く(平戸、武雄温泉編・2017年8月)
九州北岸を行く(唐津編)
春めくや人様々の伊勢参り(2017年4月)
東京の桜(2017年3月)
三十年後の伊豆下田(2017年3月)
相模国一宮
同じカテゴリー(旅行記)の記事
 この母にこの子あり(2017年9月) (2017-09-12 17:44)
 九州北岸を行く(平戸、武雄温泉編・2017年8月) (2017-08-26 09:04)
 九州北岸を行く(唐津編) (2017-08-25 17:19)
 春めくや人様々の伊勢参り(2017年4月) (2017-04-04 17:56)
 東京の桜(2017年3月) (2017-03-27 16:36)
 三十年後の伊豆下田(2017年3月) (2017-03-18 13:18)

この記事へのコメント
初めまして、筑波大学附属視覚特別支援学校の間々田です。
岡野貞一氏作曲の校歌ですが、鈴木恵一氏の「岡野貞一とその名曲」では94となっております。
私が調べたところでは169校(その他未確定5校)が氏の作曲の校歌数です。現在も50を超える学校で歌い継がれております。
ご参考まで。
Posted by 間々田和彦 at 2014年01月22日 21:45
参考になりました。すごい数ですね。ありがとうございました。
Posted by okina-ogiokina-ogi at 2014年01月24日 13:35
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
『浜茄子』(拙著)美作そして伯耆の国へ
    コメント(2)