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2013年10月08日

『浜茄子』(拙著)安曇野の秋

安曇野の秋
 安曇野という地名の響きに魅せられて、再びこの地を訪ねることになった。碌山美術館の木々はすっかり色づいていた。教会風に造られた美術館の中で「女」に再会した。碌山、荻原守衛の生家は、JR大糸線の穂高駅に近い田園地帯に今も残っている。彫刻「女」は、彼の最後の作品である。昭和三十三年に、多くの人々の募金によって、碌山美術館が開館される前には、生家に「女」は置かれていた。この作品が完成したのは、明治四十三年である。その年の四月に、守衛は三〇年と数か月の生を終える。
 
 フランスでロダンに会い、油絵から彫刻に転向した荻原守衛が帰国したのは明治四十一年であったが、その後の作品は日本の美術界には高く評価されたとは言えなかった。鎌倉時代の怪僧文覚を、鎌倉の成就院にある文覚と伝えられる像をヒントに制作したのだが、文展では、二等賞の朝倉文夫に及ばなかった。

「相克は美なり」という、守衛の苦悶の末の魂の表現は審査員には届かなかった。しかし、後世に名を残している二人の人物は、しっかりそれを受けとめていた。石川啄木は、貧困と作品が認められない絶望的な境遇の中で、この像を見た。彼は、守衛の人を知らない。優れた詩人の魂とその時に置かれた心境が、守衛の心を直観したのであろうか。
 
 碌山美術館の入り口近くの敷地の中に置かれている「労働者」にも感動し、友人であった金田一京助に、絵葉書を送っている。ただし、今日我々が目にできる「労働者」の左手、両足の膝下は切り落とされている。展覧会の後に守衛が切り取ったのだが、啄木はそれを知らない。原形を見たのである。
 
 もう一人の人物は、高村光太郎である。既に守衛とは知己の間柄ではあったが、彼は義憤の心情を述べている。光太郎は、荻原守衛の死後も彼の作品を評価し続けた。碌山美術館には、光太郎の作品も展示されている。近代彫刻の祖という評価が、今日では与えられているが、先覚者の試練の時代があったのである。
「女」は「愛は芸術なり」という魂の表現だったかもしれない。実際にモデルになったかは定かではないが、守衛が想い描いた「女(ひと)」は、相馬黒光だと言われている。今日、それは推測にしか過ぎないが、口述筆記のような形で残した相馬黒光著『黙移』の中に書き残している。守衛の死から間もなく、アトリエを訪ねた黒光は
「私はこの最後の作品の前に棒立ちになって悩める『女』を凝視しました。高い所に面を向けて緊縛から脱しようとして、もがくようなその表情、しかも肢体は地上より離れ得ず、両の手を後方にまわしたなやましげな姿体は、単なる土の作品ではなく、私自身だと直覚されるものがありました。胸はしめつけられて呼吸は止まり、私は、もうその床の上にしばらくも自分を支えて立っていることが出来ず、・・・・」
と、「女」に接した衝撃的印象を綴っている。場面は違うが、黒光の子供たちが「女」を見たとたん
「カアさんだ!」
と叫んだ。母親の雰囲気を感じたのだろう。守衛の心が、黒光に向けられていたのは確かだった。
 既に五人の子供を産んだ、しかも同郷の先輩格である相馬愛蔵の妻である黒光に守衛が恋愛に似た感情をなぜ寄せたのであろうか。それは、彼女の中にある「理知的な母性」のためではないかと思うのである。中村屋は、守衛の死後、芸術家のサロンのようになるが、それは、黒光にサロンの女王の魅力を男たちに感じさせる資質があったからである。相馬黒光という女性は、多情の人ではない。浮気のできる人では、もちろんなかったが、愛に満たされない、孤独な芸術家にとっては「男をその気にさせるが、肝心なところには踏み込ませない」女であった。画家、中村彝などは「理知的な母性」を強く感じた一人だったであろう。荻原守衛に「女」を造らせた相馬黒光とはどのような女性だったのであろうか。

 彼女の旧姓は、星良と言った。仙台伊達家に仕えた士族の娘である。生まれたのは明治八年である。若い時から利発で、儒学を深く学んだ祖父を持ちながら、キリスト教に惹かれ、女性ながら学問を身につけようと、横浜のフェリス女学校や勝海舟を取材して書いた『海舟座談』の著者である巌本善治が校長をしていた、明治女学校に学んでいる。明治女学校では、若き島崎藤村の教室に席を置いたこともあった。国木田独歩の最初の妻であった佐々城信子は、いとこにあたり、その破局の修羅場の渦中にあったりもした。後に、有島武郎が信子をモデルにして書いたのが『或る女』である。星良は、理知的であるばかりでなく、気骨があり、女性の自立を先駆けるような青春期を過ごしている。
 良は、作家になりたいと思うことがあったらしい。樋口一葉に刺激されたこともあった。世に出るほどではなかったが、文学作品も書いた。「黒光」はペンネームである。名付けたのは巌本善治で
「あなたは、ギラギラし過ぎるから、それを抑えた方が良い」と言って与えたのだという。アンビシャス・ガールと良を呼ぶ人もいた。男勝りの性格が少女時代の良にはあった。そのような、明治には異質な女性であった彼女が伴侶にしたのが、信州の山深い穂高村の相馬愛蔵であった。他人から勧められた結婚であった。愛蔵は士族ではなかったが、富裕な地主の後継者であり、早稲田大学の前身である、東京専門学校に学んでおり、キリスト教にも理解を示す青年であった。しかも容姿端麗で、見合いを勧める人からしてもつりあいのとれた結婚と思えたのであろう。
 良は、交通の不便な時代に山々を越え、相馬家に嫁いだが、農村での生活は長く続かなかった。子供も産まれたが、おそらく心の悩みによる病により、娘を残し再度上京することになる。相馬家の人々は皆心温かい人だったと良は『黙移』の中で述べている。家長であった愛蔵の長兄である安兵衛は人格者であり、土地の人々から尊敬されていた。良が、自然豊かなこの地に留まれなかったのは、良が農民の体質を持っていなかったからだったと思う。
 彼女の理知的な面を満たすものが安曇野に住み続けることを生理的に拒んだのだろう。夫の愛蔵は、相馬家を継ぐことを断念して、妻とともに生きる道を選んだ。明治の人にとっては、勇気ある決断である。良の無意識の自己主張は、病という形で夫を動かし、相馬家の寛容を引き出したと言える。彼女が相馬家に滞在したわずかな時間と限られた空間で青年荻原守衛と出会い、彼を不朽の芸術家として目覚めさせたとも言えなくはない。
 碌山美術館から、秋の安曇野をサイクリングすることにした。穂高駅前には、自転車を貸してくれる店が多い。この日は、職場のハイキング同好会のメンバーが一緒で、総勢七名である。観光も兼ねているが、健康のための運動もできるようにという会の方針があるので、「大王わさび園」までコースにした。片道約三キロはある。田の稲は既に刈り取られている。収穫前の稲田の中をサイクリングしたら、さぞ気持ちよかったろうと想像してみたが、空は青く晴れて陽射しも温かい。そこかしこにわさび田があるが、豊富な湧水のためである。
 
 万水(よろずい)川の透明さは、今も変わらず、水草が水中で緑に揺れている。この水の清さが安曇野の一風景だが、古い水車小屋には絵を描く人も集まっていた。NHKの「名曲アルバム」の早春賦の歌に映し出された風景として、この水車小屋がすっかり焼き付けられてしまった。早春賦の碑は、サイクリングコースの途中の堤防のような場所にあった。近づくとメロディーも流れるようになっている。自転車をとめて、にわかコーラスで歌ってみた。早春ではないが、遠く白馬岳方面に雪を薄く被った山が見えた。常念岳、蝶ヶ岳が迫って聳えているのが見える。
 安曇野という地名を一躍有名にしたのは、臼井吉見の『安曇野』の影響が大きい。全五巻の大作であるが、数年前にある人から借りて読んだが実に読み応えがあった。そして多くの安曇野ゆかりの人々を知った。相馬夫妻を通じて新宿中村屋にまつわる芸術家、文化人にも関心を寄せることになったが、今回、碌山美術館に郷土出版社発行の『臼井吉見の「安曇野」を歩く』という本があった。上、中の二冊置かれていたが、在庫がないというので見本で並べてあったものを買って読んだが、実に面白い。『安曇野』をたどるようにして、人物や、土地、その時代の出来事を取材して書いているのである。『安曇野』と同時代に書かれた、司馬遼太郎の『坂の上の雲』の登場人物の舞台を取材した本が書かれたことがあったが、この本もよく書かれている。松本市にある市民タイムスに連載されたものを纏めたというが、写真とその解説がうまくはまっている。赤羽康男という記者の力量と、臼井吉見の生誕一〇〇年記念ということもあるが、郷土愛のようなものも伝わってくるのである。
 安曇野から帰り、この本を読んでいるうちに、なぜか相馬黒光を第一走者にして、明治後期から大正にかけて生きた女性、とりわけ知的で、今日でいう男女同権を求めて自立した生き方を求めた女性たちに触れてみたくなった。最終走者は、いわさきちひろになるが、彼女は、大正生まれであり大正の女性とは言えないが、この秋の安曇野行の最終訪問地がいわさきちひろ美術館だったから加えることにした。
 平塚らいてう、本名平塚明(はる)は、わが国で初めて女流文芸雑誌『青鞜』を発行した。明治四十四年のことである。その創刊の辞が有名である。
「元始、女性は太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依っていき、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である・・・・」
結婚や家に縛られ、ただ子供を育てるだけの女性から解放された生き方を主張した人である。明治末年、誰もが女性が自立し、自己主張して生きられる時代ではなかった。今日のように男女均等法があり、選挙権のある時代ではなかった。『青鞜』を創刊する前に、平塚は、心中事件を起こしている。漱石門下の森田草平という人物と、雪の塩原温泉の山奥で心中をはかった。平塚は本気で死のうと遺書も書いていたが、森田は、妻子もあり、小説の種にしようとも考えていたらしい。平塚の家は、新聞で令嬢と報道されるくらい、当時としては恵まれた家格があった。結婚を恋愛至上主義で考えていた人であったがための行動であったのであろう。森田とは、結婚しなかったが、五歳年下の生涯の伴侶となる奥村博と結ばれる。二十七年目に、長男の兵役のことを考えて籍をいれた。婦人参政権運動や、戦後の平和運動に力を注いだ人である。
 大正五年に『青鞜』の発行権は、他人に譲った。平塚には発行を継続できる経済的な状況が、奥村との生活に生まれてこなかった。発行権を譲り受けたのが、伊藤野枝である。この時、伊藤野枝は二十歳である。伊藤が上野高女の生徒であった時に、英語教師であった辻潤と親しくなり、郷里では婚約者があったにもかかわらず、妻子ある辻と同棲をした女性である。辻との間には、二人の子供が生まれていた。『青鞜』を野枝が引き継いでから二年もしないうちに終刊となる。左傾化し発禁処分になったことも影響したが、直接の原因は、後に無政府主義者として、関東大震災の直後の混乱した状況の中で野枝とともに虐殺された大杉栄の元に走ったからである。
 大杉栄には、堀保子という内縁の妻がいた。大杉栄も自由恋愛主義者であった。さらにここに登場する女性が神近市子である。津田塾に学ぶ才女であったが、『青鞜』に関係したことにより、津田塾をやめさせられ、東京日日新聞の記者になっていた女性である。英語が堪能であり、時の総理大臣の大隈重信に単独インタビューをしたり、島崎藤村や芥川龍之介、与謝野晶子らの文士との交流により記事などを書いていた。この神近市子は、大杉栄と親しくなり男女の関係を持つようになっていた。神近市子は、経済的には自立し、大杉に金の援助もしていた。内縁の妻保子も子供連れの野枝にも自立するだけの経済力はなかった。大杉が「それぞれが経済的に自立し、別居しながら独立する」というもっともらしい提案をするが、実現するはずもなかった。いわば三角関係であり、野枝の相手であった辻まで含めると四角関係とも言える状況は、恋愛思想を超えてあまりにも異常である。
 とうとう刃傷事件までに発展する。日蔭茶屋事件といわれ、大杉と伊藤野枝が葉山にある日蔭茶屋に風呂上りの姿でいるのを見て、野枝が帰っても市子の気持ちは治まらず、用意していたナイフで大杉の首に切りかけたのである。かなりの重症であったが、一命はとりとめ、市子は入水自殺を図ったが死にきれず、自首し、裁判を経て服役した。その後の神近市子は、結婚して三児をもうけるものの離婚し、戦後社会党の衆議院議員を務めた。大杉栄という人は、父親が軍人だったこともあり、陸軍幼年学校に入ったが成績は良かったが素行が悪かったらしい。こうした女性関係をみると女たらしという言葉があてはまるような気がする。大杉の心をつかみ、女の戦いに勝った野枝は、大杉との間に五人の子供をなした。二十八歳で大杉とともに殺されるのだが、なんとも野性的な女性だと言わなければならない。
 
 大正の演劇女優に松井須磨子がいる。松代を訪ねた時に墓参まではできなかったが、生家に近い林正寺に行ったことがある。上杉謙信が、武田信玄との川中島の戦いに布陣した妻女山の麓にある寺で、“カチュ―シャの唄”の歌碑がある。
 松井須磨子の本名は、小林正子といった。松代藩の士族の五女として生まれた。姉を頼って上京し、旅館に嫁いだが離婚し、坪内逍遥が島村抱月らと設立した文芸協会演劇研究所の第一期の研究生となる。当時の日本には、近代演劇が根付いておらず、女性の自立を目指す職業とはなっていない。
 松井須磨子を有名にしたのは、ノルウェーの劇作家イプセンの『人形の家』のノラ役に抜擢されたことである。ノラは自分の生き方を貫くようにして、夫と子供を捨てて家を出るのであるが、平塚らいてうの『青鞜』は共鳴して論評を載せた。帝国劇場は、連日満員となった。“女性解放”への共感があったのかもしれない。その後の松井須磨子の生き様は良く知られている。
 島村抱月は、須磨子の間に生まれた恋愛感情が抑えがたく、早稲田大学教授の地位と妻子を捨て、同棲生活を始める。そして、新劇団(芸術座)を二人で立ち上げる。ロシアの文豪トルストイの『復活』を抱月が演出し、須磨子がカチューシャを演じた。劇中家として唄われたのが“カチュ―シャの唄”である。
 カチューシャかわいや
 わかれのつらさ
 せめて淡雪とけぬ間に
 神にねがいをララかけましょか
作曲したのが中山晋平である。彼は島村抱月の家で長く書生をしていた。この歌が『復活』の公演とともに全国津々浦々で唄われるようになり、松井須磨子は国民的女優になったのである。そして、抱月が今日で言えばインフルエンザがもとで亡くなると、後を追うようにして縊死するのである。

 平塚らいてう、神近市子など戦後民主主義に先駆けて女性の人権を訴え続けた革新的、知性的女性の男女関係、伊藤野枝や松井須磨子のように妻子ある男性の愛を奪うほどの激しい恋の中に生きた女性の軌跡を大雑把ではあるが眺めてみたが共感するところが少ない。
 大正時代には、白樺派と言われる、武者小路実篤や志賀直哉といった小説家が理想主義、個人主義を掲げ、教育界にも少なからず影響を及ぼしたが、有島武郎のように妻に先立たれ、子供を三人残しながら他人の妻と情死するような人もいた。姦通罪まで意識しての行動であったというから、覚悟の死ではあるが、文学者だから許されるというものでもない。このあたりの心理は、太宰治まで通ずるような気がする。
 大正時代は、昭和初期の個人が抑圧された、行き過ぎた国家主義の時代に比べれば日溜りのような温かさがあるが、なぜか人々に淋しさが漂っているような気がしてならない。他人を尊重し、自分を大切にする生き方が個人主義で利己主義とは違うというのだが、個人主義でも究極のところ男女は本当に幸せな関係を持ち続けることはできないような気がする。
 相馬黒光は、夫婦という枠を外すことなく、多くの男性を魅了し、母性的な好意を向け、事業家の妻として社会に貢献したことは評価して良い。彼女は、強烈な自我を持っているように見える。事実そうだったであろう。好き嫌いの感情も人一倍強かったであろう。田舎は好きではなかったし、進歩的な思想にあこがれ、文学などへの知的好奇心も旺盛だった。彼女には宗教に帰依する心があった。最初はキリスト教であり、後には仏教に惹かれていく。自分の病気のために岡田虎二郎について静座に熱中したこともあった。仏教の禅宗の修行の一つの座禅と関係ではない。
 相馬黒光の病気は、心因性のものだったであろう。彼女は、自分の内にある抑えきれないエネルギー、フロイト流に言えばリビドーを必死に宗教や道徳(おそらく幼い時に与えられた儒教)の力でコントロールしていたのだと思う。荻原守衛が、黒光を恋慕していた時、夫の愛蔵は、郷里で女性と不埒な関係を持っていた。黒光は、苦悩しながら夫を許し、子供を捨てて他の男性に走ることはなかった。
 戦後、女性は男性と対等な関係を獲得してきた。働く道も開かれ、能力により差別されることも少なくなった。労働基準法の第三条(均等待遇)と第四条(男女同一賃金の原則)がそれを保障している。ただし、性差は労働条件の中で認めている。女性にふさわしい労働条件も配慮しているのである。男らしさ、女らしさということはある。
 かまやつひろしの「我が良き友よ」の中に
「男らしさは優しいことだと言ってくれ」
という歌詞があったが、女らしさも優しいことには違いないが、その響き、香りが違うのであろう。
 自他の別が少しずつとれて、情が通い、見えない世界を意識できると、男女は喜びを分かつことができる。相馬愛蔵は、不倫を告白し、妻に詫び和解して二人手を携えて新宿中村屋を隆盛に導いた。新宿中村屋は、創業から一〇〇年を超え、その食品は多くの人々に愛され、「赤福」のような不祥事も出していない。晩年の二人の写真は仕合わせそうに写っている。東京の社会福祉施設浴風会に有料の老人ホームを寄贈したことは、よく知られている。
 相馬黒光が乙女の頃に教師として出会った島崎藤村は、教え子との恋に苦しみ、流浪のような生活から、その精神を昇華して詩を世に出した。『若菜集』は代表作である。“初恋”などは、歌にもなって今日でも口ずさむ人もあろう。藤村は、小諸時代に結婚、三男四女に恵まれたが、三人の女の子を幼くして亡くし、妻とも死別した。姪との不倫という過ちを犯したが、再婚している。再婚するにあたって、子供宛に理解を求める手紙を書いている。長く、男手で子供を育て、老後の不安を正直に述べている。こうした態度は評価して良い。子供のある身であれば、結婚は男女だけの問題とは言い切れない。藤村は、大正人とは言えないが、元来の淋しがり屋であった。というよりも生い立ちの中に、憂鬱症の体質を持っていたらしい。
 
 日帰りの安曇野行が長くなってしまった。いわさきちひろに触れて紀行文を閉じたいと思う。
 いわさきちひろの本名は、岩崎知弘で、既に他界して三十年以上にもなるが、その絵の人気は衰えない。子供と母子の世界を淡い水彩絵の具で描いて、ほのぼのとした世界を醸し出している。彼女の夫が、共産党の衆議院議員だった松本善明であることは世に良く知られている。一子、松本猛が、母ちひろの絵を多くの人々に伝えたいという想いが、安曇野にいわさきちひろ美術館を建てさせた。碌山美術館より北方に車で二十分はかかる距離にある。敷地は広く、周囲は公園のようになっている。美術館がこの地に建設されたのは、ちひろの母親の実家がこの近くにあったからである。黒姫山にちひろがアトリエにした山荘も移築されてあった。
 
 いわさきちひろの絵が好きだという女性に良く出会う。入館してみるとやはり女性が多い。展示室を見ているうちに、どこかで見た絵に似ているなと思ったら、マリー・ローランサンの絵である。同じ長野県にある蓼科の美術館で見たのではないが、数点どこかの美術館で見たことがあるのである。マリー・ローランサンはフランスの女性画家だが、日本では評価されるが、母国ではそれほどではないと聞いたことがある。ちひろの絵に影響を与えたことが解説されている。
 いわさきちひろは、三人姉妹の長女で、父親は陸軍の技術者、母親は師範出の教師であり、中流以上の家庭に生まれている。戦前の良妻賢母の養成学校のような東京府立の高等女学校を卒業している。そして、二十歳をわずかに超えた歳で両親のすすめられるままに結婚する。その結婚は長続きしなかった。相手の男性を好きになれなかっただけでなく、生理的に受け付けられなかったというのである。その男性とは結ばれなかったのであるが、おそらくそのことが原因で男性は自殺した。そのことは、画人いわさきちひろ誕生に大きな影響を与えたと、東京のちひろ美術館の初代館長の飯田匡(ただす)が書いている。
 彼女は、左利きなのだが、書道は若くして師匠の助手を務めるほどの実力があった。未亡人となったちひろは、戦後、女性の自立を目指したのである。両親は、戦前、戦争の協力者のような仕事に就き、戦後は、田舎に引き籠り目立たない生活を送っていたが、ちひろは、松本市の共産党の演説会を聞き、入党するのである。松本善明との出会いは、共産党員になった縁である。
 松本善明は、海軍兵学校に入学し、東大の法科を出て弁護士になった人物で、見方に
よれば右から左に移ったということができるが、体制側にあった家庭から、共産党のような反体制組織に入党したいわさきちひろとの結婚は不思議な出会いのように思える。結婚生活は、ちひろが五十代で病没するまで終生のものになった。いわさきちひろは、水彩画家として大成し、家庭と仕事を両立させ、女性の自立を実現したのである。“知弘”という名前は、男性のように見えるが、文字のとおりいわさきちひろは知性溢れる女性と言える。彼女の絵には、温かさも感じるが、冷めた知的な精神が表現されている。
 美しい秋空に雲が残っているが、美術館の近くに聳える山々は暮れかかり、山岳同好会のメンバーを乗せて家路を急がなければならない。


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