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2013年10月23日

『白萩』(拙著)イタリア紀行Ⅶ

シーザーの寛容
 

 イタリア紀行は、書き終えたつもりでいる。しかし、どこか書き足りないという気分が残っている。また、〝締め〟ができていないという気もしてきた。ユリウス・カエサル、ジュリアス・シーザーのことについて考えていたからである。紀行の中でも、シーザーには触れたのだが、イタリア旅行中、とりわけローマ滞在中、シーザーという人物をどう理解したらよいかと思い悩んでいた。
 「ここを渡れば、この世の悲惨。渡らなければ我が身の破滅。進もう!我々を侮辱した敵の待つところへ!賽は投げられた」
ガリアから、ローマの元老院の「最終勧告」による召還命令により本国へ戻ることは、シーザーにとって政治的失脚と死を意味していた。愛するローマに反旗を翻し、ルビコン川を渡ったのは、果たしてシーザーの野心のためであったのか。野心の有無などは、問題にすべきではないかもしれない。彼は、政治家だからである。ポンペイウス、クラッススと三頭政治により、ローマの有力政治家になったのも、シーザーのしたたかな政治家としての深謀による。オリエントでの戦いにクラッススが戦死してから、三頭政治は、バランスを崩し、シーザーを警戒する元老院がポンペイウスを引き入れ、シーザーに対立させるに至ったのである。
 ここから、内戦が始まる。『内乱記』などにより、最終的にはシーザーが勝利を得たことを後世に生きる我々は知っている。ポンペイウスと雌雄を決したファルサルスの戦いや、反カエサル派を北アフリカで駆逐したタプソスの戦いなどは、塩野七生が『ローマ人の物語』でわかりやすく解説している。この内戦の期間や、暗殺されるまでの政策にまつわるいくつかのエピソードや、言葉の中にシーザーの人物像が浮かび上がってくる。
 
 共和制に拘る元老院の長老的存在であったキケロは、内戦の間、静観する立場を装い続け、いつシーザーから糾弾され死に追いやられるかと脅えていた。シーザーは、自分に「最終勧告」により、窮地に陥れようとした先鋒がキケロであったことを知っていた。シーザーは、内戦の終結がはっきりした頃、自らキケロに会う。恐れるようにして出迎えたキケロを、シーザーは馬から降りて大衆の前を肩を組むようにして一緒に歩く。そして、よい考えがあったら忠告してほしいとも言った。教養人としてのキケロの資質や、ローマを思う心情をシーザーは認めていたのである。シーザーの次の言葉は、シーザーだから言える。
「何ものにもまして、わたしが自分自身に課しているのは、自らの考えに忠実に生きることである。だから、他の人々も、そうあって当然と思っている」
キケロは、タプソスの戦いで敗れた小カトーが、シーザーの軍門に下ることを自分の信念から潔いとせず自死したことを書物に著し賞賛した。その時にシーザーがとった行動は、発禁処分ではなく、反論を書くことであった。中国、宋の太祖趙匡胤が
「行政官を、言論を理由として殺してはならない」
という石刻遺訓にも重なる。
 
 シーザーがまだ若かった頃、スッラが独裁的な権力を握ったときに行ったのは、粛清であった。こうしたタイプの権力者は多い。ソビエト共産党のスターリンなどは、その典型であろう。都合の悪い奴は消せということである。シーザーはそれをしなかった。その理由を、大作『ローマ人の物語』で塩野七生は、シーザーの精神的優位によるとしていた。つまり、劣等感があれば、敵対する者を憎み、恐れるのだと。シーザーの寛容の本源はこのあたりにあるのだろう。塩野七生が、一五年にわたり『ローマ人の物語』を書き続けられたのは、シーザーの寛容に対する畏敬ではなかったのだろうかと想像した。女性作家であるから、シーザーという男性への異性愛といったら失礼だろうか。女たらしのシーザーが、二〇〇〇年を超えてまた愛人を作ったとすれば、永遠の魂の存在を信じることができる。
 シーザーはガリア戦役から内戦を終結させ、ローマの将軍としては最高の名誉となる凱旋式を行うことができた。その時、シーザーにつき従ってきた兵士たちは、声をそろえてシーザーを称えた。
「市民たちよ、女房を隠せ。禿の女たらしのお出ましだ!」
あんまりではないかと、シーザーも抗議したが、兵士は聴き入れなかった。ただ、禿は気にかかったらしく、劣等感があったとすれば、髪が薄くなったことだったかもしれない。しかし、凱旋将軍だけが入ることを許されるユピテル神殿に近づくと、その唱和は消え、厳粛な顔つきに変わっていった。
 この兵士たちが、ストライキを起こしたことがある。長い戦役に従軍してきたことへの待遇改善の要求であった。要求が通らなければ退役するという交換条件を出した。シーザーにとっては、大事な戦いの前に、一人でも多くの兵士が必要であったし、しかも兵士たちは、ともにガリアでの苦しい戦いを戦い抜いてきた者ばかりであった。シーザーは、彼らの心理がわかっていた。そして、シーザーは、兵士に向かって
「市民諸君」
と言って、語り始め、君達が望むとおり退役しても良いといった。すると、兵士は、意外なシーザーの言葉に涙を流し、軍務を続けさせてほしいと逆に懇願した。結果、給料はあがらなかったのだが、戦いを終えた後に大いに待遇を改善した。兵士の矜持に触れる言葉を敢えて選び、兵士を奮起させる芝居だったのだが、自分に対する信頼関係を信じていたからできたことである。
 シーザーの寛容と言えば、ポンペイウスに従い、ファルサルスの戦いで戦ったブルータスを兵に命じて殺さなかったことである。愛人の子供だったからという人もいるが、命を助けられたブルータスだが、シーザーの暗殺に加わった。シーザーの有名な言葉「ブルータスお前もか」のブルータスである。シーザーの暗殺を知ったキケロは、その行為を正当化し、天罰だったとも言った。あれほどシーザーを恐れ、しかも許されたことに対してこうした豹変の仕方はなんだろうと、人格の違いを比較してしまう。キケロは、アントニウスにより殺されることになる。
 シーザーの寛容は、キリストの寛容とも違うが、社会という人間集団の中で生きていくうえで大いなる指針を包含していると思った。共通しているのは、人々の心に長く残り消えないということである。これで、イタリア紀行の結びができたような気がする。


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