☆☆☆荻原悦雄のフェイスブックはこちらをクリック。旅行記、書評を書き綴っています。☆☆☆

2013年11月17日

『白萩』(拙著)埼玉(さきたま)古墳群

埼玉(さきたま)古墳群
 古い地名で言うと、上野、下野、武蔵一帯に古墳群が点在している。古代、有力な豪族が存在していたことが、発掘調査で明らかになってきた。大化の改新(六四五年)以後の歴史は文献もあり、日本史で学ぶことができるが、古墳時代以前は謎めいている。考古学的発見により古代史のロマンも生まれる。邪馬台国がどこにあったかも議論が分かれている。
 
 埼玉県行田市に埼玉古墳群がある。その中で最も古い古墳である稲荷山古墳の埋蔵品から鉄剣が発見された。昭和四〇年代の初めのことである。そのことは、考古学的に見れば、特別視される出来事ではない。その後、鉄剣を調べていくと、一一五の文字が浮かび上がり、その再現により「世紀の大発見」となった。現在、金錯銘鉄剣として国宝となっている。そこに書かれていた文字から、埋葬されていた人物が雄略天皇の傍に仕えていたことが推察できたのである。西暦四七一年、稲荷山古墳の完成と年代がほぼ一致し、大和政権が、東国まで及んでいたことが明らかになった。 雄略天皇は、ワカタケル大王とも言った。その文字が鉄剣から読み取れたのである。天皇の呼称は、天武天皇からとされる。雄略天皇は、仁徳天皇の孫にあたり、二一代の天皇である。
 仁徳天皇の父君は、応神天皇とされる。母君である神功皇后とともに八幡神に祀られる天皇であるが、その存在すら疑う古代史家もいる。どことなく、応神天皇以前は、神話の世界という感じがしている。その代表的人物で英雄視される日本武尊は、応神天皇の祖父にあたっている。埼玉古墳群を訪れたのは、梅の花が終わり、桜の開花へと向かう、三月末の日曜日だったが、その一週間後に大阪、奈良、京都を訪ねる機会があった。仁徳天皇陵には行けなかったが、応神天皇、仁徳天皇を祀る神社に参拝できた。
 その神社は、京都の宇治市にあって、世界遺産に登録されている。宇治上神社という。日本最古の神社建造物として、その価値を認められたのである。本殿は国宝であるが、平安時代後期の桧が使用されていることがわかっている。宇治川を挟んで、平等院があるが、その建築は平安中期にあたる。権勢を誇った藤原道長の子の頼通によって創建された。平等院も世界遺産に登録されており、両者の関係は深く結びついている。平等院の仏像彫刻も同行した彫刻家の解説を聴きながら、そのすばらしさに感動したが、本題から逸れるので宇治上神社に戻る。
 
 宇治上神社を訪ねるのは、今回が初めてではない。今から十二年前に九州に住む友人と参拝したことがある。その後も彼と訪ねているので、三度目となる。彼は、宇治が好きで、何年間か住んだことがある。その宇治が好きな理由を聞いたことはないのだが、ある人物の存在があったことは確かである。宇治上神社には、応神天皇、仁徳天皇とともに莵道稚郎子命(うじのわきのいらつこのみこと)が祀られている。仁徳天皇の弟にあたり、日本書紀などでは、応神天皇は、莵道稚郎子命に皇位を譲ろうとしたが、それを受けず、兄の仁徳天皇が即位することになる。互いに譲り合ったので、皇位は三年間空位となったと伝えられている。
古代、政権は奪うもので、権力闘争で肉親同士が戦うことも珍しくなかった。莵道稚郎子命は、聡明な人物であったとされている。その政権移譲の方法は自殺であった。自分の苦しみから逃れる方法が多くの自殺であるが、莵道稚郎子命の場合は私情ではないと、書紀からは読みとれる。日本武尊のために海神を鎮めるために入水した弟橘媛(おとたちばなひめ)の場合と同じである。弟は兄を尊敬していたし、国のまつりごとを心から兄に託すのが良いと考えていた。莵道稚郎子命の自殺は、最高の自己犠牲とも言える。ただこうした行為は、誰でもできるわけではない。
「自分を後にして他人を先にせよ」の究極の行為である。九州の友人は、莵道稚郎子命が好きだったのだと思う。京阪鉄道の宇治駅の近くに、莵道稚郎子命の陵と伝えられる森があって、二回ともそこに案内してくれた。
 父君も兄君もいて夏木立
本殿の後ろには豊かな森がある。
 日本が国としての形を成し、政権らしきものが生まれたのは、三世紀後半とされる。畿内を始めとして各地に古墳が造られるようになった。埼玉古墳群には、円墳や前方後円墳が存在する。天皇家は、神武天皇を初代とするが、応神天皇あたりが、大和政権の初めにあたるような気がする。古代史を詳しく調べたわけではないので、このあたりは、義務教育で習う日本史の範囲を超えない。
 埼玉古墳の中にある資料館に展示されていた埴輪を見ていたら、その素朴さに改めて驚かされた。この時代、ヨーロッパでは、ローマ帝国の時代である。一年前に、イタリアに行き、ローマ時代の遺跡を見ることができた。その時代の像は、資料で見たのだが、同じ時代のものかと、埴輪と比べるとその写実性の表現の違いに唖然とする。中国大陸では、さらに遡ること五〇〇年以上前の、秦の始皇帝陵の近くから発見された、兵馬俑の武人達の姿も極めて写実的である。この違いは何なのだろうという疑問が浮かんだ。
宇治に同行してくれた彫刻家の先生に聞けば良かったと思ったが、内容が幼稚過ぎる気がして、質問をためらい、疑問はそのままになってしまった。
 
 宇治の桜を眺めている時期に、「阿修羅展」が、東京国立博物館で開催されている。阿修羅像は、奈良の興福寺で若い頃から幾度となく見てきた。三つの顔、六本の腕のある不思議な像だが、顔は少年に見える。埼玉古墳群の埴輪から、三〇〇年を経ない、西暦七三四年の作品というから驚く。しかし、多分に大陸文化の影響があって、今流に言えば純国産というわけにはいかないようである。この像は、顔や胸にその名残があるように朱に塗られていたと考えられている。平等院の仏像あたりで日本様式が確立したとは、彫刻家の先生に教えてもらったことである。
 埼玉古墳は、広々としていて、公園として埼玉県が整備している。桜もたくさん植えられ花見もできる。県民の憩いの場所である。古墳を見ても日本歴史は、まるで霧の中のようで、頭の中にはただ風が吹き抜けるばかりである。ただ、人々の生活があったことだけは、想像できる。稲作文化が、西から東、そして北へと進んでいった。宮澤賢治の心の原風景にある縄文時代からの日本古来の文化は、その北上によって消え去っていく運命にあったなどというとりとめもない想念が浮かんできた。
 今回の紀行は、文章が前後左右に揺れて、自分でも纏まりがないことがわかる。昔から、古墳に関心があったが、考古学に関心があったわけではない。今でも、考古学は地味で、わかりづらく、しかもとりつきにくい学問だと思っている。特に日本の場合、古代に文字を持たなかったために、その歴史の事実が遺跡と結びつきにくい。学者の間に論争が尽きず、定説も揺るぐのも、文章として残っていないことの影響が大きい。その点、ギリシャ、ローマ、中国などの遺跡は史実と結びつく。あたり前と言えばあたり前であるが。
 
 墳墓や古代遺跡を過去結構多く訪ねていることに気づいた。日本だけではない。中国では、秦の始皇帝陵、明の十三陵の一つである定陵もそのスケールの大きさに驚かされた。日本では、吉野ヶ里遺跡、西都原古墳はともに九州にあり紀行にも書いた。奈良、桜井市の近くにある箸墓古墳は、邪馬台国の卑弥呼の墓ではないかと報道されたことがあり、奈良で毎年開かれる数学者岡潔先生を慕う人々の集い春雨忌の帰りに訪ねたことがある。今回の、奈良行きの往路の中で、堺市にある仁徳天皇陵と考えたが、こちらは、事前の情報収集が十分ではなく、交通手段を間違え実現しなかった。
 奈良から帰り、書店に古代史関連の書物を探していたら、興味あるタイトルの著書に出会った。『東アジアの巨大古墳』という書名で大和書房から出版されている。二八〇〇円という値段は、本のボリュームからしては少し高価だが、この分野の本は読者層が少ないためか、コーナーに並ぶ他の書籍も一〇〇〇円台のものは少ない。著者の一人の中に、上田正昭の名前があった。京都大学の名誉教授で考古学の権威である。数年前に、高崎哲学堂で上田正昭の講演を聴いたことがある。司馬遼太郎との対談も世に広く知られている。高崎哲学堂は、高崎市に最近移管されたが、上田正昭は、長く常務理事をしていた私の高校の同級生である熊倉浩靖君の恩師でもある。彼も最近、古代の関東地域の研究を大書に纏め出版した。上田正昭が文章を寄せている。
『東アジアの巨大古墳』は、アジア史学会の論文とシンポジウムを編集したもので、
上田正昭は、「河内王朝と百舌鳥古墳群」の表題で書いている。仁徳天皇陵は大山古墳が正式名称で、百舌鳥古墳群の中で最大の前方後円墳である。伝応神天皇陵とされる誉田(こんだ)山古墳を凌ぎ、日本最大の規模でもある。大山古墳を古代人が造るにあたり、一五年八カ月の時間と延べにして六八〇万七〇〇〇人の労働者、そして総工費として七九六億円の費用がかかったであろうという建設会社の大林組の試算を紹介している。
 この本から、大づかみで古墳時代の日本史を紹介すると次のようになる。邪馬台国は、畿内にあって、その場所は三輪山の前に広がる平地で、そこにある箸墓古墳は、卑弥呼の後を継いだ女王台与のもので、邪馬台国は大和政権に繋がり、崇神天皇から、河内王朝の応神天皇と繋がるというものである。箸墓古墳は、我が国最古の前方後円墳で、規模も大きい。その完成は、三世紀中葉で、西暦に直せば二五〇年前後になる。大山古墳は、五世紀代のものとされるから、二〇〇年位の間に、大和政権が確立され、その影響下に関東の埼玉の地までに前方後円墳が造られるようになったと考えられる。
 本を読むと、考古学的基礎がないことに加え、規模や、知らない古墳の名前が出てきて飛ばし読みしたい衝動にも駆られたが、シンポジウムの模様の収録を読むと、不思議と古代史が浮かんでくるような気がした。熊倉君も、監訳者として名前が載っていて、改めて彼がアジア史学会の重要メンバーであることを知らされた。この本のおかげで古代史に近づき易くなったのも事実である。


同じカテゴリー(旅行記)の記事画像
上野界隈散策(2017年10月)
九州北岸を行く(平戸、武雄温泉編・2017年8月)
九州北岸を行く(唐津編)
春めくや人様々の伊勢参り(2017年4月)
東京の桜(2017年3月)
三十年後の伊豆下田(2017年3月)
同じカテゴリー(旅行記)の記事
 上野界隈散策(2017年10月) (2017-10-20 11:16)
 この母にこの子あり(2017年9月) (2017-09-12 17:44)
 九州北岸を行く(平戸、武雄温泉編・2017年8月) (2017-08-26 09:04)
 九州北岸を行く(唐津編) (2017-08-25 17:19)
 春めくや人様々の伊勢参り(2017年4月) (2017-04-04 17:56)
 東京の桜(2017年3月) (2017-03-27 16:36)

上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
『白萩』(拙著)埼玉(さきたま)古墳群
    コメント(0)