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2013年10月22日

『白萩』(拙著)イタリア紀行Ⅵ



 アッシジからローマまでは、バスで三時間ほどかかる。高速道路だが、古代ローマ人が建設した街道と重なっていたかもしれない。ローマ人が情熱を注ぎ、地味に整備したのは、道(街道)である。ローマ人が支配する地域が広がるにつれ、その道は伸びていった。アッピア街道は、ローマから南に向かう街道の一つであるが、現在も遺跡として一部が残っている。紀元前に整備されたというから驚きである。さらに驚嘆する点は、石で舗装され、歩道まであるのである。軍用道路の性格もあるが、帝国内の人々が安心して往来できたという。途中には、宿泊施設や食堂もあり、旅人や商人の便宜を図り、地図まであったらしい。途中の河川や、谷には橋を架けた。その技術は、石造りだが現在と比べても遜色がない。ユーロの紙幣の裏を見ると、ローマ時代の橋が印刷されている。


 道路だけではない、水源地から都市に水道を引いている。長く巨大な水道橋が、ローマだけでなく、ローマ帝国であったヨーロッパ、北アフリカなどに数多く遺跡となって残っている。このインフラ整備は、ローマ文明の美質と言っても良い。平和の時代にあって、多くの人々の生活を潤したであろうから。ローマにはカラカラ浴場始め、いくつかの巨大な浴場が建設された。新鮮な水と入浴ができたことは、衛生上の多くの問題を解決したであろう。医学は、ギリシャ人の方が進んだ知識を持っていたであろうが、健康管理の面からすれば、ローマ人の方が上であったかもしれない。ローマの英雄、シーザーは、暗殺されたのが五六歳の時であったが、身体は壮健であったらしい。シーザーの暗殺後、ローマの初代皇帝となったアウグストゥスは、四〇年の治世と七七年の天寿を全うしたことを考えると、紀元前後の平均寿命のことを考えれば、水道の役割は、人々の寿命に大いに貢献したことは明らかであったと考えられる。

 道路や水道の整備には莫大な費用がかかったであろう。資材は石であったとしても労力がいる。ローマは、税制が確立しており、国家の使命として建設されたという。そして、建設にあたったのは、軍隊であったという。ローマの軍隊は、建設の技術も持っていた。戦争が一段落すれば、道路を整備し、首都ローマへの交通網が確立する。〝すべての道はローマに繋がる〟という言葉の意味はここから生まれた。軍事の最前線の兵站を確保し、情報も首都にいる皇帝にもいち早く伝えることもできた。メンテナンスも平時には怠らなかった。今、日本では、道路財源について論議が活発であるが、幸いにして戦争のない時代、自衛隊が道路整備にあたるという発想にならないかと、政治の素人は考えたくなる。水道橋や古代の街道は身近では見られなかったが、イタリアに滞在中、脳裏から離れなかった。
 
 塩野七生の『ローマ人の物語』は、彼女の永遠の恋人である(?)シーザーのために書かれたというのは言い過ぎだろうか。シーザーについては、一五年間のうちの二年間を費やしている。いや、一五年間意識し続けたであろうことは、容易に想像できる。シーザーは、英語の発音表現であるが、ラテン語ではカエサルである。カエサルは、皇帝をも意味しているが、シーザーに統一することにする。
シーザーは、紀元前一〇〇年頃に生まれた人である。貴族の出ではあったが、ローマ市民に人気があり、特権階級であった元老院に所属する人々には不人気であった。それには理由があるのだが、広大な領地を占めるに至ったローマの平和を維持するための政治形態として、共和制には限界を感じ、帝政に移行させた人物だからである。ローマは、建国当初、王制であったが、元老院という今日でいえば、国会の機能を持たせていた。王室の専断で王は決められなかったのである。そして、共和制に移るのだが、最高権力者とされた、執政官は任期があり、選挙で選出されたのである。一人に権力が集中する独裁ということを極端に嫌った伝統がある。軍隊さえも文民統制(シビリアンコントロール)が厳格に機能した。そのことを知らなければ、かの有名な、シーザーのルビコン川越えの意味はわからない。小川のようなルビコン川を渡り軍隊を率いてローマへ向かうことは国法で禁じられていた。即反乱罪になるのである。

 シーザーの青年時代、スッラという人物が独裁的な権力を持ったことがある。シーザーも反対派としてそのリストにあげられたことがあった。妻との離婚を要求され、シーザーは拒否し、逃亡生活を送った。スッラも国禁を犯したが、ルビコン川でなく南のブリンディジ港からローマに兵を進めたのである。強力な軍隊が背景にあり、地中海周辺の覇権を長く維持したローマは軍政という政治形態を共和制の中で強く拒否したのである。このことは、現代の政治形態に与えた良い見本となっている。
さて、シーザーの魅力はどこにあるのだろうか。イタリアの教科書では次のように教えている
「指導者に求められる資質は、次の五つである。知性、説得力、肉体上の耐久力、自己制御の能力、持続する意志。カエサルだけがこの全てを持っていた」
莫大な借金をし、多くの女性との醜聞にも事欠かなかったシーザーであったが、借金は自分の私欲のためではなく、結果的には返済しているし、愛人とされる女性から非難されたこともなかった(?)ことも、塩野七生は彼を弁護するように書いている。愛人たちの夫の多くは元老院に所属する有力者であったが、シーザーを敵視し非難しなかったという。元老院で弁舌鋭い小カトーにメモを見ているシーザーが糾弾されるが、それは恋文であったことがわかり、元老院は爆笑に包まれ、シーザーの陰謀の疑いも晴れたというエピソードまで残っている。
シーザーは軍人としても卓越した能力を持っていた。人心掌握の能力があり、人を魅了する能力があった。『ガリア戦記』は、戦況報告書であるが、簡潔、明瞭で政敵であった、キケロさえ高く評価している。さらに、武力による支配だけでなく、征服された人々にもローマ市民権を与えるという寛容さも持ち合わせていた。その結果、ガリアからも後世、皇帝が生まれることになる。
ローマの中心部にある、フォロロマーノにシーザーの遺体を火葬したとされる場所が残っている、見学のその日も花束が供えられていた。シーザーの遺体が焼かれた後に激しい雨が降り、遺骨や遺灰はどことなく流されてしまったという。だから、シーザーの墓はない。ローマの地にしみ込み、川から地中海へと流れ去った。しかし、その名は、後の世に残った。
ローマ市内、トレヴィノ泉からそれ程遠くない市街地の一画にパンテオンがある。古代ローマの建築様式がそのまま良く残っている。ローマ帝国の初代皇帝となったアウグストゥスは、行政的能力は抜群であったが、軍事については不向きで、能力もあるとは言えなかった。義父のシーザーはそれを見抜き、補佐役を指名していた。アグリッパである。パンテオンを建築したのは彼である。百年後、パンテオンは火事で焼け、二世紀の初めにハドリアヌス帝が再建した。

 巨大なドームは石と古代コンクリートで造られている。天井からは光が注ぐ。サンピエトロ大聖堂のような目に眩いばかりの装飾はない。ツアーの自由行動のわずかな時間を割いて見ることができたのは幸運であった。この建物を、一度は見てみたかったのである。三十七歳という若さで亡くなったラファイエロはここに葬られている。建物の中には大勢の人々がいたが、不思議と心が落ち着くのを覚えた。
パンテオンは、「全ての神の館」という意味である。ローマは多神教の国であった。しかし、ローマ帝国は、東ローマ帝国の基礎を築いたコンスタンティヌスによってキリスト教を容認する。そしてやがてキリスト教は国教となり、皮肉にも西ローマ帝国は滅びる。そして、イタリア半島は中世の封建時代に向かうのである。封建時代とは、小領主が群雄割拠して身分が固定される社会である。その間、都市と都市の間での戦争が繰り返された。キリスト教は、ヨーロッパ全体に広がっていったが、ギリシャやローマの文化は忘れ去られていく。ピサの斜塔から大小の球を落とし、落下の法則をつきとめたガリレオのような科学的精神が束縛されたのも中世ヨーロッパであった。彼は、地動説を唱えたために宗教裁判にかけられている。
ミラノをかわきりに、北イタリアからナポリ、ポンペイまでをバスで移動し、ローマの文化、キリスト教文化を目の当たりにした。最高峰の芸術作品、建物、そして遺跡を見ることができた。ミケランジェロ、フランチェスコ、シーザーという偉大な人物を想い浮かべることもできた。イタリアは西洋史の宝庫である。今回の旅は、入門編にして再度訪ねる機会を作りたい。


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