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2013年10月31日

『白萩』(拙著)根岸の里の侘び住まいⅠ

 JR上野駅から赤羽方面に向かうひとつ手前の駅が鶯谷駅である。この駅から歩いて五分もかからない場所に根岸という地名がある。線路を隔てて上野の森が広がり、その一角にある東京国立博物館で奈良薬師寺の日光菩薩、月光菩薩といった、門外不出ともいうべき天平時代の国宝が展示されているというので、いつもの美術鑑賞会(?)の友人と出かけた。その寄り道に、この地を訪ねたのである。
 東京都台東区根岸二丁目に台東区が管理する書道博物館があるのを知ったのは、つい最近のことである。今年の四月の末、桜が散り観光客が少なくなった頃に合わせて、長野県伊那市高遠町に明治の教育者伊沢修二の足跡を訪ねた。その時、中村不折が高遠ゆかりの人だと知った。中村不折は、明治の彫刻家、荻原碌山と親交があり、碌山の墓標の文字を書いた人物であることは知っていた。留学先のパリで二人はロダンにも会っている。中村不折とはいかなる人物なのか、少し詳しく知りたくなって調べていたら、彼が住居にしていた場所が、書道博物館になっている。「薬師寺展」と一緒に見られると思い訪ねたのだが、書道博物館の道を挟んではすかいに子規庵の建物があった。こちらは、木造で、表札がなければ、どこにもある民家である。子規庵は、明治の俳人、歌人正岡子規が晩年過ごした家である。肺結核から、脊椎カリエスになった子規は、死ぬ数年間ほとんど寝たきりであった。
 
 友人を誘った手前、子規庵を見ようとは言い出せない。しかもメインは、薬師寺展なのだから、時間を割く余裕もない。玄関口に無料配布のチラシがあったのでそれを見て室内や庭を想像した。書道博物館を出たら、昼時間になっていて、十二時から一時までは休館と書いてある。いずれの機会かまた改めて訪ねてみようと思った。中村不折が尋ね人であったのが、子規庵の発見で正岡子規を主役にして書くことの心変わりを許していただきたい。しかし、中村不折は、子規と知己の間柄であり、これほど近くに住んでいたことから考えても親しい日常の付き合いがあったことであろう。
 タイトルを「根岸の里の侘び住まい」としたのは、勿論、正岡子規を意識している。「根岸の里の侘び住まい」に季語を着けると俳句になる。秋や冬の季語ならば、感じが出てくる。しかし、このような俳句を子規は〝月並み俳句〟として軽蔑した。子規の亡くなった明治三十五年には、既に鉄道が引かれ、根岸という場所が、鄙びた場所ではなかったと思うのだが、根岸という地名と侘しいという感情の連鎖は、俳句をかじった人間には習性のようになっている。
 
 正岡子規の本名は正岡常規(つねのり)という。四国松山に慶応三年に生まれた。徳川慶喜の大政奉還があった年である。父親の死が早かったために六歳で家督を継いだ。家というものが、明治の初期においても重きをなしていた。母親は、八重といって儒学者の娘で、晩年の子規の看病をし、長命であった。子規の家は、士族であり、貧しさはあったが、幼い時から学問のできる環境があった。松山中学から、第一高等学校の前身である、東京大学予備門に入学している。日露戦争の日本海海戦で、東郷平八郎連合艦隊司令長官の参謀として大勝利に導いた参謀の秋山真之は、同郷の友人であった。二人のことは、司馬遼太郎の『坂の上の雲』によく書かれている。
 子規は、東京帝国大学に進み、退学はしたが明治の秀才と言える。夏目漱石とも友人であった。漱石の俳句は子規の影響が強い。子規が、日清戦争の従軍記者として中国大陸に渡り、帰路の船中で大喀血をした後に、松山で中学校教員をしていた漱石と一カ月ほど過ごしたことがあった。別れる時の一句がある
 行く我にとどまる汝(なれ)に秋二つ
行く我とは子規のことであり、汝は漱石のことである。秋二つという下五句が二人の友情を感じさせて子規の中でも好きな句になっている。
 二五歳までは、長い学生(がくしょう)期であった。旅をする時間もあったが、深く思索し、書物も読んだ。子規が新聞社に入社し、社会に出てから死までは一〇年間に過ぎない。しかも、晩年の三年間は、ほぼ寝たきりの状態であった。二〇代前半には、既に結核を発病していた。作家の大江健三郎が子規は「走る人」だったと評論しているらしい。なるほどと思う。今日の短歌や俳句に与えた子規の影響は大きい。斉藤茂吉や高浜虚子などの功績も継承者としての働きもあるが、子規の「写生論」は、ホトトギス派においては、深く流れている。
 二〇代半ばで、私も俳句を作るようになったが、松野自得という人が創刊した「さいかち」という同人誌に所属した秋池百峰先生も、「写生」という方法論を良く話していた。俳句は卓上で想像して作るものではない。スケッチが必要だというのである。『病牀六尺』の中に
 「草花の一枝を枕元に置いて、それを正直に写生して居ると、造化の秘密が段々分って来るやうな気がする」
という文章がある。八月七日と記されているから、亡くなる一か月前のものである。


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