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2013年11月09日

『白萩』(拙著)元旦の函館

元旦の函館
 元旦の北の旅は、今年で八年連続となる。目的地は、北海道の函館である。八年目にして、津軽海峡を渡ることになった。JR東日本の元旦パスについては、何度も触れた。ところが、発売日の十二月十五日には、元旦に函館を日帰りする計画は、既に予定列車が満席で頓挫することになってしまった。少し割高だが、長距離の移動なので、グリーン車を使おうと思っていたので、売り切れになっているとは予想外であった。駅員さんもビックリして
「グリーンの指定席は、空席があるもんですがねえ。今年はどうなっているのかな」
経済不況の影響もあるのだろうか。何しろ、函館まで一日往復一二〇〇〇円なのだから、片道で東京から帰省のために利用しても安い。
 幻となった計画は、朝六時五一分(始発)安中榛名駅を出発し、大宮を経由して八戸まで新幹線で行き、特急に乗り換えて函館に一時過ぎに到着する。現地で三時間半ほど滞在し、五時少し前に、函館を発つ。復路は、安中榛名駅に停車する新幹線はないので、高崎駅に長野新幹線の最終で一二時前に到着することができるというものであった。
 いったんは、諦めかけていたのだが、沸々と函館行きの念が高まってきた。陸路がだめなら空がある。一泊して、函館山から夜景でも見ることにしよう。いまだに、インターネットで予約した経験はないのだが、目的がはっきりすれば、なんとかなるものだ。パック旅行の扱いで、一泊朝食付で三八〇〇〇円というのがあった。翌日の便は、早朝だが、元旦の旅の目的は充分叶う。旅行会社から航空券は届かず、メールでバーコード付きの予約番号が送られてきて、そのコピーで搭乗手続きができるのである。便利な時代になったものである。全て自分ですることになるのだから、経費も安くなるはずだ。
 『白萩』(拙著)元旦の函館
 元旦の函館行きに拘ったのには理由がある。同志社大学の設立者である新島襄の海外渡航の地だったからである。昨年の十一月に京都に行き、若王子山に眠る新島襄の墓参りを三〇年ぶりにした余韻も残っている。たまたま入学した学校が同志社大学であったが、半生を振り返ると、自分のどこかしらに新島襄の精神が沁みついているような気がするのである。それにしては、新島襄の人となりについては知らな過ぎる。
 昼近くにホテルのある函館駅に空港からのバスで着く。朝市がある場所で、新鮮な魚介類が食べられる。元旦でも観光地だからか店が開いている。海鮮どんぶりを食べて、新島襄の海外渡航の地に徒歩で向かう。駅の観光案内でもらった地図を片手に、ぶらぶらと歩いて行くと、人力車引きの若いアルバイトの男性に声をかけられる。
「メタボ対策で歩きにしますから結構」
相手も納得してくれたようで、しつこく誘うようなことはしなかった。途中には、明治館のような赤煉瓦造りの建物があって、レトロな雰囲気が漂っている。歩道には雪が残っていて、転倒しないように注意して歩く。
『白萩』(拙著)元旦の函館 
 新島襄の海外渡航の地には碑が建てられている。海上自衛隊の函館基地の近くにある。向かいには人工島らしき島がある。碑は、一九五四年に同志社大学が寄贈、函館市が建立したものである。漢文が刻まれている。
 男児決志馳千里
 自嘗苦辛豈思家
 却笑春風吹雨夜
 枕頭尚夢故園花
新島襄には志があった。新島襄ばかりでなく幕末の人々の中には志を持つ人が多かった。志士と言われる人々で、文字通り武士階級に生まれている。初めは、尊皇思想に惹かれた痕跡があるが、渡航後は、キリスト教の神になった。その根本には至誠という資質があるように思うのである。国を思い、家族を思い、国民を思う。どこに重点を置くかは別にして、自分を後にする精神では一致している。加えて命がけということがなければ、志という精神は生まれてこない。その志に人々が共感するのは、至誠の精神があるからである。死の直前に詠んだ漢詩にもその精神が読み取れる。
歳を送りて悲しむを休(や)めよ病羸(びょうるい)の身
鶏鳴早く已(すで)に佳辰を報ず
劣才縦(たと)え済民の策に乏しくとも
尚壮図を抱いて此の春を迎う
海外渡航を企てた志士に吉田松陰がいる。こちらは、失敗し、死罪にはならなかったが投獄された。後に許されて、松下村塾を開き、明治国家に重き役割を果たす人物を多く輩出したことはよく知られている。松陰も至誠の人であった。
 新島襄は、一八四三年に江戸の安中藩邸で生まれた。父親の民治は、祐筆という今日で言えば藩の庶務係のような仕事をしていた。極めて誠実温厚な人物であったらしい。
祖父は弁冶といい、新島襄がアメリカ滞在中に死んだが、教養もあり、信仰心の強い人で、幼年期の新島襄の人格形成に強い影響を与えている。新島襄が幼年期を綴った文章の中に次のようなエピソードが残っている。新島襄の幼名は、七五三太と言った。命名したのは弁冶である。新島家に男児が生まれたのを喜び、「しめた!」と叫び、それがそのまま名前になったというのは有名な話である。その名付け親の弁冶が、厳しく七五三太を叱ったことがある。母親の言いつけを守らず、下品な言葉で反抗する場面を目にした弁冶が、有無も言わさず七五三太を押し入れに閉じ込めた。一時間程閉じ込められた後に解放されたのだが祖父の行為に納得がいかなかった。弁冶は、「もう泣くかんでもよい」と優しく声をかけ次のような句で七五三太を諭したのである。
 憎んでは打たぬものなり笹の雪
その祖父は、海外渡航を打ち明けた訳ではないが、箱舘(当時はそう呼ばれていた)行きの送別として
 行けるなら行って見て来よ花の山
という句で激励した。これが、祖父との永別となった。函館の地に建つ碑に書かれた故里を思う気持ちの背景には、愛情溢れる家族があったのである。
 『白萩』(拙著)元旦の函館
 この函館から日本脱出を強行した日は一八六四年七月一七日の夜半であった。その手助けをした人物が福士成豊で、後に日本で最初に函館に気象観測所(自宅)を造ったことでも知られている。共犯ということになるかもしれないのに勇気のある人物であるに違いない。新島襄の志に感動したからであろう。対照的に、ギリシャ正教の布教のため来日していたニコライ神父は、新島襄の海外渡航に反対したらしい。その真意は知らないが、自分がキリスト教や英語を函館の地で教えてやろうと言って押し留めようとした。逆に日本語や日本の知識を学ぼうとし、新島襄は四〇日程ニコライの住まいに寄宿している。国禁を犯してまでも渡航にこだわったのは、自分の目と肌で体験しなければ気が済まない、志とは別の好奇心が強く働いたからのであろう。不思議なことに、帰国後の新島襄は、東京に移って布教していたニコライとは交渉を持った形跡がない。
 この日、碑のある場所には若い男女が一組いるだけで、すぐに立ち去り碑を見るために来たのかは定かではない。碑をカメラに収め、数分目をつむり、小舟に隠れベルリン号に乗船する新島襄の姿を想像してみた。その時、海ねこらしき鳥の声がしたので目をあけて見る。鳥なら自由に空を飛べるが、新島襄のような志はない。渡航した年は、二一歳である。
「新島先生、思い切ったことをやりましたねえ」
ホテルへの帰り道、無料で開放されている足湯に浸かった。〝洗足〟という言葉もあるが、〝ぬるま湯に浸かる〟という言葉もある。自分の場合は、後者であって決して偉人にはなれないと自覚した。あえて苦難を求めるような生き方はできないからである。
 函館から上海を経由してアメリカ大陸(ボストン)に渡ることができたが、約一年の月日を費やした。上海からアメリカまでは、ワイルド・ローヴァー号という船で航海したのであるが、テイラー船長という人物が好人物であった。ジョーという名前で呼んだのは彼である。刀を彼に売り渡し聖書を買い、身も心も武士を捨てたつもりであった。しかし、武士の精神は形を変え消え去ることはなかった。士族階級であった内村鑑三にも、日本人的キリスト者という感じがあるように。『武士道』を書いた新渡戸稲造もしかりである。
 新島襄は、人との出会いにおいて幸運だったと言える。それは、彼の人格がもともと誠実だったからである。誠実さのようなものは、異国においても伝わるものである。新島襄のアメリカでの最大の理解者は、ハーディー夫妻であった。ハーディーは養父となり、生活費、学費のほとんどは、見返りも求めることなく彼から出た。夫妻は、敬虔な清教徒であった。しかも夫は実業家で、ワイルド・ローヴァー号の船主であったことがご縁になった。神の導きという言い方でも良い。つたない英語で、日本を離れた目的を新島襄は夫妻に伝えた。魂は伝わった。
G・ブッシュ元大統領の母校であるフィリップス・アカデミーを卒業し、英語の基礎とピューリタン精神を体得した新島襄だが、もともと彼の人格は、紳士的だった。改めて異国で新しい衣を纏ったという感じである。さらに、私立の名門大学であるアーモスト大学で理学士の資格を得るのだが、キリスト教の信仰への確信を得たことが彼のその後の人生を決めている。
幸運な出会いと言えば、アメリカ滞在中に少弁務使(駐米公使)として日本から派遣されてきた森有礼との出会いである。彼によって、新島襄の密出国者の立場は解かれたのである。森有礼は、帰国後には文部大臣になり、新島襄の同志社の事業に協力者となっている。留学生の身分となった新島襄だが、日本政府から送金を受けたわけではない。幾度となく、森有礼や黒田清隆、岩倉遺外使節団の随員であった田中不二麿らに官吏になることを要請されるが全て断っている。田中不二麿は、帰国後の新島襄の協力者となったが、新島襄に固辞されると
「君は耶蘇の奴隷じゃ」
『白萩』(拙著)元旦の函館
と言って誘いを断念したが、新島襄も田中不二麿には、自己保身が強く、天下を憂うる士ではないと失望する。しかし、新島襄は田中不二麿により、岩倉遺外使節団の通訳、翻訳要員としてヨーロッパの視察にも加わっている。このときにも政府の随員でなく、対等な契約により臨時に採用された形にこだわった。しかも高額な契約金だったらしい。いずれにしても、アメリカ滞在中の明治政府高官との接触は、帰国後の同志社の事業を進めていくための人脈形成に大いなる財産になったことは確かである。
十年近いアメリカ滞在を経て帰国した新島襄は、キリスト教を基盤とした学校を設立し維持発展させるため、病弱な体をすり減らしながら、募金活動と行政府とねばり強く交渉していく。それを支えたのは神への使命感であることが、多く書き残した新島襄の手紙や講演などからわかる。政府の役人になれば、西洋文明をとりいれた学校は、容易にできたであろうが、神が託したものではなかった。真の学の自由は、神のもとに忠実である精神の中にしかないという確信があった。「君は耶蘇の奴隷じゃ」という田中不二麿の言葉もあながち間違いではない。
新島襄は、筆まめであった。政府の要人にも面識はなくも、自分の考えを手紙で書き送っている。達筆でもあり、詩心もあり、まして憂国の人であったから、政府の要人や財界人からも寄付が集まった。また、行動の人でもあり全国各地を托鉢僧のように回っている。旅も良くした人である。また、新島襄がアメリカン・ボードの準宣教師であったことも忘れてはならない。アメリカからの資金が事業を大きく支えたのも事実である。
今、新島襄と重なる人物を思い出している。榛名山麓に結核療養所と老人福祉事業を築き上げた、故原正男氏である。二人の共通点が多いことに改めて驚いている。二十年を超えて原先生のもとで働けたことは何よりも幸運であった。新島先生のお導きかもしれない。
次のことは、余談であるが、函館の魚介類の中で有名なのは、烏賊だと聞いていた。蟹は冷凍技術も発達してどこでも食べられるから生きた烏賊がうまいのだという。ホテルの近くの店で活き造りの烏賊を食べさせてくれるというので注文した。調理場で料理された新鮮な刺身が出てくるかと思っていたら、食卓の上で解体し始めた。いちいち部位を説明され、眼の前に出されると食欲もわいてこない。店の人からすれば、ショーのような気分でサービスしてくれたのだが、客は閉口するしかなかった。出された烏賊は、思ったより硬い。足は醤油に浸すたびに動くし、吸盤で皿から離れず口の中でも抵抗している。人間はやはり罪深いに違いない。味わう余裕もなくビールも半分残して退散した。帰宅したら、さし歯が一本抜けてしまった。天罰に違いないと思った。


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