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2013年11月04日

『白萩』(拙著)ごん狐の故郷

ごん狐の故郷
 『白萩』(拙著)ごん狐の故郷
 愛知県知多半島に半田市という地方都市がある。古くから醸造業が盛んで、ミツカン酢の本社と工場がある。木造の黒塗りの建物が運河一帯に立ち並び、電線や看板もなく、江戸時代にタイムスリップしたような感じがする。どこからとなく、酢の香りがしてくる。JRの半田の駅から近く、徒歩で五分程の距離にある。酢の博物館があって、無料で見学できるが、予約しないと入館できない。職場の友人の実家が、半田市にあって、父親の七回忌の法事のために帰郷することを聞いていたので、法事の前日に半田市を訪問することになった。午後二時に、駅で待ち合わせし、少し早く着いたのでミツカン酢の建物を見たのである。
創業は、一八〇四年というから二〇〇年も続いている老舗のような存在であるが、今日、日本の酢の大きなシェアーを占めている大手企業である。初代の中野又佐衛門という人が、酒粕から酢を造ることを開発し、江戸の人々に大いに好まれたという。中埜酒造という兄弟会社のような酒造会社もあるが、別会社になっている。半田市に来たのは、ミツカン酢の工場見学のためではない。半田市の出身の童話作家の記念館と、田園風景を見たいと思ったからである。
 『白萩』(拙著)ごん狐の故郷
 童話作家とは、昭和一八年に二九歳で亡くなった新美南吉で『ごん狐』の作者として知られている。ごん狐の話は、多くの人が知っている。長く小学校の教科書に載っているからである。昨年だったか、NHKの教育テレビの「こころの時代」で新美南吉のことが放映されたことがあった。映し出された新美南吉の生誕の地の風景の中で、彼岸花が一面に咲いた風景が印象的だった。ごんぎつねが、息子の兵十が母親のためにせっかく捕った鰻をいたずらして逃がしてしまった矢勝川の堤防である。そして、新美南吉の故郷は、職場の友人の故郷でもあったのである。そのことを彼に話したら、新美南吉の資料をたくさん貸してくれた。不覚にもこの歳まで新美南吉の名前さえも知らなかったのである。「北の賢治、南の南吉」と対比するほどの童話作家としての評価が高い人物にもかかわらず。
 五年前、宮沢賢治の生地である花巻を訪ねたことがある。童話を読んだからという訳ではなく、彼の生き方そのものに関心があったからである。賢治には、自然界への想いの深さと洞察力があり、何よりも
「世界が全体幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」
という言葉には感動した。「雨にも負けず」の詩の意味もわかったし、事実そのように生きようとしたことも。人生は決して長さではないとも感じた。
 新美南吉とは、どのような人物であったのだろうか。宮沢賢治ほど、人物の詳細は世に伝えられていないし、研究者も多いわけではない。新美南吉全集が刊行されているが、それを調べてみるエネルギーと時間は持ち合わせていない。友人からお借りした童話集と数冊の小冊子だけが情報源である。後は、彼の生まれ育った場所を訪ねてみるだけである。
『白萩』(拙著)ごん狐の故郷 
 新美南吉の生れたのは、大正二年である。西暦に直せば一九一三年だから、生きていれば今年で九五歳になる。本名は、渡辺正八といった。兄が夭折し、その名前を受け継いだ。母親は病弱で、新美南吉が四歳の時に死んだ。奇しくも亡くなった時の年齢は、新美南吉と同じである。新美姓になったのは、祖母の住む母親の実家に養子に入ったからである。一人さびしい少年時代であったことは容易に想像できる。また、彼の童話にもそれを感じさせるものがある。新美南吉の父親は再婚し、継母の間に弟が生まれている。その継母は、一度は離婚し、また入籍するという複雑な事情もあった。小学校、中学校と成績が優秀であった少年には、微妙な心境を与えたことであろう。
 「でんでんむしのかなしみ」という彼の作品がある。きわめて短い童話であるが、あるとき、でんでんむしは、自分の背に負った殻の中にかなしみがつまっていることに気づく。そして、他のでんでんむしに尋ねてみると、誰もがおなじように悲しみを殻に背負っていることを教えてくれる。そして、でんでんむしは、かなしみを受けとめることができるという話である。かなしみを通じた他者との共感と表現するのは、大人の世界であり、こういう話を絵本で見た子供の実感は、言葉以上のものを心に宿すことになるだろう。新美南吉記念館に「でんでんむしのかなしみ」の絵本があったので、購入したら皇后陛下がお心にとめた童話だということが、帯に書かれてあった。皇后陛下は、童話に強い関心を持たれておられることは、有名である。何がお好きかということを、外に出されないのが皇室の伝統だが、こうした童話が多くの人々の読むきっかけになるのであれば、良いことに違いない。
 以前、出雲大社に参拝した折に、皇后陛下の講演を小冊子にしたものが、無料で配布されていたことを思い出した。そこには、日本武尊と弟橘媛の話が書かれていた。夫が無事に荒海を渡れるように自ら海神を鎮めるために海に身を投じる話である。少女時代に読んだ思い出を語られているのである。新美南吉の作品ではないが『泣いた赤鬼』という短編の童話があるが、自己犠牲の愛をこの童話も伝えている。人の悲しみがわかるということは、素晴らしいことであるが、人間というのはつくづく自己中心的にできている。このような童話に感心しても、なかなか大人の知恵が働いて、自己弁護したり保身を図り、行動に移すようなことはしないものである。子供たちは、いつも先生や大人を見ている。特に先生方は、教師の言葉もあることだから「言うは易し、行うは難し」という言葉を肝に命じておかなければならない。新美南吉は、教師をしながら童話を書いていた時期があった。生徒思いの先生だったという証言があるから、童話に書かれているような心性を持った人だったのであろう。
 喉頭結核が直接の死因になるが、亡くなる年に『狐』という童話を書いている。この話も母親の自己犠牲を子供が辛く、悲しみと受け止めるのだが、『ごん狐』よりも晩年に創られただけあって、童話作家としての境地として深さを感じる。話の最後に、母親と子供の会話が出てくる。夜に、新しい下駄を履くときつねになるという話を聞かされた子供が真剣に悩むのである。そうすると、母親は、父親も母親もきつねになって一緒に山に住むと言って慰める。子供は、想像をたくましくして、猟師がきたら困ると心配する。そのときは、父親と母親で手を引っ張ってあげるというのだが、子供は納得しない。猟犬は足が速いからすぐ捕まってしまうという。母親は、そこで自分がびっこになって、犬に捕まるようにするという。子供は、それは絶対嫌だと泣き出す。そして、しばらくすると泣き疲れたのか寝てしまう。母親はそっと枕をあてがってやる。家族愛ととりわけ母親のぬくもりが感じられて、新美南吉が追い求めてきた世界があるような気がした。
 新美南吉の童話に流れている特質を、北原白秋の弟子ともいえる詩人与田準一は、「生存所属を異にするものの魂の流通共鳴」と少し哲学臭い評価をしているのだが、とりわけ動物に対する「魂の流通共鳴」が強い。柳田国男が全国から日本の昔話を収集しているが、動物を擬人化した話は多い。特に狐は、人をだます悪賢い役になるが、新美南吉の描く狐には、彼の同情も寄せられているのか、優しく可愛い印象さえある。『手ぶくろを買いに』の子狐などにその感じがある。ごん狐は、兵十の鉄砲で撃たれて死ぬのだが、傷が浅く兵十に看病され生き返り、仲良く暮らすという展開にしてあげたいとも思うのだが、ハッピーエンドではないから良いのかも知れない。
『白萩』(拙著)ごん狐の故郷
 新美南吉記念館は、駅からそう遠くにはないが、職場の友人の息子さんが、父親を乗せて駅まで迎えに来てくれて案内してくれた。写真では拝見していたが、初対面である。実に明るく、爽やかな青年である。大学時代は、ラグビーの選手でイギリスまで遠征したことがあるというたくましい肉体の持ち主であった。福祉大学を卒業して、児童の福祉施設に勤務している。記念館には、友人の母親と奥さんが待っていてくれた。職場結婚だった彼の奥さんとは、二十年ぶり以上の再会ということになるらしい。
新美南吉記念館は、少し変わった建物である。鉄筋コンクリートの建物なのだが、屋根が湾曲していて芝生が植わっている。遠くから見ると公園のように見える。建物の横を走る道路の先には、矢勝川が流れ、その先には里山の権現山が見えた。彼岸花の咲く時期には少し早かったが、早咲きのものが少しあった。新美南吉の故郷、ごん狐の故郷を訪ねる願いは充分成就したと感じた。
市の共同墓地に、友人の父親は眠っている。友人ご家族と一緒に墓参させていただく。彼の父親とは、結婚式の時にお会いしただけである。驚いたことに、新美南吉のお墓がこの墓地の一画にあった。石碑のような大きな石塔に新美南吉の墓と書いてある。なにかしらご縁のようなものを感じながら合掌した。
この日、友人とそのご家族には大変お世話になってしまった。息子さんは、駅に迎えにきてくれてからずっと車で案内役になってくれた。友人のお母さんには、明日は大事な法事があるにもあるのにかかわらず、夜、家に料理を用意してくれて歓待していただいた。こちらからごちそうしなければと思っていたのが反対になってしまった。季節に知多半島近海で獲れる新鮮な海の幸である、ワタリガニ、シャコ。手作りの塩辛、タコ。地元名物「どて焼き」、最後は、味噌煮込みうどんまでいただいた。七十歳を過ぎておられるが、息子がいつもはあまり口にしない日本酒で、酒好きの来訪者に付きあってくれたために、予約していたホテルまで車で送ってくれた。なんとも言えない心遣いに本当に新美南吉の故郷に来て良かったと思った。
翌日、熱田神宮に参拝し、静岡で途中下車し、旧友二人にも久しぶりに会うことができたが、そこでも、粋なセッテイングに配慮というものがあり、もてなされる幸せをつくづくと感じた。前日、墓参の後に野間大坊にある源義朝の墓に案内してくれた友人は、歴史好きの私のことを考えてくれたのであるが、奥さんとの初めてのデートの場所である美浜の野間埼灯台にも立ち寄り、そこが車を運転してくれた息子さんの大学時代の懐かしい場所と重なり、親子にとっても有意義な時間になったこともあり、私の旅好きの我儘も少しはお役に立ったかもしれない。群馬に帰り、この文章を彼岸花が咲き始めた時に書いている。インターネットには、矢勝川の彼岸花が満開に咲いていた。
『白萩』(拙著)ごん狐の故郷


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