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2013年10月29日

『白萩』(拙著)信濃の国高遠

信濃の国高遠
 
 高遠は桜の名所で名高い。数年前に、五月の連休を利用して訪ねたこともあった。その時、既に桜は散って、葉桜になっていた。今回の高遠行きも桜を愛でるのが目的ではない。車での連休中の移動は、信州の新緑を求める人々により渋滞も予想されたので、あえて桜の散り終える時期を選び、四月最後の日曜日にした。この選択は正解であった。移動はスムーズで、しかも天候にも恵まれ、快適なドライブを楽しむこともできた。途中、佐久市を過ぎると桜が満開の里もあり、山桜を見ることもできた。信州の春は懐が深い。
 和田峠を過ぎると下諏訪に入る。諏訪大社下社がある。立ち寄ることはしないが諏訪湖の湖畔で道草をすることにする。天竜川へ流れ込む水門の近くに、琵琶湖周航の歌の作詞者の銅像が立っている。小口太郎という人である。加藤登紀子が歌ったりして、親しまれているが作詞者の名前はほとんど知られていない。小口太郎は、明治三〇年に、諏訪湖に近い村に生まれ、諏訪中学校から第三高等学校に進んだ秀才である。小口太郎は第三高等学校のボート部に入り琵琶湖に船を漕ぎだした。
 
 波のまにまに漂えば
 赤い泊り火なつかしみ
 行方定めぬ波枕
 今日は今津か長浜か     
(三番歌詞)
というように、夏の琵琶湖を周航し、いつしか第三高等学校の寮歌として歌い継がれてきた。詞も良いが、メロディーに情感がこもっている。しかし、曲は誰のものか長く知られることはなかった。作曲したのは、吉田千秋という新潟県出身の東京農業大学卒業生である。吉田は、二十四歳で結核で亡くなった。曲のタイトルは、「ひつじぐさ」で詞もつけられていたかもしれない。
 小口太郎は、東京帝国大学の理学部に進み、在学中に通信の分野での発明により、特許をとる快挙を果たすが、二十六歳で夭逝する。二人とも、若くして世を去ったことが、なおさらこの歌の哀調を助長する。湖畔の柳は青み、わずかに蘆は枯れ残っている。湖面は穏やかである。ここから、高遠までは一時間あまりだが、時間は正午に近い。
 
高遠行きを決めたのは、友人に長く音楽に関わってきた人がいて、高遠に行ってみたいと言っていたのを思い出したからである。心臓の難病のため、身障手帳を持ち、数年前に車の免許も返上しているので、高遠にはなかなか行くことができないというのである。確かに、高遠は山間にあり、群馬からはそれほど遠くとも言えないのだが、交通の便は良くはない。
 彼が、高遠に焦がれる理由は以前から聞かされて知っている。ある人物の生地だからである。その人の名は伊沢修二である。日本の教育に音楽を取り入れた、明治の文部官僚である。伊沢は、高遠藩の下級武士の家に生まれている。音楽や、教育に深い関心がないので、友人ほどには伊沢修二という人物には関心が向かなかったのだが、三月に、大分県の中津に行き、福沢諭吉の足跡を辿る機会もあって、明治維新の後に日本は、西洋文化をどのようにして取り入れていったのか、少し考えてみる気になっていた。
 伊沢の生まれた高遠は、伊那市のある伊那谷からかなり奥まった場所にある。諏訪湖からは、杖突峠を越えなければならないし、山梨の県境にも近いが、甲斐駒ケ岳が聳えている。このような場所に、江戸時代には、三万石あまりの小藩といえども戦国時代に城が築かれ、城下町を形成したことは不思議である。
諏訪氏の一族であった高遠氏が戦国時代の城主であったが、武田信玄により滅ぼされ、その子の勝頼が住むこともあった。武田氏が亡んだ後、徳川家康の所領となるが、三代将軍の家光の異母弟である保科正之が一時城主になったこともある。保科正之は会津に移り、幕末には内藤氏が藩主となっていた。江戸期の大名は皆譜代であった。内藤氏の江戸屋敷は、新宿にあり、新宿御苑はその屋敷跡だという。しかし、藩の財政は常に苦しかったようである。
 
 伊沢修二の家も二〇俵二人扶持で、しかも子沢山であったため家計は甚だ苦しかった。祖父の代に内藤氏に仕えたが、それ以前、祖先は、ほそぼそと暮らしていた。さかのぼると伊沢家は武田氏に仕える武士だった。伊沢(いさわ)の名は石和からきているらしい。山梨にある地名である。家は貧しかったが、父親は、学問が好きであり、母親もまた学者の娘であった。伊沢修二を世に出したのは学問への志による。
 信州はそばの産地である。高遠も例外ではない。〝高遠そば〟が名物になっている。大根おろしに焼き味噌を入れて食べる。飽食暖衣の時代、そばのような食べ物が見直されているが、いかにも主食としては心細い。江戸時代、三食とも白い米を食べられたのは、特別な階級の人であったろう。自分の体験でも、終戦から一〇数年経った、昭和三十年代の群馬の片田舎の夕食は、うどんが多かった。そばは、現在、健康食の王様のような食材になっているが、畑地の多い信州では、貧しさを補うための存在だったのかもしれない。鎖国の中にあって、江戸時代の経済の中心になった食べ物は、米であった。
 吉川弘文館から発行されている人物叢書の中に伊沢修二が紹介されている。著者は上沼八郎で昭和三十七年に初版が出されているが、伊沢の経歴を良くまとめている。その目次の第一は〝「貧士」の家風〟となっている。その中に、少年伊沢修二を良く伝えている一文があるが、それは、伊沢の自伝からの引用でもある。
「少年の伊沢を慰めるものといえば、春山の蕨採りや蕗引き、夏山の魚とり、秋山の茸狩りであり、そして冬の信濃では、炉辺で書物をひもとくことが無上の楽しみであった」
貧しいながらも、楽しみながら生きる術を持っていた。なにより、向学心に燃える少年であった。
 高遠城址に向かうそれほど広くない道に面して高遠藩の藩校ともいうべき、進徳館の建物が今も残っている。伊沢修二はここで学び、成績が優秀であったこともあり、寮長にもなっている。伊沢の俊才ぶりは藩内に広く知られるところとなり、明治初年に明治政府は、各藩から秀材を貢進生として召集し、高遠藩からは、伊沢一人が選ばれた。後に外務大臣になった小村寿太郎も日向の飫肥藩の貢進生であった。実務官僚の養成のためであったが、能力の差や勉学態度に問題があり、再編成することになったが、伊沢修二は、エリート養成コースから外れることはなかった。
 伊沢修二、二十三歳の時のことである。貢進生として学んでいた大学南校は廃止されたが、学制により文部省傘下の学校で学んでいた伊沢は、持前のリーダーシップと学力を評価され、幹事となっていた。今日でいう生徒会長のような立場であったが、身分は文部省の少壮官吏でもある。同僚の生徒が、九段坂付近で雪を投げたのを、警察官に咎められたのを理不尽だと反論し、警察も手落ちを認め、罰金を返上することになった。しかし、時の司法大輔であった江藤新平は、司法省の面子と権威の失墜にこだわり、強引に伊沢に罰金を払わせ、そのため文部省を辞し、非職の身となった。このエピソードから人柄が良く伝わってくる。
 負けず嫌い、不合理、不正など道理に合わないものに対しては、理を持って対抗する気概、不当な権力の干渉には引き下がらない気迫、潔癖で正義感が強い、几帳面であり誠実さもある。こう書いてみると信州人の典型的な人物のような気がしてくる。良き武士道の精神も父母の教育や、進徳館の教育も加わり伊沢修二という人物を創りあげていたのかもしれない。癇癪持ちだったが、涙もろい人でもあり、エネルギッシュな行動家でもあった。「野人的叛骨精神を持った開拓的教育家」と評す人もいて、スケールは信州人には収まらず明治人としての見本のような人物とも言える。
 余談だが、多くの人が長野県の人は頭が良いと思っている以上に、理屈っぽいと感じているのではないだろうか。対して、隣県の群馬県人は情にもろいと言われている。長野新幹線は、碓井峠を抜けると速度が遅くなるという話があった。もちろん、この話は嘘なのだが、新幹線の用地買収を進める時、長野県人を説得するのは容易でなかったらしく、時間がかかったことを暗に匂わせている。
 
 伊沢修二の功績は、高遠城址の近くに生家が保存され、庭に顕彰碑が建てられているので概観することができる。アメリカの師範学校に留学し、帰国後は、東京師範学校の実質的な責任者となる。東京師範学校は、戦後の学制改革で東京教育大学となり、多くの中等、高等学校の優秀な教育者を輩出した。次に手がけたのは、教育に音楽を取り入れる教育事業で、当時文部省には音楽取調掛という不思議な名前のセクションができた。伊沢より後輩になるが、岡倉天心も音楽取調掛に一時籍を置いたことがある。
小学唱歌を編集出版し、「蝶々」や「蛍の光」、「みわたせば(むすんでひらいて)」などが収録された。伊沢がアメリカ留学の時に世話になった、メ―ソンが来日して協力したことが大きかった。
伊沢は師範学校に留学した時に、西洋音階が上手く発音できず、メ―ソンの助力を得て、音楽の科目を何とか履修することができたのである。校長が、東洋人には無理だから免除しようというのを伊沢の元来の負けん気が、克服させたのだが、メ―ソンとの出会いを生んだ。また、伊沢の英語の発音は、正しいものでないことを留学中に知らされ、その矯正のために電話の発明で知られるベルと知遇を得ることもできた。ベルから教えられた発声の矯正法である視話法を取り入れ、楽石社を創設して吃音者の矯正に貢献した。そうした、社会事業家としての功績も忘れてはなるまい。明治二十年に東京音楽学校が創設されるが、伊沢修二も校長になっている。東京音楽学校は、岡倉天心が校長になった東京美術学校と一緒になり、戦後の学制改革で東京芸術大学になっている。伊沢が目指した音楽教育は、高度な芸術性を追求することよりも、知育、徳育、体育といった教育が本来目指すものに主眼が置かれていたのだが、芸術家の養成学校のような道に舵をとっていたことを嘆いたという。
伊沢修二についての功績は、日本の教育界に留まらなかった。日清戦争の勝利によって、台湾を割譲し、民族、文化の異なる地での教育に取り組んだのである。このあたりのことは、司馬遼太郎の『台湾紀行』にも書かれているのだが、伊沢が台湾に赴任したときの世情は不穏な状況で、新しい統治者になった日本に、反抗する勢力が多く、実際抗争も繰り返された。命の保証もないないところに、教育を普及しようとしたのは、やはり伊沢の開拓精神であろうか。多くの研究者が、伊沢の教育思想は、国家主義的であり、皇民教育だったと指摘するが、明治という時代背景を考慮しないと批判はできない。
大久保利通が明治の官僚国家の基礎をつくり、民権運動が弾圧され、議会の開設を急がなったのも、民意のレベルの上がるのを待つ必要があると考えていたからだとされている。大久保という政治家は、西郷隆盛とは政治の手法と日本の将来像の描き方が異なっていたが、私情で政治を行う人物ではなかった。黒船が鎖国の眠りを覚ましたというが、庶民はどれほどの危機感を持っていたかというと、日々生きることに意識が強かった。当時日本に訪れた外国人の指摘のなかにも、大衆の多くが政治に無関心であったという内容のものがある。伊沢は、国民の教育の水準を上げることに情熱を燃やしたのである。
伊沢の台湾での教育事業は、悲劇を生む。芝山巌(シザンガン)という台北郊外にある小高い丘に教場をつくり、現地の人々教育にあたるために派遣された六人の教師は、匪族によって惨殺された。明治二九年の元旦のことである。身の安全も顧みず、護身のための武器もほとんど持たずに、芝山巌を去ろうとしなかった「六士先生」の勇気を称え慰霊のための碑も建てられたが、戦後、蒋介石軍によって破壊、遺棄された。近年再度建立されたが、政治的に撤去されるという可能性もあるという。
今日台湾は、大陸の中華人民共和国との関係に揺れている。台湾には親日家も多いと聞く。果たして台湾での日本の教育は、押し付けで多くの人々の心を傷つけてきたのだろうか。司馬遼太郎が、老台北(ラオタイペイ)として取材した人には、現在の日本人にはない美質があると書かれていたような気がする。そして、老台北自身が、日本の統治下の時代を懐かしく思い出しているような記述もあった気がする。中華民国の総統であった李登輝は、戦前、京都帝国大学の農学部に学んだ人であるが、芭蕉の奥の細道をわざわざ訪ねるほど日本文化に関心を寄せている。李登輝総統のような人物が生まれたのも伊沢の台湾における教育の布石とは無関係ではないだろう。
伊沢の目指したものを実感するには、月日はあまりにも経っているが、台湾行ってみるのも無意味ではないと思えてきた。付け足しのようになるが、伊沢修二の弟には、伊沢多喜男という台湾総督になった人物がいる。知事や東京市長も歴任した政治家であるから、兄よりも功をなり遂げたとも言えなくもないが、兄の気骨には頭が上がらなかった。多喜男の次男は、劇作家の飯沢匡で、東京にある、いわさきちひろ記念館の初代館長になった。飯沢匡も既に鬼籍に入っている。
日帰りの高遠訪問も伊沢修二という人物に偏った取材旅行のようになってしまったが、高遠ゆかりの人物は多い。ただ、自分の関心が向かない人や出来事は、見えてこない。人は見たいものしか見えないというシーザーの言のとおりである。花のない高遠城址を散策していたら、中村不折の像がない。信州高遠美術館に移設されているという立て看板があった。森鴎外や、荻原守衛の墓石に書かれた文字が中村不折のものであり、書道家としての意識が強かったが、城址下の信州高遠美術館には、見事な油絵があった。中国の故事を題材にしているのだが、中村不折には筆を改めたいと思っている。貧しさという点では伊沢修二に劣らない苦労人であったらしい。ほとんど独学の時代もあったが、向学心では、伊沢修二にひけをとらない。伊沢ほどの、国家事業に対する気概はないが、時の総理大臣伊藤博文の依頼をもっともな理由で断ったという話があって、そのことだけでも中村不折についてはいつか調べてみたいと思った。


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