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2013年11月01日

『白萩』(拙著)根岸の里の侘び住まいⅡ

 子規の句で
 柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺
があまりにも有名だが、病床の句ではないことは確かである。「柿食えば」という俗ともいえる表現と法隆寺の鐘という組み合わせが、新鮮な情景を生んでいるのかもしれない。
 心よき青葉の風や旅姿
 若鮎の二手になりて上りけり
 島々に灯をともしけり春の海
 雪残る頂き一つ国境
 赤蜻蛉筑波に雲のなかりけり
 菜の花や小学校の昼け時
などは、行動の自由が奪われていない時代の好奇心旺盛な子規の感性が表現されている句である。
 ねころんで書よむ人の春の草
などは、自分の句で
 ねころんでそっと寄り添う花菫
を思い出させてくれた。子規の句が知識にあって作った句では決してないが、同じような場面を子規も詠っているのだなあという感慨が湧いてくる。こちらの方がロマンチックな感性があって味わい深いなどと自慢すれば、大家である子規の痛烈な批判が返ってきそうである。 
 短歌のことは解らないが、子規の俳句に対する考え方に主義主張が強すぎるとも感じる。秀句、名句はあると思うが、名もない人に素晴らしい句はある。それぞれの人のアルバムに張られた写真のように。感情を抑制したものほど、切なくも情感が伝わってくる。子規の句で
 『白萩』(拙著)根岸の里の侘び住まいⅡ
 いくたびか雪の深さを尋ねけり
などは、病状に伏せ、何度も何度も枕辺の人に、庭に積る雪への愛着といとおしむ子規の心が伝わってくるではないか。写生の句に拘ることもない。
 五月雨や上野の山も見飽きたり
よく調べて書いているわけではないが、病床にいる人でなければ、作れない句であり、正直な人の句でもある。子規の家から上野の山が見えることは、子規庵を訪ねたからよくわかる。窓越しに見える遠景はいつも同じである。
 五月雨と言えば、芭蕉の
 五月雨をあつめて早し最上川」
と蕪村の
五月雨や大河を前に家二軒
を比較し、蕪村に軍配を上げている。優劣をつけるのも子規らしいが、蕪村を世の人に再認識させたのは子規の功績であろう。蕪村は画家でもあった。子規も絵を描くことを好んだ。蕪村とは肌があったのであろう。
 子規は、明治三四年の一月から、亡くなる二日前まで病床録を書き、また口述させた。順番に、『墨汁一滴』、『仰臥漫録』、『病牀六尺』となるのだが、『病牀六尺』は昔読んでいたらしく、岩波文庫の薄い紙のカバーが焦げ茶けて、脊文字が見えないほどになっていた。ようやく、本棚から見つけ出して、『墨汁一滴』、『仰臥漫録』を購入して読んでみた。身動きが取れず、痛みに苦しみながら必死に持論と心境を書き続ける子規の壮絶な日々が描写されているのに、ついつい時を忘れ、子規庵の子規の闘病生活を思い浮かべながら読みふけってしまった。
 『白萩』(拙著)根岸の里の侘び住まいⅡ
 子規の肺は、ほとんど空洞に近く、結核菌で脊髄までも侵され、床ずれもでき生きていること自体が不思議な状況であった。彼は、生きるために必死になって食べる。その食欲というか、食べる執念が尋常ではない。『仰臥漫録』には、毎日のように食べた物が記述されている。書き始めのところの内容は
朝 粥四椀、はぜの佃煮、梅干し(砂糖つけ)
昼 粥四椀、鰹のさしみ一人前、南瓜一皿、佃煮
夕 奈良茶飯四椀、なまり節(煮て少し生にても)茄子一皿
 この頃食ひ過ぎて食後いつも吐きかへす
  二時過牛乳一合ココア交て
    煎餅菓子パンなど十個ばかり
   昼飯後梨二つ
   夕食後梨一つ
といった具合である。まさに食べることが業のようである。日々の食事を見ていくと毎日のようにさしみを食べている。鮪のさしみもある。当時海に近い東京という都会ではさしみが食べられたというのは想像できたが、鮮度を保つには、冷蔵庫のない時代だから至難であったに違いない。高価でもあったであろう。子規は、このような状況にあって、月給を五〇円もらっていた。新聞社の四〇円と、高浜虚子の主宰する雑誌ホトトギスからの一〇円である。明治三四年の五〇円は、今日の価値でいくらになのかは分からないが、かなりゆとりのある生活ができたのであろう。
子規の世話をしたのは、母親と妹の律であった。食事の世話から、看病、排泄の世話など大変だったであろう。子規は、肉親の世話に心の中では感謝していたと思うが、体の痛みと、思うにならない毎日に二人に不満をぶつけている。特に、妹の律には、強情で、気が利かない、しかも病者の心を傷つけるような言動に殺してやりたいと思うことがあるなどと書いている。
 『白萩』(拙著)根岸の里の侘び住まいⅡ
 ある日、子規が寝床の中で苦しみ、大声で訴えているのにもかかわらず、庭で二人が立ち話を続けているのに癇癪を起している。肉親だから罵声で怒りを表すことになったのだろうが、原稿にまで肉親のことを辛辣に書いている子規にも驚かされる。二人が家を空けた時に、自殺を考えたことがあった。鋭利なキリで胸を刺そうとして、思い留まるのだが、その道具をスケッチしている。修羅場である。
秋の蠅叩き殺せと命じけり
という句があるが、殺せと命じた相手は、母親か妹であったに違いない。
 殺してやりたいとか、殺せなどと口に出したりすることはひどく不遜で他人の心を傷つけることになるが、子規は、天職ともいうべき俳句の中に殺せという言葉を表現している。今は、このことを持って子規の人間性を云々したくはないが、キリスト教が人は罪人だというのも分からなくはない。
 子規の時世となった句が三句ある。いずれも糸瓜の句である。
 糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
 痰一斗糸瓜の水も間に合わず
 をととひの糸瓜の水も取らざりき
満三五歳の直前となる、明治三五年の九月一九日の午前一時頃永眠した。明治一年が一歳になるので、明治の年の歩みと子規の歳は一致している。子規庵には、同郷の高浜虚子や河東碧梧桐といった俳人や、伊藤左千夫や長塚節などが足繁く訪れている。子規は親分肌のところがあった。若い時は、政治家になろうとしたことがあったらしいが、その素質は十分にあった。病床から短歌、俳句の後継者に影響を及ぼす子規のカリスマ性は、驚嘆に値する。
 『白萩』(拙著)根岸の里の侘び住まいⅡ
 子規への案内役になった中村不折だが、子規と知りあったのは子規が二七歳の時であった。不折の方が一つ年上だが、二人の友情は終生変わらなかった。『墨汁一滴』の中で、子規は、中村不折の画に対する真摯な態度と、熱心さ、研究の深さに賞賛の言葉を述べている。他人の評には辛い子規も、中村不折には違っていた。ただ、西洋画に関心が向き、渡欧したことには不満を述べている。日本画で不折は充分大成できると子規は考えていた。身近にあって、一緒に仕事ができる話し相手が欲しかったのであろう。不折は、新聞の挿絵から、本の装丁まで手掛ける器用さがあった。夏目漱石の『吾輩は猫である』の初版は彼の手によった。
 子規と中国大陸に渡ったことから、書にも関心を示し、この道でも大家になっている。財産を、書に関する古い石碑や資料を収集に使い、晩年に書道博物館を開館させ、今日公に移管して多くの人々に観る機会を与えてくれている。子規とは対照的に、七七歳まで生きた。借金はしない人生が彼の哲学であり、信州人独特の頑固さもあった。
 「薬師寺展」も見たのであるが、寺に安置されている時にある光背がなく、日光菩薩、月光菩薩の後ろ姿を見ることができた。月の裏側を見たような気持になったが、見事に全面と同じに像は造られていた。見えない場所にも手抜きがない。不折の芸術に対する態度のようでもあり、近くに住んでいた子規にも見せてあげたいとも思った。
 『病牀六尺』の書き出しは
「病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。:::」
それは、満足した空間として、病床六尺の世界を認めているのではない。自分で、この狭い空間から移動する術がないのである。『墨汁一滴』の中に、既に失われた自由がないことを嘆いている。子規の文章を抜粋すると
「散歩の楽しみ、旅行の楽しみ、寄席に行く楽しみ、展覧会を見る楽しみ、妻と一緒に温泉に行く楽しみ。歩行の自由、寝返りの自由、足を伸ばす自由、トイレに行く自由。全ての楽しみ、全ての自由は、自分から奪い去られ、残ったのは飲食の楽しみと執筆の自由である。クリスチャンが枕辺で、この世は短い、次の世は永いから、キリストのよみがえりを信じれば幸福だとなぐさめてくれるが、それはそれで感謝するが、まずは神に、自分に二四時間の自由を与え、たくさん食べられるようにしてもらい、その後に、ゆっくり永遠の幸福を考えてみたい」と言い、そして、次の言は哲学的な深さがある。
「悟りというのは、いかなる場合にも平気で死ねることかと思ったが、悟りとは、いかなる場合にも、平気で生きていることであった」


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Posted by okina-ogi at 09:03│Comments(0)旅行記
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