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2013年10月25日

『白萩』(拙著)国内事情Ⅱ



 

 幕末から明治にかけて、中津藩の下級武士から、西洋文化の啓蒙思想家となったのが福沢諭吉である。毎日使われる一万円札が福沢諭吉だから多くの人が知っている。ただどのような人物だったかは、意外と知られてはいないのではないだろうか。昨年、大阪御堂筋近くにある適塾の建物を見学してから、機会があれば中津を訪ねて見ようと思っていた。こんなに早く実現するとは思ってもみなかったが、平成二十年三月一日が数学者岡潔先生の没三十年にあたっていて、下関の赤間神宮で記念祭が行われる日程に合わせたのである。
 福沢諭吉の旧居は、中津駅から歩いてもそれほど遠くない。旧居の横には、立派な記念館がある。駐車場も広く売店もある。観光バスも止められる広さであるが、土曜日の午後であったがそれほどの訪問者はいなかった。案内の看板を見たら、増田宗太郎の名前があった。西南戦争に加わった、増田宗太郎は、福沢諭吉の母方の親戚に生まれている。家も近かった。福沢よりも年下で、少年時代の宋太郎を可愛がっていたが、福沢が西洋かぶれしている人物だと思って暗殺しようとしたことがあったらしい。
 福沢諭吉が生まれたのは、一八三五年であるが、中津に生まれたのではない。父親が大阪に赴任していたのでそこで生まれた。父親の死は早く、母親の手で育てられたので家は貧しかった。幼い頃は、向学心もなかったが、次第に学問の面白さを覚えていく。学力もあったので、緒方洪庵の適塾では塾頭になる。福沢は、血を見るのが極端に嫌いで、医学者になろうとは考えなかった。福沢が関心を寄せるのは、蘭学から薄らと見える西洋文化である。
 「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という有名な言葉がある。しかし、それは、福沢の言葉ではない。と言えりと続いているのである。西洋に生まれた平等思想を紹介したのであるが、「門閥制度は、親の敵でござる」というのもある。こちらは、福沢の身から生まれた言葉である。福沢は、能力や身分が固定される、階級社会である封建制度を酷く憎んだ。そこから「独立自尊」が生涯のテーマになった。確かに、中津藩や幕府に仕えたが、明治になっては、政界とは距離を置いている。言論界、教育界にあっては、著述によって明治の国家に大きな影響を与えている。明治の初期に生まれ、その中でも、最も古い私学の一つである慶応義塾からは、多くの人材を政府に送り、財界にも有能な実業家を出した。北里柴三郎を支援することによって医学界にも貢献している。『西洋事情』や『学問のすすめ』は、明治の人にとっては新鮮で、ベストセラーになった。今日でも岩波文庫として出版されていて、手に取る人も少なくはない。
 『福翁自伝』も岩波文庫にあるが、福沢諭吉が晩年口述筆記させたものを自ら校正して出版したものである。この本を見ると、彼の人なりが見えてくる。有名なエピソードの多くは、この本から伝えられているのだが、蘭学を学んでいた福沢が、横浜に出かけたら看板の横文字が読めなかった。それは、英語だった。それからは、英語を必死に勉強したという切り替えの早さは、英語が国際語になると見越した先見性とでもいう話である。咸臨丸で、アメリカに渡ることができたのは、木村摂津守の従僕になれたからであるが、家臣の中に船で海を渡る勇気のある人がいなかった幸運もあったが、何よりも英語を学んだことが大きかった。その後、ヨーロッパにも行くのだが、このときは幕府の随員となって、四百両の支度金をもらった。そのうちの百両を郷里にいた母親に送金している。現代のお金に換算すると、一千万円の大金である。残りのお金は、ほとんど書籍を購入するのに使っている。そして、その書籍や見聞したことが、財産となって西洋文化の啓蒙書が世に出されるのである。
 福沢諭吉は酒豪であったらしい。しかし、お金がない時代は我慢した。借金することの嫌いな人で、金がないときは使わないという主義だった。ある時、自分の寿命のことを考えて禁酒しようとしたが、喫煙することを勧められ、生涯の愛煙家になってしまったと正直に告白しているところなどは面白い。
 勝海舟とは、犬猿の仲であったようである。『氷川清話』では、慶応義塾の拡張のために資金の工面を相談に来た福沢を追い返した話があったような気がするし、『福翁自伝』には、咸臨丸の艦長であった海舟が、船酔いで部屋に閉じ籠もっているばかりだったと書いている。一方の福沢は一人船酔いの介抱にあたり、飯炊きまでしたとその獅子奮迅の働きを誇らしく述べている。晩年の口述だから、誇張もあるのだが、海舟の江戸っ子のべランメ調の大風呂敷とでもいうべき性格に似たものを感じる。『瘦我慢の説』の中で、福沢諭吉は、勝海舟の節操のなさを、痛烈に批判している。西郷隆盛と会談し、江戸城の無血開城を果たし、江戸の町を戦火から救ったのは、勝の功績と多くの歴史家は見ているが、戦う前から負けを宣言することもなかろうと、批判している。それにも増して、福沢が許せなかったのは、幕臣として軍艦奉行や、陸軍奉行までなった身分の者が、徳川家の恩を忘れ、明治政府の高官になって、枢密院の顧問になり、勲章と伯爵を受けたことである。勝にも言い分はあったが
「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張。我に与らず我に関せず」
と、むきになって反論しなかった。行蔵は出処進退の意味であるが、批評家の福沢に何がわかるか、勝手に批判しろといったところだが、勝海舟の方に軍配を上げてもよいような気がする。福田康夫総理大臣の座右の言葉だというが、政治家は、他人の批判を気にしていたら勤まらない職業なのであろう。
 福沢は、四男五女に恵まれ幸福な家庭を築いた。記念館で見た娘たちは、皆容姿端麗で、それなりに恵まれた人生を送ったようである。妻に対しても亭主関白という風でなく、女性の権利も認めるところがあった。「西洋事情」を見てきているからであろう。
 福沢諭吉は、著述、言論、教育の中で、功なり名を遂げた人物である。しかし、国家権力からは、距離を置き、言論人として常に在野の人であった。勲章などは一切拒否した。多くの各界の有力者との交流とその人脈も利用して社会的地位を築いたが、徒党を組むことをしなかった。見事、信念であった「自立自尊」の人生を生きた人物であるが、緒方洪庵と木村摂津守に対しては生涯恩を感じていた。実に、明治にあって、個性的な生き方をした人物ではある。
 
 赤間神宮での祭事と直会に出席し、博多駅前のホテルに泊まる。翌日、友人と太宰府天満宮を参拝する。この日は「曲水の宴」が開催されていた。平安時代を偲ぶことのできる春の年中行事である。梅の花が咲いている。人だかりができていて、琴の音色が流れてくるだけで、雅な衣装を着た平安貴族の姿は見ることができなかった。そのかわりというわけではないが、数年前に完成した九州国立博物館を見学できた。
 太宰府天満宮に近い山の上に建設され、エスカレーターの設置された近代的な通路が山の斜面に整備され、参拝からそのまま博物館見学ができるようになっている。展示物は豊富であるが、以前、志賀島に行った折に、金印の事が気になっていたが、レプリカだったが、金印を見ることができた。博多湾の北、玄界灘で獲れる魚で、アラと呼ばれる魚が美味いという。九州場所でお相撲さんが買い占めてしまうというのは、少し話が飛躍していると思うが、秋から冬の季節に食べる魚である。フグよりも高価だというが、一度は食べてみたいと思っていた。予約なしで、食べられたのは幸運であった。鮑の蒸したものも付けて、和食の醍醐味を久しぶりに味わえた。福岡在住の友人さえも、めったに食することはないという。刺身、煮物、味噌汁にしていただいたいが、大満足。友人などは、身が残らないように煮魚のアラを食べている。
 「こういうのをアラ(荒)捜しというんでしょうね」
というと、駄洒落が通じたようで笑っている。イタリア料理の食感も残っていたので、口直しになったかもしれない。「国内事情」で日本を見つめ直した次第である。


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