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2013年10月25日

『白萩』(拙著)羇旅

羇旅
 俳人松尾芭蕉は、奥州多賀城祉に立っている古碑を訪ねて
「行脚の一徳、存命の悦び、羇旅の労れをわすれて、泪も落るばかり也」
と『奥の細道』に書き記している。
 はるばる訪ねてきて良かった。生きていて良かったと落涙するばかりに、表現はやや誇張されているが、感激を伝えている。羇旅という漢語を使っているが、「旅」の意味である。芭蕉は、漢文にも素養があり、漢詩からの引用も多い。
 
 芭蕉が訪ねた古碑は、「壺の碑(つぼのいしぶみ)」と呼ばれ、東北地方の歌枕として、多くの歌人に詠まれてきた。
 西行の『山家集』には
むつのくの おくゆかしくそおもほゆる つほのいしふみそとのはまかせ
の歌がある。
多賀城碑(壺の碑)は、日本三大古碑の一つであり、西暦七二四年(神亀元年)の年が刻まれている。この年は、聖武天皇即位の年であり、大和政権がこの地に多賀城という北の拠点を築いたとされている。政庁の跡もあり、周囲に柵が築かれことから、軍政一体となった陸奥国の国府として整備されたと考えられる。
 多賀城周辺には、歌枕が多い。百人一首にも収録されている
ちぎりきな かたみにそでをしぼりつつ すゑのまつ山なみこさじとは
の「末の松山」、他には奇石が連なる池で知られる「沖の井(沖の石)」、「野田の玉川」、「おもわくの橋」などがある。万葉歌人で知られる、大伴家持は、この地に赴任し、数年後に没している。家持をはじめとする都から赴任した人々の歌に触発され、平安貴族の観念的な歌を生んだ。観念的といったのは、実際に歌枕の地を訪ねたわけではなかったからである。西行や芭蕉のすごいところは「行脚」したことである。そして時間を超えて往時を偲ぶ心を持っていたことである。芭蕉が落涙する心境になったとて不思議ではない。
 個人的には、仙台市周辺には何度となく足を運んでいたが、多賀城というはるか昔の史跡を訪ねるほどの動機が生まれてこなかった。友人に歌人や俳人がいれば、松島観光のついでに立ち寄ってみようということになったかもしれないが、ついぞその機会はなかった。
 古代史を研究する友人がいて、『古代東国の王者』という大著を出版した。出版パーティーがあって、その席で署名入りの本をいただいたのだが、その内容は、専門書の難解さがあるが、多賀城碑を訪ねる強い引き金になった。三大古碑の一つは群馬県にある「多胡碑」である。もうひとつは栃木県にある。栃木、群馬、埼玉といった関東の内陸地は、地味豊かであったのか、有力な豪族が住んでいたらしい。その証拠に、巨大古墳が散在している。埼玉古墳群の稲荷山古墳からは、文字の刻まれた鉄剣が発見され、古事記や日本書紀に記述されている雄略天皇と関連する内容が読み取れるというので一時話題になった。栃木は、下毛(しもつけ)、群馬は、上毛(かみつけ)と古くは呼ばれた。毛は、豊という意味らしい。
 この一帯の豪族は、大和朝廷の臣下となり、東北地方に住む蝦夷という人々を中央政権に組み入れるために派遣されたという。多賀城碑に刻まれている鎮守府将軍大野朝臣東人は、東国の豪族の一人であったろうと友人の著書は推測している。征服者の先鋒が、関東人であるというのは後ろめたいところがあるが、多賀城碑が身近に感じられてきたのは事実である。
 
 友人、知己は全国各地にいて、年賀状などのやり取りなどをしているが、仕事を持つ身としては、なかなか会う機会には恵まれない。会うためには、時機ということもある。二年に一度くらいの周期で旅日記を書いて、友人に送っているのだが、なかには丁寧な返信をくださる方がいる。今回、多賀城跡行きが実現したのは、札幌に住むI氏からの手紙のためである。I氏の友人が仙台に数年前に定住(?)した。この人は、私の友人でもある。十回以上も住所を変えた前歴がある。大学を卒業後、宮城県側の蔵王の山麓で牛を飼っていたことがある。周遊魚のように戻ってきたとも言えなくはない。定年は二人とも過ぎているのだが、精力的に社会参加をして今も多忙な日々を送っている。I氏は、講演で忙しい。二か月前にI氏の日程に合わせ、「周遊魚氏」と仙台で会うことにした。仙台は、札幌と群馬の中間にあたる。I氏は、温泉に二泊すること以外に希望はないという。「周遊魚氏」が車の運転で移動するというので多賀城跡をリクエストしたのである。I氏とは二十数年ぶり、「周遊魚氏」とは三年ぶりの再会になる。
 五十を過ぎて、意識して旅をするようになった。子供も成人し、親の務めも半ば果たしたということもある。仕事を離れたわけではないので、休みを計画的にとることになる。長期の休みはとれないので、自ずから国内の旅になる。息抜きであったり、仕事の疲れを癒すための目的ではない。そのことは、初めての旅日記『春の雲』の後記に書いた。歴史が好きであったこともあり、そのゆかりの地を訪ねることは、楽しみになった。旅の前後、関係する書物を読むことにもなり、結構精神的な重圧も感じたが、いつしか習慣化すれば、苦にもならなくなる。何よりも現地のいろいろな事柄に遭遇し、新鮮な感動が生まれることが何よりも楽しみとなった。「月日は百代の過客にして行きこう年もまた旅人なり」なのだから、悠久な時間を意識すれば、一人旅も寂しいということにはならない。
 幾山河 越えさりゆかば寂しさの はてなむ国ぞ今日も旅ゆく
の若山牧水から、旅は孤独なイメージがあったが、彼の紀行集『みなかみ紀行』を読むと異なる感想を述べたくなる。信州や上州の山深い温泉宿を歩いて訪ね、酒を飲むのを楽しみにしていたことがわかるが、友人、知人と一緒に酒を汲み交わしている。計画的でしかも友人との再会の口実が牧水の旅でもあった。そして、紀行文として出版し、生活の糧にもなっていた。何よりも旅先で詠む短歌が多くの大正人を魅了した。
 牧水は、晩年海に近い静岡沼津の海岸近くに居を構えている。千本松原という長い年月人々に守られてきた松林が伐採される計画が浮上したことがあった。真先に反対運動を起こしたのが牧水だったのである。地球温暖化が世界の共通認識になりつつある現代よりも遥か以前の時代に環境保護を訴えたわけである。牧水が自然保護の運動家とは思えないが、緑深い山河を愛していたことは、『みなかみ紀行』を読めばよくわかる。「みなかみ」は、温泉地の「水上」ではなく、水源地の「みなかみ」である。そこには、きれいな水と木々があり、春は緑が芽吹き、夏は深緑が涼しい影を落とし、秋には紅葉して美しい。冬木立もまた良い。四季さまざまな鳥の声も聞こえる。牧水が多くの鳥を知っていることに驚かされた。
 啄木鳥の声のさびしさ飛び立つとはしなく啼ける声のさびしさ
 紅ゐの胸毛を見せてうちつけに啼く啄木鳥の声のさびしさ
草津からさらに源流に近い花敷温泉に行く途中の短歌だが、さびしい、さびしいと言っている。同行者もあり、牧水が啄木鳥の鳴き声をさびしいというのは、読者を意識しているように思えてならない。いわば常套句に近い。この時代の大衆は、さびしさに対する共感があったように思えてならない。
 牧水には、「枯野の旅」という詩がある。その中に
上野(かみつけ)の草津の湯より
沢渡(さわたり)の湯に越ゆる路
名も寂し暮坂(くれさか)峠
という一節があるが、ここにもさびしさが詠われている。牧水のおかげで暮坂峠は有名になった。それこそ、牧水が詩にしなければ、何もないさびしい峠である。
 
 久し振りの再会を果たした三人の旅に戻る。多賀城から松島の海岸を走り、瑞巌寺に参拝して志津川に一泊の宿をとる。「周遊魚氏」の配慮で、一泊は海の宿、二泊目は山の宿となった。途中に立ち寄る観光地は、特になかったが、I氏が、鶴岡に会いたい人がいるというので二日目は、東北の背骨ともいうべき山々を越えていくことになった。古川から鳴子温泉を抜けて、庄内平野に行く大移動となった。夕方には、宿に予定している赤湯温泉までたどりつかなければならない。鳴子を抜けると、尿前の関という標識が見えてきた。しばらくすると藁ぶきの大きい民家が道脇に見えた。運転する友人に急ぎ車を止めてもらう。民家は、「封人の家」と言われ、芭蕉と曽良が泊まった宿である。気がつけば、我々は、芭蕉と同じコースをたどっていたのである。ここで、悪天候に数日過ごし、芭蕉一行は最上川を下って酒田に出たのである。この宿で
 蚤虱 馬が尿する枕もと
という句が生まれたのだが、せっかく宿屋でもないのに宿を提供してくれた主の親切心に礼を失するような句を芭蕉はあえて『奥の細道』に載せたのだろうか。玄関近くに厩があり、木造の馬がいた。しかし、客間は、ずっと奥にあって畳も敷いてある。枕もとの近くで馬が小便をしたというのは少し大袈裟である。「封人の家」を見なければ、廃屋に近い家に雨露を凌いだような状況を句から想像する。ただ、厩が母屋にあるということからすれば、それなりの家になる。
紀行文に俳句を挿入するというのは、芭蕉の趣向だが、本来俳句は説明をできるだけ省くものだと思っている。紀行文の中の俳句は理解されやすいと同時に、参考書を見せられて解答する学生のようなもので、句の鑑賞能力は身につかないかもしれない。俳句は、五七五という短い文字の中に、詩韻を込めなければならないのだから、気持ちを抑制しなければならない。牧水が繰り返し、繰り返し「さびしい」という言葉を使う短歌とは違う。だからこそ、鑑賞する者は想像を豊かにしなければならない。ただ、写真でも、構図とピントが合っていなければいけないように、俳句にもこの原則は通じる。句を説明してはいけないが、スケッチはしっかりしておかなければいけない。
 芭蕉は、旅先で多くのゆかりの人々に会っている。俳句を通してのネットワークができていたのである。I氏は、シーズネットというNP0(非営利特定法人)の理事長をしている。会員は、全国に一〇〇〇人近くいるという。シーズは種の意味だという。高齢者が集い、有意義な老後を過ごすためのサークルにしたいと考えている。I氏と芭蕉が重なってきた。I氏が、旅先で、一か所だけ強く希望した観光地があった。山寺である。数年前の元日の雪の日に訪ねたことがあったが、奥の院までは辿りつけなかった。旅の最終日は、山形でも三〇度を超える暑い日であった。三人して登ったのだが、I氏はひと一倍汗をかいている。良い汗をかいたと満足していた。I氏は昔から人のために汗をかく人だった。芭蕉もそうであったのであろう。I氏のおかげで、芭蕉の足跡を自然と訪ねることができた。旅というものは、人とのご縁を意識するものである。
 
 地元の人になった「周遊魚氏」はおかしな命名をされて、気分を害しているかもしれない。企画、運転をしてくれたのはこの人なのである。一番に感謝しているのは、あなたですとはあえて言わなくても伝わっている。時間と空間を越えて縁を感じる人々に会うのが旅なのであろう。
最後に訪ねた山寺は俗称で、正式の名称は、立石寺である。開基したのは慈覚大師だと言われている。瑞巌寺、中尊寺も慈覚大師の創建だという。東北地方に仏教を広めた天台三代座首である慈覚大師(円仁)も旅の人と言えるかもしれない。
 追記
 「真情」誌を編集されていている、赤間神宮の神官でいられる青田さんから、巻頭言の依頼の電話があったのは、仙台に旅立つ前日の夜だった。原稿の締め切りもそれほど長くはない。
 「むつかしいことは書けませんがそれで良ければ」
ということでお受けした。急ぎ、紀行文として書き終えた時に、大変お世話していただいた方の訃報を受けた。岡潔先生の次女松原さおりさんのご主人の松原勝昭先生が、青田さんが原稿依頼した日に亡くなられたというのである。既に、旅に出て四日が過ぎていた。葬儀も昨日執り行われたとのことであった。早速、さおりさんに電話を入れた。淡々と闘病生活を悲しみも深い中で語られるさおりさんに不義理を詫びたが、あらためてご冥福を祈るばかりである。
 松原先生は、自宅を春雨忌(岡先生を偲ぶ人の集い)に提供される時、食事や風呂の世話などしていただいた。自分の畑で生産した梅をお送りすると、実に上手く漬けられた。紫蘇漬のきれいな梅を差し出され
 「これ荻原さんからいただいた梅です」
とおっしゃった場面が最後の記憶になっている。その色と、みずみずしく濡れた柔らかそうなパックに入った梅がはっきりと浮かんでくる。
 あの時、遠慮したのか
「いただいてもよろしいでしょうか」
と言わなかったことが、後悔の念になって
「あの時、いただいておけば良かったですね」
とさおりさんに電話口で言ったら逆に気にしないでよろしいとなぐさめられた。
 松原先生は、ご自分のことはあまり語られなかったが、地質の関係のお仕事をされていた。若山牧水とは違う目的で山深い、渓谷にも立ち入ったことがあるらしい。どこの山だか思い出せないが、群馬県にも来られたことも話された記憶が残っている。ご遺族の思い出の他に、山河の風景が病床にあって先生の脳裏をよぎったのではないかと想像した。一方的にお世話していただくばかりで、最後も弔問に駆け付けられず、申し訳ありませんでした。「真情」のこの場をおかりしてお詫び申し上げます。


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