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2013年11月16日

『白萩』(拙著)商人の実学(伊能忠敬)

商人の実学
 江戸時代の後期、上総(千葉県)に生まれ、日本全国を測量し、当時にあっては、驚くほど正確な日本地図を作成した人物がいる。伊能忠敬である。日本史に登場するが、今日までその偉業の詳細を知ることはなかった。
 
 伊能忠敬は、一七四五年に九十九里浜に近い、小関という場所に生まれた。誕生の地には、徳富蘇峰の文字で「偉人伊能忠敬翁出生の地」と書かれた碑が立っている。父親は、酒造家で名主を務める神保家から婿入りした人で、漢学の素養があった。忠敬は、三人兄弟の末子であった。六歳の時に母親は亡くなり、その後、父親は、忠敬一人を残し、実家に帰った。小関家には、義弟もおり、このあたりは、江戸時代の家制度では奇異なことではなかったらしい。残された忠敬の人格形成に大きな影響があったことは、想像できる。
 十歳の時、父親に引き取られ、神保家の人となるが、寺の小僧に出されたりする。忠敬は、算学に関心があり、和尚のもとで基礎を習得することができた。後に星学(天文学)や歴学を学ぶ素養となった。
 十七歳の時、佐原の伊能家の婿養子となる。妻の達は、夫をなくしていたが子供があり、年上であった。気性も強く忠敬の肩身は狭かったであろう。伊能家は佐原では有数の商家であったが、商勢は衰えかけていた。「米糠三升あれば婿に行くな」という言葉もあるが、忠敬は、見事に伊能家を復興する。忠敬が四十九歳で隠居した時、伊能家の資産は数十倍になっていた。商才はもちろん、人徳もあったのであろう。
 天明年間に浅間の大噴火があり、全国各地が不作となり飢饉が起こった。佐原も例外ではなかった。忠敬は、大阪方面から大量に米を買い付け、貧しい近隣の人々を救済した。余剰の米は、江戸で売り利益も得ている。このあたりは、商人としてぬかりがない。
損をして得を取れではないが、困っている時に人を助ければ、やがてその恩により報われる。計算してのことではないだろうが、金持ちの出し惜しみとは無縁の人だった。
 近江商人は、遠隔地にあって富を築くことが多かった。飢饉や災害の時は率先して、蓄財を散じた。そうしなければ、住民の反感を買うことも知っていた。悪徳商法で儲けたわけではなくとも、悪徳商人と思われてしまう。家運が傾くことがなければ、富というものは、独り占めにしてはならない。打ちこわしに遭うこともありえる時代である。今日不況下にあって、収益をあげていた大企業の離職者への対応や従業員への配慮にもそのことは言える。
 伊能家のある佐原市には、今も江戸時代の面影を残す町並みが残っている。利根川の下流に近く、水郷地帯になっている。江戸時代の利根川は、現在のように銚子の河口には流れておらず東京湾に流れ込んでいた。江戸幕府は大規模な河川工事によりその流れを変えた。その結果、銚子の河口から流れを変えた利根川を溯り、支流となった江戸川を下り、江戸へ至る水路となった。この結果、海運による流通がスムーズになったばかりでなく、江戸の町が洪水になる危険も少なくなった。新田も開発され、米の生産量も増えた。
 東北地方の米をはじめとする産物は、房総半島を迂回し、江戸湾から江戸の町に運ばれていた。外海の船の運航には困難が伴い、難破することも多かった。河川を利用することにより、運航が安全になったばかりでなく、移動の距離も短縮された。佐原は、中継地となり、大いに栄えることになったのである。
 伊能家の建物は、利根川に通じる小野川べりに今も一部が残っており、近くに伊能忠敬記念館がある。高崎線から東京駅を経由し、総武線で成田まで行き、佐原の駅に着いたのは、正午前であった。高崎駅から四時間程かかったことになる。JRの「青春18きっぷ」での移動のため、新幹線や特急は利用できない。そのかわり日帰りで二三〇〇円の費用ですむ。この日は、どんよりと曇り、昼ごろから雨になった。目指す記念館までは、歩いていける距離である。駅からしばらく行くと、古い街並みとなり、それぞれの店に雛人形が飾られている。佐原という観光地らしい催しになっている。名物のかき餅を焼く香ばしい匂いも漂ってくる。
  冴え返る水郷佐原偉人あり
 
 伊能忠敬記念館は、近代建築ながら外観が、江戸時代の商家の造りになっていて、すぐには辿り着けなかった。それほどに、街並みに溶け込むように建てられている。受付を済ませて展示室に進むと、伊能忠敬像が描かれた掛け軸があった。裃を着て座り、腰に小刀を差し、大刀を脇に置いて斜め左方を見つめている。鼻筋は高く、髷を結っている中年の姿が描かれている。商人ながら、伊能忠敬は苗字帯刀を許された。作家井上ひさしは、長編『四千万歩の男』を書いたが、記念館を訪れたとき、この像の前に立ち尽くし、創作会話を交わしている。井上ひさしは、伊能忠敬像から小狡い人物を感じた。
これは、井上ひさしの独得の感性で、伊能忠敬を軽蔑しているわけではない。井上ひさしの前に現れた伊能忠敬は
「そう小狡い小狡いというな。天文学に暗いあなたのような人に私を小説にする資格はない。出版するのは禁止する。早く立ち去るが良い」
と突き放された時に、ふと我に返る。
「お願いだから帰ってください。閉館時間をずいぶん過ぎていますから」
記念館の係員に声かけられたためである。それほど長い時間、彼はこの像の前に立っていたのは事実であろう。大河ドラマに採用されるような大作として書いたと明かしているように、井上やすしの方に小狡さを感じなくもない。しかし、伊能忠敬に惹きつけられたものは何であったのであろう。
 掛け軸の横には、伊能日本地図とインテルサットが撮影した日本地図が繰り返し入れ替わるように映像で写し出されている。多少のずれはあるが、ほとんど重なって見える。
彼は、この途方もない事業をどのようにして成し遂げたのであろう。館内には、測量に使った器具が展示されている。
 家督を息子に譲り、隠居の身になった伊能忠敬は、本格的に歴学の勉強を始める。住まいを江戸に移し、高橋至時(よしとき)という、二〇歳も若い人物に師事する。高橋至時は幕府の天文方の役人であった。当時の天文学の第一人者であったが、天体観測により、正確な暦を作ることを役目としていた。伊能忠敬には、既に歴学の基礎ができていたので、さらに専門的な知識を身につけるのは早かった。
 伊能忠敬も天体観測に熱中し、金星の南中を日本で初めて観測する。伊能忠敬の関心は、地球の円周がどのくらいあるのかということに移っていく。そのためには、地上のできるだけ長い距離を真北に移動し、その正確な長さを測り、その地点と基点の北極星の角度を測ることによって可能になる。この時代、蘭学書などにより、地球が丸いということも、地動説も既に知られていた。五五歳の時、実行に移す機会がおとずれる。
 幕府は、蝦夷地の測量を許可するのである。ロシアの南下により、松前藩に任せていた北海道の統治に積極的に関わらざるを得なくなったのである。一八〇〇年のことである。しかし、幕府は許可しただけであって、費用はほとんど伊能忠敬が負担した。公共のための仕事が自腹というのはおかしな話だが、彼には躊躇する問題ではなかった。御用の旗を掲げ、諸藩の領地を測量し、緯度の一度の距離が、二八里二分(一一〇・七五キロメートル)という結論に至る。現代の測定値と一〇〇〇分の一の誤差しかないというのだから驚きである。
 伊能忠敬の地図作成の評価は、幕府の認めることになり、全国各地を測量しながら、日本全図が完成するのである。完成したのは、伊能忠敬の死後ではあったが、一〇回の測量によって実現した。最後の測量には加わらなかったが、徒歩で実測したことは、年齢のことも考えると偉業と言える。最初の測量から一七年の月日をかけている。測量先から娘に宛てた手紙には、歯が一本になって好きな沢庵も食べられなくなってしまったと書いている。彼が測量のために歩いた距離は、地球一周の距離に近かった。もう少し長生きしたら達成できたかもしれない。
「一身にして二生を経(ふ)る」とは、まさに伊能忠敬にふさわしい言葉である。今日、我々が定年後をいかに生きるかということにも刺激を与えてくれる。生活のためには、若い時夢見た人生が職業として反映されることは少ない。趣味であっても、長く温めてきたものが開花することもあるかも知れない。しかし、それは誰にでもできることではない。伊能忠敬は、歩幅を一定にし、距離を測ったという。もちろん測定器は使った。彼の凄いところは、一歩一歩を無駄にしない、意志の継続である。商人であった時代にも、一つずつ確実に仕事に取り組んでいたことは想像に難くない。しかも、学問を、自らの行動で深め、地図として形に残している。伊能地図は、彼の人生の結晶であり、作品である。
 
 伊能忠敬死後のことであるが、彼の作成した地図は、幕府の所蔵庫に保管されその存在も忘れかけられていた。副本は伊能家にも残され、高橋至時の養子である高橋景保のもとにも残された。日本に来日したシーボルトが、江戸参府の時、この地図を譲り受けたことが発覚し、シーボルトは国外退去となった。いわゆるシーボルト事件である。この結果、伊能地図は海外で知られることとなり、その正確さは評価された。
 明治になって、政府が自国に正確な地図がないと思い、イギリスの測量技師に東京湾の測量を依頼したことがあった。その時、伊能地図の存在が思い出され、その地図を見せられた技師たちは、測量の必要はないと帰ってしまったという話が残っている。陸軍参謀本部も長く使用し、若山牧水などはこの地図を頼りに旅をしたことも紀行文で知ることができる。江戸時代の佐原の一商人の実学が、後世の人々の生活に利便を与えたことは、快挙といえる。
 


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