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2013年11月14日

『白萩』(拙著)経世済民

経世済民
 『白萩』(拙著)経世済民
 私学の雄である慶応義塾が昨年(二〇〇八年)、創立一五〇年を迎えた。福澤諭吉は、一八五八年に江戸に蘭学塾を開いた。この年は、慶応四年にあたり、元号が塾の名前になった。東京国立博物館、産経新聞、慶応義塾が主催者になって、平成二一年一月十日から三月八日まで「福澤諭吉展」が開催されている。主な会場は、東京国立博物館の表慶館である。この建物に入場するのは初めてである。古い建物らしく、エレベーターなどの近代的設備はない。
 福澤諭吉の足跡を訪ねて、一昨年、昨年と大阪の適塾や大分県の中津にある記念館に足を運んだ。『西洋事情』の福澤の著書を意識して「国内事情」のタイトルで紀行文を書いてみたが、人物像としては霧の中のように見えてこない。自分の感性からは、少しとらえにくい人物であることだけは理解した。福澤の触れた世界の広さが想像できないからであろう。政治、経済、教育、医学といった学問に通じていただけでなく、時の日本をリードした人々との交流を通して、多大な影響力を明治の文化に発揮している。
 早稲田大学を創立した大隈重信は、政治的実務能力を買われて、薩摩藩、長州藩中心の明治政府の中枢にあって政治家として活躍した人物であるが、教科書にも出てくる〝明治一四年の変〟で在野の人となる。その後、政党を組織し、総理大臣までなっている。だからというわけではないが、早稲田出身者には政治家が多いという印象が強い。
 最近の政界を見ると、早稲田に負けず、慶応も有力政治家を出していて、早慶戦も互角の様相を呈している。郵政民営化を掲げた小泉純一郎元総理、小沢一郎民主党代表は、慶応義塾大学の卒業である。けれども、慶応義塾と言えば、財界に有力者を輩出し、経済を看板にしてきた印象が強い。国鉄の民営化に臨調のメンバーとして加わった加藤寛は、慶応義塾の出身の経済学者で、小泉元総理の師でもある。慶応義塾の出身ではないが、小泉政権の経済ブレーンになった竹中平蔵は、現在も慶応義塾の経済学部の教授である。
 『白萩』(拙著)経世済民
 経済の語源は、「経世済民」という中国の古典にある言葉に由来する。江戸時代中期の儒学者の太宰春台がその意味を説明している。
「およそ、天下国家を治むるを経済という。世を経(おさ)め民を済(すく)うの義なり」世の中を治め民衆を救うのが「経済」の本義だというのである。この側面から見て福澤諭吉の功績を考えてみるのも良い。
福澤諭吉が生まれたのは一八三五年であるが、経済の中心は米であった。加工品も流通していたが、取引される主なものは第一次産業のものが多かった。しかも、オランダと中国、それも極めて限られた場所(長崎の出島)で貿易が認められるだけで、内需が一〇〇パーセントに近い鎖国国家であった。為政者である大名や配下の武士の給与も石高で示されるように米が金のような役割を果たしていた。
ペリーの黒船来航により、江戸幕府は、日米和親条約を結び箱館(函館)及び下田を開港し、鎖国体制は崩れた。その後、各国と修好通商条約が結ばれ、横浜、神戸、長崎などが開港され、海外との交流が不平等条約の形ながら始まった。しかし、国民の海外渡航は、国禁のままであった。そのような状況下にあって、福澤諭吉は咸臨丸に乗り、アメリカへ渡る幸運を得た。一八六〇年のことであるから、福澤諭吉は二五歳である。新島襄の海外渡航は、四年後の一八六四年である。新島襄は、この時二一歳であった。幕府の随員としての福澤と、脱国の新島とその手段は違っても、海外に目を向けたことは共通している。二人とも学校を開設することになるのだが、持ち帰ったものが違った。福澤諭吉が持ち帰ったものを大雑把に表現すれば〝新しい暮らし方〟ともいえようか。新島襄は、〝キリスト教精神〟である。二人の交流の記録はほとんど残っていないが、福澤も新島も大隈重信とは、深く関係している。
福澤諭吉と新島襄は明治の六大教育家に数えられる。二人を比較することにどれほどの意味があるかはわからないが、以下は個人的な印象である。先ずは人柄である。福澤は、「独立自尊」の人と言われるほど自立心が強く、他人と妥協はしないが、社交的でもあり権力とは距離を置きながらも政財界に知己が多い。言動は、大言壮語、大風呂敷、毒舌ともとられる歯に衣を着せないところがあった。他人を罵倒することもしたらしい。しかし、封建時代の身分制度を親の敵と憎んだ彼は、庶民にも人情細やかなところがある。家族に対しては、親馬鹿といわれるほどに子煩悩で夫人に対しても優しかった。外国滞在の経験もあり、女性の立場を理解し、男尊女卑ではなかった。アメリカでは、少女と一緒に記念写真を撮る茶目っ気もあった。多くの写真を残した人だが、なかなかの美男子であり、女性にはもてたであろうが、節度はあった。男女関係のゴシップは、後世に残していない。
新島襄はどうか。生徒や夫人からさん付けや呼び捨てでも平気だった人だったから、平等思想は、言動一致して体得していた感がある。極めてストイックで紳士的人物であった。敬虔なクリスチャンという表現が使われることがあるが、新島襄はその典型であろう。しかし、素質としては、熱情の人でそれを自制したところは、信仰によるのだろう。たゆまず募金活動を続け、粘り強く許認可の交渉ができたのも、見えざる神への使命感を自覚していたからであろう。真摯過ぎるほどに神に忠実である。新島襄も福澤諭吉に負けず好男子である。女性教育にも熱心で、女性からは尊敬された。艶福家ということからも程遠い。福澤諭吉も新島襄も教育事業は別にして生活の中で、お金には困らなかったと思われる。福澤においては、著述による印税は馬鹿にならない額であり、家屋敷もりっぱだった。新島襄は、アメリカからの送金もあり、個人の家屋敷も今日でも保存され残されているがりっぱである。福澤を拝金主義と避難する人もいるが、借金をひどく嫌った人で、必要とあれば多額の寄付をしたことからもその評価は当たらない。
慶応義塾大学には、医学部がある。「福澤諭吉展」で北里柴三郎が紹介されていた。北里柴三郎は、日本の近代医学の開拓者のような存在で、細菌学の権威である。当時、細菌学者で著名であったコッホに学び、破傷風菌における発見や、ペスト菌の発見で、ノーベル賞の候補にまでなった。帰国後、伝染病研究に取り組もうとするが、古巣である東京帝国大学から暖かく受け入れられることはなかった。その時、援助の手を差し伸べたのが、福澤諭吉だったのである。土地も提供し、資金援助もしながら民間の伝染病研究所が設立され、所長に就任するのである。福澤諭吉の死後、大正になって慶応義塾に医学部が設立され、その初代の学部長、さらに病院長になったのが北里柴三郎であった。北里柴三郎という人は、肥後人らしい頑固さもあったが、福澤の恩は忘れなかった。
福澤諭吉はあくまで、在野の人を通した。明治政府からの出仕を固持している。反骨精神という言葉は、福澤諭吉には当てはまりそうだが、権威の衣を着ることは、考えもしなかった。心を売りたくないと言えばよいのだろうか。福澤がなかなか理解できなかったのは、経済について今日まであまりにも疎かった自分に原因があるような気がしてならない。
「福澤山脈」というコーナーには、経済界で活躍した人物が紹介されていた。電力事業に功績を残し、「電力の鬼」などと呼ばれた松永安左エ門や阪急電鉄、阪急百貨店、宝塚歌劇団の創業者小林一三は、福沢諭吉が塾長を務めていた時代に慶応義塾に入っている。現在、一億以上の人間が資源を多く持たない日本に住んでいる。経済活動により生み出される富がなければ、人並な暮らしはできない。昨年の後半から突然の不況の原因となった、実体経済を無視したかのような金融経済の破綻は、論外にしても、「独立自尊」から生まれた福澤的経済観にも関心を向けてみる価値があるかもしれない。


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Posted by okina-ogi at 13:00│Comments(0)日常・雑感
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